脳男はどこからきたのか。/吉野 仁

文字数 3,710文字

進化と深化を遂げた十四年ぶりの最新作。『ブックキーパー 脳男』/吉野 仁

何と十四年ぶりに「脳男」シリーズの最新作が上梓された。新たに登場したヒロインは異常犯罪のエキスパートである警察庁のエリート警視。果たして連続猟奇殺人事件を解決し、「脳男」を追い詰めることができるのか? 20世紀末に『脳男』が江戸川乱歩賞を受賞して以来、異彩を放つシリーズの底知れぬ魅力に注目してきたミステリー評論家の吉野仁さんに新作の書評をご寄稿いただいた。

 脳男はどこからきたのか。脳男はなにものか。脳男はどこへいくのか。
 二〇二一年、待望の「脳男」シリーズ最新作『ブックキーパー 脳男』が発表された。これには、うれしいという喜びよりも、まずは驚かされたものだ。なにしろ作者は寡作で、それまで刊行された長編はわずか六作。二〇一二年に『大幽霊烏賊 名探偵 いじか面鏡ま真すみ澄』が出てからずっと音沙汰なかったのである。首藤瓜於のデビュー作『脳男』は二〇〇〇年の刊行だ。第二作『指し手の顔 脳男Ⅱ』が出たのは、その七年後となる二〇〇七年。さらにそれから十四年後になって『脳男Ⅲ』が出るとは、思いもしなかった。
 しかし、さっそく読み始めてからさらに驚いた。新たな登場人物が強烈な魅力を放っており、全編を通じて期待を裏切ることのないサスペンスにあふれた展開であるばかりか、その面白さによる興奮は予想以上のもので、単なる続編ではなく、より進化と深化を遂げた物語になっているではないか。いや、それどころか「脳男」の物語には、まだまだき気う宇そう壮だい大な企みがいくつも隠されているのではないかとさえ疑いを抱くようになった。
 あらためてシリーズ前二作をおさらいしておくと、第一作『脳男』は第四十六回江戸川乱歩賞の受賞作である。県警の茶屋警部をはじめとする警官たちが連続爆弾魔のアジトへ踏み込み犯人を逮捕しようとしたとき、犯人には逃げられたが、もうひとり現場にいた怪しい男をつかまえた。鑑定を担当することになった精神科医のわし鷲や谷ま真り梨こ子は、その男、鈴木一郎に興味を抱いた。彼は心をもたない男だった。茶屋警部からも鈴木一郎がなにものかつきとめてほしいといわれ、鷲谷真梨子は精神鑑定のほか、男を知る関係者を訪ね歩いていく。そして、「脳男」鈴木一郎の入院先であるおたぎ愛宕医療センターが爆弾魔に狙われ、新たな大事件が巻き起こった。
『脳男』単行本の帯には、「本年度江戸川乱歩賞受賞作 満場一致 全選考委員絶賛!」とあり、帯裏には選考委員それぞれのコメントが載っていた。いまや日本を代表するエンタメ小説界の巨匠たちが賞賛の言葉を惜しまず述べているではないか。赤川次郎氏「ユニークなキャラクターと、その成長過程を辿っていく展開にはミステリー的な感興がある」。逢坂剛氏「この作者には一つのテーマを追求する粘着力と、ストーリーテリングの才能が過不足なく備わっている」。北方謙三氏「不思議なリアリティと迫真力を持っていた」。北村薫氏「主人公、鈴木一郎の造形だけでも一読の価値はある」。宮部みゆき氏「私はこれがベストのラストだと思いました」。
 年末のミステリランキングでも上位にあがり、読者からも支持された第一作は、続編があることを暗示するラストで幕をおろしていた。ところが先に述べたとおり、まず七年待たされ、ようやく第二作が刊行されたのだ。その『指し手の顔 脳男Ⅱ』は、上下二巻で、内容がさらにパワーアップしていた。もともと第一作『脳男』でも、テーマとなっている脳科学や精神医学に関するディテールや関連するエピソードなどが真に迫っており、興味深く読ませるものだった。もしくは事件に使用された爆弾の知識などもリアリティを感じさせる詳細さをそなえていた。つまり、単なるアイデアや小道具に終わっていないのだ。そうした作品に現実味を与えたり知的興奮をもたせたりする細部が、より多くしかも怪しく複雑なまま続々と提示されていた。
『指し手の顔 脳男Ⅱ』の物語は、まずは前作の後日談といえるエピソードからはじまる。鷲谷真梨子の自宅および病院の仕事場から「鈴木一郎」のファイルがすべて盗み出されていたのだ。いったいだれがなんの目的でおこなったのか。次に、大男が市内の高級レストランで暴れまわるという事件が起こった。のちに犯人は、元力士だったと判明した。だが、同様の異常な出来事がつづいて起こるばかりか、事件はどこかで「脳男」とつながっていた。この作品では、キリスト教の教会が出てくるなど、神や宗教をテーマにした部分があり、なにかサイコすなわち異常心理をもたらす人間を生んだ現代社会の根源たるものがテーマの奥にあったように思ったものだ。
 そして、最新作『ブックキーパー 脳男』である。まずは警察庁の若き女性エリート警視・う鵜かい飼あがた縣という新キャラクターの登場が鮮烈な印象を残す。すべての発端である、別々の場所で起きた三件の殺人事件およびひ氷むろ室財閥当主殺害事件には、異常な拷問とみな愛宕市に関係しているという共通点があった。茶屋警部のもとに鵜飼縣があらわれ、息の合った二人が事件の捜査をはじめたところ、ある老人が鍵をにぎっていることが判明した。同時に、愛宕市において残虐な殺人を重ねるシリアルキラーの存在が浮かびあがり、「脳男」もまたさまざまな局面で姿を現すようになる。
 主人公の鈴木一郎はもちろん、巨体で口の悪い茶屋警部をはじめ、登場する人物はみな、どこかコミックに出てくる人物のようにいささかデフォルメされている。この鵜飼縣も、現実には絶対いないだろうという女性だが、しかし物語ではひとつのキャラとして成立している。シリーズを通して、中部地方の愛宕市という架空都市を舞台にしたところも、うまい。全体に嘘と本当のバランスが見事なのだ。
 また、海外ミステリに親しんでいる読者ならば、今世紀に入ってからの世界的ベストセラーに、スウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによる〈ミレニアム〉シリーズがあることをご存じだろう。ヒロインのリスベット・サランデルは天才的なハッカーだった。さくら桜端とおる道という天才ハッカーを部下にもつ鵜飼縣は、このリスベットを彷彿とさせるものがある。もしくは世界的ベストセラー作家に「どんでん返しの魔術師」との異名をとるジェフリー・ディーヴァーがいて、章がかわるごとに驚きの連続をもたらす作品を発表しているのだが、『ブックキーパー 脳男』ではそうしたワールドクラスの新奇性が感じられた。かつて一世をふう風び靡したトマス・ハリス『羊たちの沈黙』の単なる模倣、二番煎じではなく、二十一世紀のサイコスリラーが近年、世界のあちこちで発表されている。それらの特徴は、強烈なキャラの登場と予想をはるかに超えるどんでん返しの応酬なのだ。そうした世界的な流れの最先端に、『ブックキーパー 脳男』はあるのではないか。
 もともと、シリーズは「サイコサスペンス」と「警察小説」を融合したものだ。作者の著作を見ても、「脳男」以外では、『事故係 生稲昇太の多感』『刑事の墓場』『刑事のはらわた』が警察小説で、昭和初期の精神病院を舞台にした『大幽霊烏賊』が一種のサイコものだった。このふたつが得意とする分野なのだろう。しかし、「脳男」シリーズを通して読むと、なにかそうしたジャンルの枠をこえた要素と魅力があることに気づかされる。「脳男」を読み解くこととは、すなわち全宇宙の真理を知ろうとすることではないかと大風呂敷を広げたいほどだ。ちょうど『ブックキーパー 脳男』では、「この宇宙をあらわすひとつの数式」という話題が登場人物の間で議論されていた。すなわちこの世のすべてのことわりをめぐる話におよんでいるのだ。その文脈でいえば、愛宕市には悪をとりこむブラックホールがあり、とうぜん宇宙の大半を占めるダークマターが存在しているのだろう。その観測がかろうじて可能なのは、かぎられた者たちのかぎられた時間と場所だけかもしれない。すなわち鍵をにぎるのは、鈴木一郎だ。しかし茶屋、鷲谷、鵜飼らがいくら近づこうとも見えるのは鈴木一郎の姿のみで、いまだほんとうの「脳男」を知らない。
 脳男はどこからきたのか。脳男はなにものか。脳男はどこへいくのか。
 それを知るために『脳男Ⅳ』を待ち続けたい。たとえ二十一年後だろうとも。

プロフィール
吉野仁(よしの・じん)ミステリー評論家
1958年、東京生まれ。「本の雑誌」で「新刊めったくたガイド」を担当。

首藤瓜於(しゅどう・うりお)
1956年、栃木県生まれ。上智大学法学部卒業。会社勤務等を経て、2000年に『脳男』で第46回江戸川乱歩賞を受賞。主な著書に『事故係 生稲昇太の多感』『刑事の墓場』『指し手の顔 脳男Ⅱ』『刑事のはらわた』『大幽霊烏賊 名探偵 面鏡(いじか)真澄』がある。





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