『花の下にて春死なむ』北森鴻 新装版刊行記念・冒頭無料公開! 4

文字数 2,421文字

 夜。ベッドにもぐり込んでも七緒はなかなか寝つかれなかった。時間が過ぎるほどに目が()え、枕元に広げた手帳の文字をいつまでも追い続けた。片岡草魚が、死ぬ直前まで書き残した句帳である。細いなりにしっかりと腰の据わった文字が、丁寧に敷き詰められている。句は、簡単な日記と共にあった。

 三月十五日 晴天。第一食調理パン一ケと牛乳。A公園まで出かけて、ベンチで食べる。花こそまだだが、春の気はそこここにある。

古木にも樹液満ちみちるみっしりと春
土深き所に眠りたるものに届くや陽の温かき
午後、校正紙を届け担当氏と第二食タンメン。自宅で酒二合。

 三月十六日 晴。第一食白粥に梅干。朝から仕事。隣に建つマンションのエアコンか? うなるが如き音、不快なり。午後七時より紫雲律例会。皆の歌、たいしたものなり。私のものは? 即ち(いし)(くれ)()(ごと)か。

走りつつまろびつつ月が追いかける
(つい)の住みかと心決めたる月下の野道
小石捨つる水面の苦き笑み皺

 三月十七日 寒の戻りたるか吐く息が凍る朝なり。第一食インスタントスープ。すぐに仕事にかかる。表の音も慣れてしまえば気にならなくなるから不思議である。第二食弁当。鮭焼きのみ残しておき、それで夜に酒二合。

 三月十八日 夜明け間近にまた例の夢。悪夢なり。涙、冷汗、(はな)(みず)(およ)そ顔から出る物全てを垂れ流して苦しみもだえるのだ。四十年も昔のことであるというのに!

 七緒はぱたりと手帳を閉じた。
 ──あの草魚さんが悪夢?
 片岡草魚が紫雲律に参加したのが二年前。それ以前の彼がどのような生活を送っていたのか、知るよしもない。しかし、七緒らが知る限りにおいて、片岡草魚は悪夢にうなされ眠れぬ朝を迎えるような人間ではなかった。
 酒を飲むと、前歯の欠けた口を開けてよく笑った。豪快とはお世辞にもいえない、最後には力が抜けるようなどこか投げ()りなところのある笑い。けれどみんなに愛されていた。酒の席になると誰もが「ねェ草魚さん、こないだこんなことがあってね」と話し掛けたがったものだ。特に合いの手も入れず、フンフンと聞き入る草魚が、最後にアハハハと笑う姿を誰もが見たかったのかもしれない。
「でも」
 と布団の中で声を出してみた。
 そうした人なつこい面がある一方で、故郷も名前も記憶の()(れき)の底に封じ込めねばならなかった暗い一面。これもまた片岡草魚であることは確かなのだ。
 ──その暗い一面が、悪夢の源泉となっている。
 ──もしかしたら、犯罪に関係があるのか。
 一年前に、ただ一度だけ草魚を「香菜里屋」に案内したことがあった。それだけで工藤哲也は、草魚の故郷を言い当ててみせた。七緒が、草魚の故郷に関する手掛りを知ったのも実はその夜だ。紫雲律の例会でのことだった。
 七緒は例会で飛鳥(あすか)地方を題材に取った句をいくつか発表した。はるか古代、豊浦(とゆらの)(みや)に遊ぶ(すい)()天皇をイメージした句は、どれも気に入ったものだった。
 会のあとの飲み会で、珍しく草魚の方から話し掛けてきた。
「奈良にも豊浦宮があったのですねェ」
「奈良にも? ほかにもあるのですか」
 七緒の問いに「ええまァ」と(あい)(まい)に笑う草魚。
 そこに浮かんだ(がん)(しゅう)(おび)えとが、ふいに(いと)しく思えた。相手は自分の父親ほどにも年の違う初老の男なのに、である。愛しいという言葉に語弊があるなら、渇きと言い換えてもいい。孤独を感じる暇さえない毎日であるはずなのに、なにかの拍子に発作のように湧きあがる感情が、居酒屋を出て、七緒に草魚を誘わせた。自分にそうした大胆さがあることをはじめて知った夜でもあった。
 香菜里屋でビールをなめながら、草魚はポツリポツリと、自分の生まれ故郷にも豊浦宮の跡があることを語った。今にして思えば、あれほど頑なに足跡を消した故郷への道のりを、
 ──どうして草魚さんは、断片的にせよ私に話す気になったのだろう。
 あるいは七緒と同様の渇きを、草魚もまた秘めていたのかもしれない。

 三月十九日 寒い日が続く。第一食お握り二ケ、味噌汁。仕事半分まで終える。夕方より銭湯。

手の甲のシミを数ゆれば後悔の数
自虐の部屋(ざん)()の布団を被る我のいる
夜半に目覚めおり(ゆる)し乞う己れの声におののきて
人のいぬ道選びて繰り返すその町の名

 香菜里屋からさらに自分の部屋へと招き、あとは当然のなりゆきとして七緒は草魚を受け入れた。意外なことだが、枯れた雰囲気を持つ草魚は十分に男性としての機能を維持していた。
 思いがけなく荒々しい手つきで七緒の服を脱がせ、なぜだか、はっと手を止めた草魚。窓からさす月明かりに浮かんだ彼女の乳房に、なにか尊い物でも見つけたように手を合わせてみせた。
「人のいぬ道選びて繰り返すその町の名……やはり生まれた場所に帰りたかったんですね、草魚さん。だったら私が帰してあげます。今はもう誰も、あなたを(そし)ることなどできないはずだもの」
 豊浦宮という言葉から、七緒は草魚の故郷が山口県の(しもの)(せき)市であることを知っていた。「その町の名」は(ちょう)()。浅い眠りにつこうとする闇の中で七緒は何度も「帰してあげます、帰してあげます」とつぶやいた。


続きは『花の下にて春死なむ 香菜里屋シリーズ1〈新装版〉』(講談社文庫)でお楽しみください!


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