幼馴染の美脚にうっとり。足フェチ暴君の趣味は人を馬で踏むこと

文字数 1,806文字

時代を全力で駆け抜けたバカ。16で悪童天子と呼ばれたよ。

《南斉》 東昏候(483~501)

東昏候(蕭宝巻)は南朝斉の第6代の皇帝である。人呼んで「悪童天子」


死後、廃帝されて「東昏候」という号を与えられた。その意味は「東のバカ殿」と言ったところ。ひどい言われようだが、暴君や暗君が目白押しの南北朝の時代においても、東昏候の個性は確かな暗い輝きを放つ。


父の明帝が亡くなり、東昏候は16歳で皇帝に即位する。その父の葬儀で、東昏候は早速、バカ殿らしい逸話を作る


遺体をすぐに埋葬せず、長く安置してその死を悼む「殯(もがり)」の風習はアジアで広く見られる。この時代の中国でも当然の習慣であった。しかし、東昏候は父の遺体を「気味が悪いから早く埋めろ」と命じた。


葬儀の際、棺の前で大声をあげて泣く「哭礼」は喪主の義務であった。しかし、東昏候は「喉を痛めるからイヤだ」といってこれを拒否する


そして、実際の葬儀の最中のこと。羊闡という家臣が、棺の前で胸を叩き、地団太を踏み、身をよじって哭泣した。これも悲しみを体で表す儀礼である。


しかし、羊闡の「泣き芸」は、かなり熱のこもったものだったらしく、哭いているうちに帽子が落ちて、そのハゲ頭があらわになった。東昏候はこれを見て腹を抱えて大笑いした


葬式の場で人のハゲ頭を笑うのは非常識で幼稚。しかし、現代の日本人からすると、「殯」の風習こそが奇異に思えるし「哭礼」もなんだかわざとらしい。「東昏候は、ただ素直な若者だっただけかも?」と思えなくもない。


しかし、一事が万事。確かに、東昏候のやり方はいつも「自分に素直」だった。そして幼稚な皇帝が「自分に素直」に振る舞えば、たくさんの人が死ぬ


東昏候はもともと内向的な性格で、家臣と話すことを嫌った。父の明帝の遺命によって、6人の重臣が東昏候の補佐をすることになっていたが、東昏候はこの6人をすぐに殺した。諫言されるのが鬱陶しかったのだろう。


あとは暴君のお決まりのパターンである。民衆を搾取して贅沢三昧。豪壮な宮殿や庭園を造営し、酒色に溺れる。国政を顧みることはなく、諫める家臣がいれば容赦なく殺した。


東昏候は、潘玉児という幼馴染を妃にして、これを寵愛した。特にその足を愛した。潘玉児は小さくて可愛らしい足の持ち主だったという。


東昏候は、黄金の蓮の花をたくさん作らせ、これを庭園の歩道に敷き詰める。そして、裸足の潘玉児にその上を歩かせ、「一足ごとに蓮の花が生まれる。まさに天女!」などと言って恍惚としていた


これにより、中国では美女が歩くさまを「金蓮歩」と言うようになった。『水滸伝』や『金瓶梅』に登場する美女・潘金蓮の名も、この故事に由来する。「金蓮」は、纏足した足の美称ともなった。


どうしても史上長く続いた中国男子の「小さい足」への不思議な執着に思いが行くが、あるいは、東昏候は美しい金の蓮を美女が「踏む」行為を喜んでいたのかもしれない。


側聞するに、現代日本においても女性に踏まれることを喜ぶ紳士がいるという。しかし、さらに奇怪なことに、女性が食べ物を踏みにじる様子をひたすらに愛でる御仁がいるとも聞いた。


もはや俗人には思いも及ばぬ境地だが、ある種の複雑な心理の持ち主にとって「踏む」という行為には特別な魅力があるものらしい。


閑話休題。

東昏候は、乗馬に人を踏ませるのが大好きであった。東昏候は、しょっちゅう馬に乗って街に出た。そして、見境なく通行人を馬蹄にかけるのである。


こんな餓鬼が皇帝では、命がいくつあっても足りない。ついに将軍による反乱が発生し、一時は首都を反乱軍に包囲されたが、皇族に連なる蕭懿という人物の活躍によって、いったん反乱は鎮圧される。


この功績により蕭懿は宰相に任命された。しかし、これを妬む奸臣の讒言を聞き入れ、東昏候はこの蕭懿を殺した。蕭懿が宮廷改革に乗り出したことや、その諫言が気に食わなかったらしい。


そして、再び反乱が発生する。その指導者は蕭懿の弟、蕭衍であった。もはやこれを鎮圧に向かう人物などいない。苦労して戦ったところで、どうせ殺されてしまうのである。


反乱軍が宮殿に迫っても、東昏候は後宮で遊び呆けていた。結局、東昏候は背いた部下に殺され、その首は蝋で固められて蕭衍のもとに送られた。享年19歳。

『大唐帝国 中国の中世』宮崎市定/著(中公文庫プレミアム)

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