第68話 磯川の作る新作絵本に、心洗われる思いがする日向だが

文字数 2,749文字

「どうぞ、こちらにお座りください」
 三沢が磯川の木のデスクの前に切り株で作った丸椅子を運び、東郷に勧めた。
「おー、ありがとう」
 東郷が、当然のように丸椅子に腰を下ろした。
「僕のために、いらっしゃったんですか?」
「それ以外、こんなところになんの用があるんだ? 磯川君も座れよ」
 東郷が横柄に言いながら、自分のオフィスのように磯川に椅子を勧めた。
「お茶とコーヒー、どちらがよろしいですか?」
 三沢が東郷に訊ねた。
「コーヒーの銘柄は?」
「銘柄……ですか? 普通のブレンドコーヒーですけど」
「じゃあ、お茶でいい。俺はブルマンかマンデリンしか飲まないから」
 東郷が言うと、三沢が苦笑いを浮かべながらフロアを出た。
「人の会社に勝手に押しかけて、傲慢(ごうまん)な人ですね」
 日向は東郷に皮肉を浴びせた。
「俺は自分の嗜好(しこう)を伝えただけだ。せっかく出してくれたものが口に合わなくて、残すほうが失礼だろう」
 東郷が悪びれもせずに言った。
「そういうところがあんたの悪い……」
「日向さん」
 磯川が日向を遮り、小さく首を横に振った。
 日向はヒートしかけた心を鎮(しず)めるために、磯川の絵本を手に取った。
 ここで揉め事を大きくして、また磯川に土下座させるようなことになってはならないと思ったのだ。
「どういったお話でしょう?」
 磯川がデスクチェアに腰を下ろし、東郷に訊ねた。
 日向は『みらいのキミからいまのキミへ』を開いた。

 あるアフリカの山おくに、ゴリラの親子がいました。
「ボク、しょうらい、野きゅうせん手になりたいな」
 子ゴリラは言いました。
「ゆめみたいなことを言ってないで、父さんみたいにかぞくをまもるゴリラになりなさい」
 母ゴリラは顔をしかめて、子ゴリラをさとしました。
「父さんだって、ゆめみて、そのゆめをかなえたよ」
 子ゴリラは言いました。
「父さんは、野きゅうせん手になりたいなんてゆめをみてないわ」
 母ゴリラは言いました。
「父さんは、母さんみたいなすてきなメスと出会い、けっこんできたでしょう? それが、父さんのゆめだったんだよ!」
 子ゴリラが、キラキラかがやくひとみで言いました。

「単刀直入に言おう。磯川君を俺の担当編集者にしてやるから、『日文社』に戻れ」
 東郷が、上からの物言いで磯川に命じた。
「いきなり、どういうことでしょう?」
「俺なりに考えたんだ。お前は『日文映像』にいるときに、俺の原作映画を大ヒットさせた。映画化効果で文庫もかなり売れたよ。『日文社』時代も、数々のベストセラーを生み出してるしな。なにより、小説とも言えないような乱暴な作品を書く日向君を、ベストセラー作家にした腕は凄い。お前を認めてやるよ」
 東郷が、さりげなく日向をくさしながら磯川を褒(ほ)めちぎった。
 日向は荒立ちそうになる心から意識を逸らし、絵本を読み進めた。
 
 あるオーストラリアの大草原に、カンガルーの親子がいました。
「ねえ、ママ、わたし、大きくなったらフライトアテンダントさんになりたいの!」
 子カンガルーは言いました。
「ゆめみたいなことを言ってないで、大きくなったらママみたいにパパをみつけて早く母親になりなさい」
 母カンガルーは顔をしかめて、子カンガルーをさとしました。
「ママは私に生まれてきてほしくなかった?」
「そんなわけないでしょう。あなたみたいなかわいらしい、けんこうなメスの子をさずかりたかったわ」
「ママは私が生まれてきたとき、どんな気分だった?」
「それはもう、ゆめがかなってしあわせな……あ……」
 母カンガルーが、なにかに気づいてことばをのみこみました。
「わたしも、ママみたいにゆめをかなえたいの!」
 子カンガルーが、声をはずませて言いました。

 相変わらず東郷の横柄な言動は日向の耳に入っていたが、絵本を読んでいるせいか不思議とイライラしなかった。
「認めていただき、ありがとうございます。でも、日向さんのことをそんなふうに言うのはやめてください。日向さんの文章は、乱暴どころか緻密(ちみつ)で繊細ですよ。もちろん東郷さんの作品も素晴らしいですが、日向さんの作品も小説として劣っているとは思いません」
 磯川が淡々とした口調で言った。
 日向は絵本を捲(めく)った。
 パイロットを夢みる子ウマ、消防士を夢みる子ゾウ、サッカー選手を夢みる子チンパンジー、ナースを夢みる子犬……。
 日向は、グイグイと物語に引き込まれた。
 
 ある日本の高原に、ヒトの親子がいました。
「あおちゃんのゆめを教えてくれない? パイロットとか、サッカーせん手とか、おいしゃさんとか」
 母親がたずねました。
「なりたいと思わないよ」
 男の子は、言いました。
「じゃあ、バスケットのせん手とか、野きゅうせん手とかは? あ、いまはユーチューバーとかかな?」
「なりたいと思わないよ」
「あおちゃんには、ゆめがないの?」
 母親は、かなしそうに言いました。
「ゆめはあるよ!」
 男の子は、元気な声で言いました。
「でも、なにもなりたくないって言ってなかった?」
 母親は、ふしぎそうな顔でたずねました。
「うん、その中にはなかったんだ!」
 男の子は、言いました。
「じゃあ、あおちゃんは大きくなったらなにになりたいのかな?」
 母親は、たずねました。
「ボクは、みんなをえがおにする人になりたい!」
 男の子は、キラキラとひとみをかがやかせて言いました。

「わかった、わかった。日向君が立派な小説家だと認めようじゃないか。これでいいか? ということで話を本題に戻すが、いつ『日文社』に戻ってくるんだ?」
 東郷は相変わらず上から目線の物言いをしながら、「日文社」に復帰することを前提に話を進めた。
「どうぞ」
 三沢が東郷の前に麦茶のグラスを置いた。
「あ、社長さんだっけ? 磯川君は俺の担当編集になるから、人手が足りないなら誰か送り込むぞ。編集者の性別とか年齢とか、希望はあるか?」
 東郷が一方的に三沢に言った。
「え……」
 三沢が困惑した顔を磯川に向けた。
「東郷さん、たとえ『日文社』の社長のポストを用意されても、僕は『童夢出版』を辞める気はありません」
 磯川は口調こそ物静かだが、きっぱりと言った。
「俺がこうやって直々に頼みにきてやって……」
「磯川君、この絵本、最高だね!」
 日向は東郷を遮(さえぎ)り、『みらいのキミからいまのキミへ』を磯川に差し出した。
「ありがとうございます。手前味噌(みそ)になりますが、僕も凄く気に入ってます!」
 磯川が声を弾ませた。

(次回につづく)

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