第7回 文章講座 秋元康②
文字数 3,093文字
メフィスト賞作家・木元哉多、脳内をすべて明かします。
メフィスト賞受賞シリーズにしてNHKでドラマ化も果たした「閻魔堂沙羅の推理奇譚」シリーズ。
その著者の木元哉多さんが語るのは――推理小説の作り方のすべて!
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少し話を戻します。
どうすれば読みやすい文章になるか。
普段、本を読まない人でも、ストレスを感じることなく読める文章にするには、どうしたらいいか。
「読む」という行為は、映画や漫画のような「見る」メディアと比べると、脳に多くの負荷がかかります。
なぜかというと「絵(映像)」はそれを見るだけで即座にイメージできるけど、「活字」はその文字を読んで、頭の中でイメージに転換させなければならないからです。
「読む」という行為が、言葉をイメージに転換させる作業だとすると、逆に「書く」という行為は、イメージを言葉に転換させる作業だということになります。
つまり「読み書き能力」(ひっくるめて国語力)とは、言葉とイメージ、すなわち抽象と具象の相互転換能力と言いかえることができます。
では、人間の国語力はどのように発達するのか。これには四段階あります。
〈ステージ1〉「聞く」
人間の子供は、耳から入ってくる言葉を聞いて、勝手に言葉を覚えるようにできています。脳にかかる負荷はゼロです。
誰だって自然に「聞く」ことで言葉を覚えます。たとえば、お母さんが本を読んでくれる。その「声」を聞いているだけで、なんとなくその意味を理解しています。
〈ステージ2〉「絵本を読む」
逆に「読む」という行為は、自然には覚えられません。文章を読めるようになるには、教育が必要になります。教育を受けなければ識字はできません。
ただ、言葉を教わったら即座に読めるようになるかというと、そうではありません。言葉だけで言われてもすっとは理解できないからです。だから子供のうちは「絵」を頼りに読みます。
たとえば、こういう文章があったとします。
「ゾウの鼻とキリンの首、どちらが長いか、犬と猫が言い争っています。犬はゾウの鼻のほうが長いと言い、猫はキリンの首のほうが長いと言って、おたがいに譲りません。そこで猿が木の枝をものさしにして、どちらが長いかを測ることにしました」
これを幼稚園生が読んでも、すっとはイメージできません。だから「絵」の助けを借ります。その文章の横に絵が描いてあって、犬と猫が言い争っている絵があり、猿が木の枝を使ってゾウの鼻とキリンの首の長さを測っている絵があることで、ああ、そういうことね、と理解できます。
〈ステージ3〉「活字だけで読む」
小学生になって文字を読むことに慣れてくると、絵がなくても文字だけでイメージできるようになります。たとえば、
「お母さんが、浮気したお父さんをナイフで刺した」
といえば、その情景をパッと頭に浮かべられます。さらに想像力が豊かになれば、現実にはありえないことまで想像できるようになります。
「まるまると太ったパンダが、虎の前足をもぎとって、もぐもぐ食べている」
「死体の口から、一寸の小人が出てきた」
〈ステージ4〉「具体的な形のない、抽象的な概念をイメージできる」
中高生にもなれば、抽象概念もイメージできるようになります。たとえば、
「1ドル100円なら、アメリカで1ドルで売られている商品を100円で買える。為替相場が変動して1ドル90円になったら、同じ商品に対して100円を出して、10円のおつりがくる。つまりドルに対して相対的に円が高くなっているので円高であり、輸入業者にとって儲けが大きくなる。逆に1ドルが110円になったら円安で、輸出業者にとって儲けが大きくなる」
こう言われて、すっと理解できるようになります。もう一つ、例を。
「時給1000円で、ハンバーガー1個の値段が100円だとすると、1時間の労働でハンバーガーを10個買えることになる。時給が200円増えて、1200円になったとする。だが、同時にインフレが起きて(物価が上がって)、ハンバーガー1個の値段が200円になった。この場合、1時間の労働(1200円)で買えるハンバーガーの数は6個である。名目賃金は1000円から1200円に2割増えているが、実質賃金は10個から6個に(5分の3に)減っている。つまり給料は増えているのに、労働者の生活は貧しくなっていることになる」
これは経済学の基本中の基本の考え方なのですが、これくらいのことがすっと理解できないようでは、学問は無理だし、社会人としても使い物になりません。
なぜならこの社会では、すべてを言葉だけで伝達するからです。
いちいち絵を描いて説明したり、図やグラフで示さなければ理解できないのだとしたら、仕事の効率が悪すぎます。
これは最低限のことなので、理系文系は関係ありません。言葉で説明して、すっと理解できる脳かどうか。できないなら、社会人として相手にされないと思う。
教育の目的は、少なくとも国語力についていえば、ステージ4のレベルまで導くことだといえます。
逆に漫画しか読めない、活字だけの本は読めないという人は、国語力がステージ2、すなわち幼稚園レベルで止まっているといえます。読み書き能力、すなわち抽象と具象の相互転換能力がないから、絵がないとイメージできない。
この国語力は、十歳か、遅くとも十五歳くらいまでの読書量で、ほぼ決まってしまうように思います。二十歳過ぎてから取り組むのは、二十歳過ぎてから身長を伸ばそうとするくらい難しい。
その学習の基礎がないと、大人になっても本を読めないし、したがって知識も増えていかない。論理的にまとまりのある文章を書くこともできない。社会人として重要な仕事をまかされることはないと断言できます。
少し厳しい言い方かもしれませんが、やれと言われたことを、それが単純作業ならなんとかできるという程度では、最低賃金から抜けだせなくなる。
推理小説は、ある程度以上の頭のよさがなければ読めないと思っています。少なくともステージ4のレベルの国語力がなければ読めないと。
それ以下の人は、はじめから想定読者として捨てています。ここは割り切りも必要です。
秋元康は、おそらくステージ2とステージ3の中間くらいの国語力で書いています。
前回の『365日の紙飛行機』を歌っていた女の子。彼女は三、四歳にして、すでにステージ2とステージ3の中間くらいの国語力を持っていたと考えられます。だから意味を理解して歌えたのだと。
平たく言うと、絵はないけれど、絵があるような文章だということです。言葉のチョイスとその組み合わせによって、巧みに絵を描いている。
僕は、これは一つの発明だと思う。
次回は具体的な歌詞をあげて説明します。
Written by 木元哉多(きもと・かなた)
埼玉県出身。『閻魔堂沙羅の推理奇譚』で第55回メフィスト賞を受賞しデビュー。新人離れした筆運びと巧みなストーリーテリングが武器。一年で四冊というハイペースで新作を送り出し、評価を確立。2020年、同シリーズがNHK総合「閻魔堂沙羅の推理奇譚」としてテレビドラマ化。