「神楽坂つきみ茶屋」シリーズ試し読み&サイン本プレゼント!
文字数 8,743文字
その刊行を記念し、試し読みとしてシリーズ第1巻『神楽坂つきみ茶屋 禁断の盃と絶品江戸レシピ』の「プロローグ」と「第1章」を大ボリュームでまるまる特別公開しちゃいます! 「どんなお話なんだろう?」と気になっているそこのアナタ! ぜひ味見してみてください!
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江戸時代の料理人・玄が現代に蘇って大奮闘!?
「ビストロ三軒亭」シリーズ、「グルメ警部の美食捜査」シリーズの著者がおくる、傑作グルメ×ファンタジー!
プロローグ 「宙を飛ぶ本マグロの大トロ」
「うわーーーっ、なにすんだよ!」
サシのびっしりと入った新鮮なトロが、空中で弧を描いて飛んでいく。
驚愕のあまり口を開け、窓の外へと消えゆくピンク色の刺身を凝視する。
あれは、閉店間際のスーパーでセール札が貼られていたお買い得品。半額とはいえ十分高価で、大奮発した本マグロの大トロだ。
食べるの、めっちゃ楽しみにしてたのに!
あわてて窓辺に駆け寄り眼下を覗くと、庭の野良猫と目が合った。たまに食事の残り物を分けてやる、丸々と太った三毛猫だ。ミケ、と勝手に命名しているその猫は、ちゃっかりとトロを咥え込んでいる。
「ミケ! 待ってくれ!」
そんな声など届くわけもなく、ミケは素早く走り去ってしまった。
ここは東京・神楽坂の路地裏にある古い家屋の一室。二階の窓から見下ろす宵闇の街は、かつて花街だった頃の面影を今も色濃く残している。風情漂う石畳の坂を、トロを咥えたミケが勢いよく駆け下り、どんどん小さくなっていく。呼び戻して取り返す術などあるはずがない。
晩夏の夕飯時に突如起きた、奇妙奇天烈な出来事。
一体なぜ、こんなことになったのか?
この家の主である青年・月見剣士は、いきなりトロを放り投げた、見知ったはずの相手に視線を移した。そして、まるで別人のように感じる相手を凝視しながら、急速に記憶を巻き戻していた──。
◆
剣士の実家は、神楽坂で長く続く老舗の割烹だった。
神楽坂は、徳川家康が幕府を開いた江戸時代から発展し、神田川の船着き場という交通や物流の要衝として栄えた街。かつては新橋、赤坂、浅草、向島、芳町と並ぶ花街としても知られ、芸者たちが伝統的な踊りや遊び方で客人を楽しませる〝お茶屋〟が軒を連ねていたという。
今でも数こそ少ないが、芸者を呼べるお茶屋的な料亭は存在しているし、代々続く蕎麦屋や和菓子屋、呉服屋、和装小物店など、老舗も多数点在。その一方で、カフェやギャラリー、レストランなど、洒落た店も多く、新旧の文化が入り交じった独特の雰囲気を醸し出している。
そんな神楽坂の路地裏で、こぢんまりと営業を続けてきた割烹〝つきみ茶屋〟が、剣士の生家だ。
江戸末期にお茶屋として創業し、三代目の主人が割烹に業態転換。広大だった敷地は三分の一以下になってしまったが、味のよい小さな割烹として、六代目店主の月見太地が暖簾を守り続けていた。
本来ならば、七代目となるひとり息子の剣士が、跡目を継ぐべきなのだろう。だが、剣士はその運命からどうにか逃れようとしていた。
親が敷いたレールに乗るのが嫌だった、などという青臭い理由だけではない。事態はもっと深刻だった。
剣士は、〝刃物が怖くて包丁が握れない〟体質だったのだ。
きっかけとなったのは、剣士が五歳の頃の出来事だ。遊び半分で握った包丁で、左の手の平がすっぱりと切れてしまったのである。病院で傷口を何針も縫うほどの深い傷だった。
──きゃぁぁっ、ケンジーーー!
切れた瞬間に耳をついた母親の叫び声。手からしたたり落ちた鮮烈な血の赤。それを目にしたときの驚きと恐怖。一歩遅れてやってきた、焼けつくような痛み……。
それらは、二十年近くが経った今でも忘れられない。
以来、刃物恐怖症となり、自炊すらできなくなってしまった剣士は、「料理人にはなれないし、家業は継げない」と両親に言い続けてきた。
父は息子を跡取りと決めていたようで、数えきれないくらい言い合いをした。「料理人は無理でも経営者にはなれる」などと説き伏せられそうになったこともあったが、断固として拒否。なにしろ、厨房の刃物を見ただけで左手が鋭く疼くのだ。自分が和食店を切り盛りするという未来を、どうしても想像することができなかった。
かといって、ほかになりたい職業があったわけではない。
なんとなく大学の文学部に進学し、なんとなく新宿のバーでアルバイトを始め、そこで興味を持ったワインやカクテルの勉強をしていた。卒業後もそのままバーテンダーの仕事に就いたものの、これが天職だ! と思えるほどの情熱を注いでいたわけではなかった。
──なんとなく、いいと思ったから。
それが、剣士の物事の判断基準だった。
店の二階にある自室で悠々と暮らし、夕方から出勤して朝帰宅する剣士に、両親が迷惑そうな顔をすることもあった。ましてや、勤め先だったバーが経営難で閉店となり、ニート暮らしを余儀なくさせられてからは、はっきりと迷惑がられてしまった。
「いつまでブラブラしてるんだ」「ご近所さんに恥ずかしいわ」「部屋にこもってないで店を手伝えよ──」
毎日のように小言を言うようになった父母が、正直なところ疎ましくて仕方がなかった。
三ヵ月ほど前、父の車で買い出しに出かけるという両親と交わしたのも、ごく短い口喧嘩だった。今でも一言一句覚えている。
自室のベッドでアクション漫画を読んでいた剣士に、母が心配そうに言ったのだ。
「剣士、またゴロゴロしてるのね。仕事はどうするつもりなの?」
「いま探してるから。もう少しだけ待ってて」
そんな剣士に、父はいつもより厳しい声で「またバーで働く気なのか」と問いかけてきた。
「ああ」と漫画から目を離さずに答えた途端、父が怒号を発した。
「いい加減にうちの仕事を手伝え! そもそもお前に剣士って名づけたのも、刃物の使い手になってほしかったからなんだぞ。なのに未だに包丁が握れないなんて、情けないと思わないのか!」
「勝手に名づけたのはそっちだろ! 迷惑なんだよ!」
つい言い返してしまった。スネかじりの自覚はあったので、口答えはしないようにしていたのだが、溜まっていたうっぷんが噴き出してしまったのだ。
その途端、父の眉が吊り上がった。
「言うことが聞けないのなら、この家から出ていけ。今すぐだ」
売り言葉に買い言葉で、勝手に口が開いていた。
「わかった。父さんの顔なんて、二度と見たくない」
剣士はベッドから起き上がり、両親を追い出して扉を閉めた。
廊下で何やら言い合う父母の声がしたが、無視してスマートフォンを取り出し、ひとり暮らしをするために賃貸情報の検索を始めた。
やがて、外から車のエンジン音が聞こえ、ふたりは買い物に出かけて……。それから……。
家には二度と、戻ってこなかった。
父の運転していた車が、電柱に激突したのだ。目撃者いわく、飛び出してきた野良猫を避けたせいだったらしい。その結果、両親は同時に他界。即死だったそうだ。
警察、保険屋、葬儀屋、店の従業員、親戚、近所の知人、友人──。
いろんな人が家を訪れ、葬式だの四十九日法要だの保険の手続きなど、とにかくあわただしかった日々。やがて独りになった剣士に襲いかかったのは、耐えがたい後悔の念だった。
──父さんの顔なんて、二度と見たくない──。
最後の言葉。それを言い放った直後、父と母の顔は本当に見られなくなってしまったのだ。
まるで、自分が両親に呪いをかけてしまったかのように。
あの事故が起きるまでは、家族の一員という役割が、ずっと続くと思っていた。ああしろ、こうしろ、とうるさい親との口喧嘩。それでも魔法のように用意されていた自分の食事。洗濯されていた服。いつかは何かで一人前になって、世話になった恩を返そうと密かに思ったこともあった。
そのいつかは、もう永遠にやってこない。
当たり前だと思っていた日常が、突如そうではなくなる可能性など、考えたこともなかった自分が情けなかった。とてつもなく悔しかった。
居間の棚の上に、なんとなく飾った父母の遺影。その隣に置いた、薄刃包丁の入った箱。父が長く愛用していた、いわば形見の品だ。
刃物は見るだけで怖くなるので、中は開けられずにいるのだが、その箱を目にするだけで苦いものが喉奥からこみ上げてくる。
「あんなこと、父さんに言わなきゃよかったな……」
もう何度言ったのかわからない文言が、また口からこぼれてきた。
「気持ちはわかる。でも、自分を責めるな。過去を悔やむな。前だけ見よう」
落ち込む剣士を慰め続けてくれたのは、小学生の頃からよく知る幼馴染の風間翔太だ。
実は、翔太も隣街にある老舗料亭の長男で、店を継ぎたくないと家を飛び出した男。意に沿わない跡取り同士、親に決められた未来を愚痴り合ったことも数知れない。しかも彼は、一緒に新宿のバーで働いていた時期があり、刃物が使えない剣士の代わりにアイスピックで氷を砕いてくれるなど、なにかとフォローしてくれた大切な仲間だった。
「ご両親のためにも、この家と店は守らないとな。大丈夫だ。オレも協力するから、ふたりで店をやろう」
そんな翔太の言葉は、雨雲のごとく黒い靄で覆われていた剣士の心に、ひと筋の光を点してくれた。
両親が遺した割烹は、頼りない跡取りになどついていけない、と言わんばかりに従業員たちが次々と退職し、すでに閉店を余儀なくされていた。店はもう三ヵ月もシャッターを閉めたままだ。
父は経営面で多額の借金を抱えており、生命保険の大半は返済で消えていた。割烹を再開できる人材も潤沢な資金も、剣士は持ちあわせていない。親戚関係で店舗経営ができる者は皆無だ。となれば、遺産となった二階建ての店舗付き住宅は、誰かに売るか貸したほうがいいだろう。自分はアパートでも借りて、ひとり暮らしするしかないか……。
などと思案していた矢先に、翔太が「よかったら、一緒に店をやらないか?」と提案をし、さらに「自分もここに住まわせてほしい」と申し出てくれたのである。
「実はさ、今のマンション、ストーカーっぽい女に狙われてるんだ。向かい側の道に立っていたり、郵便物が抜かれたりして……」
翔太は、超のつく人気バーテンダーだった。
ふわふわで栗色の髪、切れ長の涼やかな目、やさし気な口元。シェイカーを握る手と真剣な横顔が美しいと、幾人もの女性客が褒め称えていた。
しかも、聞き上手で褒め上手。余計なことは口にしないが、対応は丁寧でスマート。その人気は『抱かれたいバーテンダーNo.1』と呼ばれるほどで、追っかけファンと呼んでも過言ではない女性客が、何人もいたのである。
「だから、引っ越したいと思っていたんだよね。家賃も払うよ」
朗らかに言った翔太だったが、彼のストーカー話が本当の理由だったのかはわからない。もしかしたら、父母を同時に亡くして落ち込んでいた剣士を慮って、同居の理由にしてくれたのかもしれない。
翔太にとって、そのくらいの気遣いは朝飯前だ。ついつい余計なことを言ってしまい、あとで反芻して自己嫌悪してしまう剣士とは正反対の、思慮深く繊細な男だった。
「両親の部屋でもよければ」と剣士が言うと、「決まりだな」と翔太が微笑み、男ふたりの同居生活が始まることになった。
フレンチレストランでアルバイトをしながら、大学の経営経済学部を卒業した翔太。もっと接客業を経験したいと、剣士と同じ店のバーテンダーになった彼は、自身が洋風のつまみを作るワインバーを経営するのが夢だった。
今ではそれが、剣士の夢にもなっている。
ワインやカクテルの勉強をしていた自分が、料理人としても優秀な翔太と店を出すのは、もはや必然のように感じていた。
ふたりで資金を出し合い、一階の割烹を改造し、古民家風のワインバーにする。年季の入った白木のカウンターはそのまま使用し、古びた和風の内装は洋風に変える。使い込んだ和食器は洋食器にして、徳利や猪口の代わりに、デキャンタやワイングラスを並べる……。
剣士は心機一転、その新たな目標に向かう決意をしていた。
飲食店の勤務経験はあるが、経営は未経験。不安がないと言えば噓になる。だけど、自分は二十四歳、翔太は二十五歳。気力も体力も漲っている。なにか新しいことを始めるには、最適な年齢だと思っていた。
そして今夜。剣士と翔太は二階にある畳の居間で、ワインバー計画を練りながら、スーパーの総菜を肴に晩酌を始めていた。
「剣士、今日からよろしくな」
「こちらこそ。古い家だけど、好きに使ってくれていいから」
「古き良き家だ。非常に居心地がいい。古民家風の優雅なワインバー、店名は〝Harvest moon〟。訳すると〝実りの月〟。絶対に成功させよう」
「おう。一からのスタートだけど頑張ろうな」
ワインで、ではなく、日本酒の冷やで乾杯する。元が割烹だったため、各地方の日本酒が大量に残っているのである。
翔太が今日引っ越してきたので、ささやかなお祝いでもあった。
「まずはメニューを決めて試食会をしよう。ゲストの反応を見て構築していくんだ。ワインに合う軽い前菜と、グリル料理をメインにしたい」
「料理は翔太に任せる。そうだ、庭にもテーブルを置きたいんだよね。オープンテラスの店。うちは家賃の固定費がない分、他に予算をかけられる。どうかな?」
「いいね。オープンテラスなら換気も良くなる。換気や衛生管理は重要課題だ。席はゆったりと間隔を取って、開放感のある店にしよう」
「あとはデリバリーだね。オードブルとワインのセットとかさ」
換気設備や衛生管理、店内面積に対するテーブル数など、飲食店開業に関する条件は以前よりも細かくなっている。数年前に世間を騒がせた新型ウイルスのせいだ。感染を防ぐために人々は外出をしなくなり、外食の代わりにテイクアウトやデリバリーを利用することも多くなった。
ほどなくウイルス騒動は沈静化。外食産業にも活気が戻りつつあるのだが、今や大半の飲食店が宅配の専門業者と契約を交わしている。つきみ茶屋の頃はスタッフが弁当の出前をしていたのだが、剣士が新装開店した暁には、デリバリー専門業者と契約するつもりだった。
「デリバリー用のメニューは、店内とは別に考えたいんだ。業者に払う手数料の分、単価を高くしないと利益が出ないから。そのメニューも翔太に考えてもらいたいんだよね」
「任せてくれ」
力強く言い、翔太は猪口の酒を飲み干した。
「頼りにしてるよ」
剣士も酒を飲み、徳利の酒を自分と翔太の猪口に注ぐ。
「新たな挑戦をするときって、アイデア出しが一番楽しいよな。そのアイデアを基に船を造り、大海原へと漕ぎ出していく。ときには嵐で荒れる日もあるだろうけど、そこで朽ち果てるような店なら初めからやらないほうがいい。剣士、オレは腹を括ってやるつもりだからな」
いつもながら、翔太の低い声には安心感がある。
ありがたいなと思いながら、剣士は照れ隠しの言葉を口にした。
「店がオープンしたら、翔太のファンが詰めかけるかもね。そこも覚悟しておかないと」
「やめてくれよ」
苦笑した翔太が、障子を開けたままの窓に目をやった。
網戸の外から聞こえる虫の声が、猛暑だった夏の終わりを告げている。
「見ろよ。今夜は満月だ。新たな門出を祝うに相応しい夜じゃないか」
雲ひとつない夜空に、まん丸い月が黄色く輝いている。
「そうだね。まさに実りの月、ハーヴェスト・ムーンだ」
しばらくふたりで満月を見上げた。
眩しいほどの光が、自分たちの明るい未来を照らしているようである。
「……妖しいくらいに綺麗だな」
翔太は月に手をかざし、目を細めている。
窓辺からふわりと風が舞い込んできた。早くも秋の香りが混じっている。その芳香を心地よく吸い込んでから、剣士はちゃぶ台風の木製テーブルに目を向けた。
「さ、冷めちゃうから食べよっか。今夜も出来合いのもんしか用意できなかったけど」
このテーブルに自分の分以外の料理が並んでいるのは、久しぶりだった。
「鶏の竜田揚げにカキのフライ。それから僕の好物、ミックスピザ。今夜は刺身もある。本マグロの赤身と大トロ。ふた切れずつだけどね」
「旨そうなトロだ。サシが美しい」
刺身を見て翔太がつぶやく。彼は美しいものに目がないのである。
「総菜も刺身も半額だったんだよ。閉店間際のスーパーは天国だ」
自分で料理をしない剣士は、親を亡くして以来、総菜やインスタント食品が主食になっていた。
「これからはオレが作ってやる。そのために愛用の調理器具も持ってきたんだ。荷物を整理したら腕を振るわせてもらうよ。フレンチ、イタリアン、中華、和食。アジア料理だってイケる。なんでもリクエストに応えるぞ」
翔太が目を細めながら剣士を見る。その好意がうれしいと同時にどこかこそばゆい。
「あ、春巻きがない。レンジに入れたままだった。取ってくるね」
剣士は狭くて急な板張りの階段を下り、店の厨房にあるレンジから温めた春巻きを取り出して二階に戻った。
すると──。
驚愕の光景が目に飛び込んできた。
「翔太! その盃、どうしたんだよ!」
畳に座っていた翔太が、先ほどまで使っていた茶色い猪口ではなく、金色の盃に酒を注いでいる。
それは、月見家に代々伝わる門外不出の盃。
陶器の上から金粉を施した、黄金色に輝くきらびやかな盃だ。
しかも、剣士が物心ついた頃から「絶対に使ってはいけない」と親から言われ続けていた、〝禁断の盃〟だった。
「割り箸を割ったときに指を切っちゃって。たしか絆創膏があったなと思ってそこの棚を覗いたら、金の盃を入れたことを思い出してな。こんな美しい盃、使わないなんてもったいない……」
「駄目だ!」
「え?」
「絶対に使うなって言われてたんだ。恐ろしいことが起きるからって」
「恐ろしいこと?」
「ああ。その盃は、地震でもないのに小刻みに動いたり、妙な音が鳴ったりしていたらしい。どこかに捨てても、なぜか元の場所に戻ってる。そんな怪異現象が続いたから、使わないように封印してたそうなんだ」
親から何度も聞いた伝承だ。だから、骨董品を保存していた一階の物置にしまい込んであったのだ。それなのに、なんで翔太が……?
「ああ、そうだったのか」
翔太はいつもより早口でしゃべり始めた。
「このあいだ、剣士に骨董品を見せてもらっただろ。オレ、この盃がやけに気になったんだよね。なんて言ったらいいか、こっちを見てほしい、手に取って使ってほしい。そんな声が聞こえた気がして、つい持ってきてしまった。磨いたら素晴らしく綺麗になったから、剣士に見せようと思って棚に入れておいたんだ。勝手なことしてごめんな」
「それはいいけど、まさかその盃で酒飲んでないよね?」
「飲んだよ。これ、二杯目」
「……マジで?」
「ああ。別になにも起きないぞ。剣士、驚かすなよ」
平然と言った翔太は、金の盃をテーブルに置き、「さて、トロでも食べてみるか」と刺身に手を伸ばした。
……かと思ったら、トロを箸で挟んだまま、いきなりテーブルにつっぷしてしまった。
その勢いで金の盃が畳の上を転がり、壁にぶつかってカツンと音を立てる。
「翔太! おい翔太!」
あわてて駆け寄った剣士の目の前で、あり得ない事象が起きた。
翔太の栗色の毛が、瞬時に白く変化したのだ。前髪の左目にかかる部分だけ、メッシュでも入れたかのように。
うわ、ひと房だけ白髪になった!
剣士が声をあげそうになった刹那、翔太がカッと目を見開いた。
目つきが鋭い。眼球が怪しくきらめいている。さっきまでとはまるで別人のようだ。
むっくりと上半身を起こした翔太は、自分が割り箸で挟んでいた大トロを見て、すぐに眉をしかめた。そして、信じがたい言葉を発したのだ。
「おいおい、鮪の脂身なんざぁ、生で食ったら死ぬぜ」
翔太はそのまま窓の外に向かって、トロをポーンと放り投げた。
「うわーーーっ、なにすんだよ!」
庭に落ちた本マグロの大トロを、ミケが咥えて走り去る。
それを啞然と見つめる剣士に、翔太が訳知り顔で言った。
「猫またぎを猫が咥えちまったのか。まあ、咥えただけで食わねぇよ。ヘタすりゃ、一発で当たってお陀仏だからな」
「猫またぎ?」
「おっと、まさか知らねぇのかい? 腐った魚は猫もまたいでく。だから猫またぎだ。それくらい鮪の脂身は足が早いってことさ。常識だろ」
声も顔も翔太だが、しゃべり方や表情がまるで別人だ。前髪の一部も白いままで、目が爛々と光っている。
いきなり豹変した友人を前に、剣士の額から冷や汗が流れ落ちた。
しかし、翔太はどこ吹く風で居間を眺め回している。
「なんだいこの部屋は。見たことねぇもんばっかじゃねぇか。俺は今、どこにいるんだい?」
「翔太、どうしたんだっ?」
思わず叫んだ剣士に、相手は不満そうな顔で告げた。
「翔太だとぉ? 俺の名は玄。玄米の玄さ。二度と間違えんなよ」
──この夜から、剣士の日常は〝異常〟へと変化した。