NKVDの恐怖。どこまでも追いかけて殺す工作員の「謎の叫び」。
文字数 2,115文字
レオン・トロツキー暗殺事件 1940年

「1年以内に排除されなければならない」
1939年、ソビエト共産党の書記長ヨシフ・スターリンはこう言ってレオン・トロツキー(60)の暗殺をNKVD(内務人民委員部。スターリン政権下で秘密警察などの役目を果たした)に命じたという。
トロツキーは、赤軍創設者の一人であり、ロシア革命の立て役者である。ロシア革命は事実上、レーニンとトロツキーの指導によって為されたと言える。
しかし、レーニンの死後、スターリンとの後継者争いに敗れてソビエトを追放されたトロツキーは、各地を転々。1937年メキシコに居を定めた。その間もソビエトのコミンテルンに対抗して第四インターを設立するなど、スターリンの政策を非難し続けた。
一方、次第に独裁体制を固めたスターリンは、指導者の立場を争った政敵を手始めに、古参の共産党員や赤軍の重鎮などを次々に処刑していく。
それは、すでに外国に追放されたり、亡命した要人も例外ではなかった。革命を成し遂げた偉大な先輩や同輩の存在は、スターリンにとって「目の上のこぶ」だったのだろう。そして、トロツキーはいわば「いちばん大きなこぶ」だった。
まずはパリに留学中のトロツキーの息子がNKVDによって誘拐され、殺害される。
危機感を感じたトロツキーは高い塀で自宅を囲い、庭にレンガ造りの監視塔を設けるなど、自宅を要塞化したが、1940年5月、NKVDの工作員たちは、この自宅に乱暴な攻撃を仕掛ける。自宅を急襲して焼夷弾を投げ込んだ上、機関銃を乱射したのだ。
幸いトロツキーは無事だったが、NKVDはこれに並行してもう一つの作戦を進めていた。
NKVDの工作員、ラモン・メルカデル(26)はスペイン生まれ。母親も工作員で、ソビエトの大物諜報員、ナウム・エイチンゴンの愛人であった。
メルカデルは「ジャクソン・モルナール」と称して、シリヴィ・アゲロフというトロツキーの側近の女性に近づいた。二人は間もなく“恋仲”になり、アゲロフはメルカデルをトロツキーに引き合わせてしまう。
8月20日の午後4時過ぎ、快晴にもかかわらずレインコートを腕にかけたメルカデルがトロツキー邸を訪れた。トロツキーに自分の論文を見てほしいと頼みに来たのだ。
そして、突如トロツキーの書斎から恐ろしい悲鳴が響く。家族が駆け付けるとトロツキーが書斎から、よろめきながら出てきた。
「ジャクソンは連発銃で私を撃った。重症だ。もう駄目だと思う」。苦悶の表情を浮かべながら、トロツキーはこう話した。
実際の凶器は拳銃ではなく、登山用のピッケルだったが、背後から強く鋭い衝撃を受けたトロツキーは、それを銃弾によるものと誤解したようだ。
「……(トロツキーが机に向かって論文を読み始めたので)私はレインコートからピッケルを取り出すと、目を閉じて彼の頭に一撃を与えた。彼は苦痛の甲高い叫びをあげつつ、私に襲い掛かり、左手に噛み付いた」(メルカデルの供述)。
メルカデルは護衛の人たちに激しいリンチを受けながら「殴るのをやめろ。俺はこうしなければならなかったんだ。あいつらは俺の母親を押さえているのだ」と叫んだという。
病院に運ばれたトロツキーはこん睡状態に陥り、翌日には息を引き取った。
逮捕されたメルカデルは偽名を騙り、犯行の動機は、トロツキーにシルヴィとの結婚を反対されたという私怨によるものだと主張。犯行の様子を語る以外、一切の証言を拒否した。指紋によって彼の身元が判明したのちも、彼は証言しなかった。
1960年、メルカデルは20年の刑期を終えると、キューバからチェコを経由して秘密裏にソビエトに送られた。そして、ソビエトはメルカデルにソビエト連邦の与える最高の勲章であるレーニン勲章を授与したのである。実は、犯行から一年後にもメルカデルにレーニン勲章が授与されていたが、この時は代わりにメルカデルの母親がスターリンから直接勲章を受けている。
だが、メルカデルが渡ったソビエトは、とうにスターリンは死んでおり、1956年のフルシチョフによる「スターリン批判」の後のこと。
スターリン時代は、反革命罪で裁判にかけられたものだけでも、68万1,692人が死刑判決を受けるなど、まさに悪夢の時代であった。メルカデルは、そんな悪夢の時代からよみがえった厄介者でしかなかったのだ。
失望したメルカデルはフィデル・カストロに招待されてキューバに渡り、そこで亡くなった。64歳だった。

『亡命者トロツキー 1932-1939』ジャン ヴァン・エジュノール/著 小笠原豊樹/訳(草思社文庫)
関連書籍
『虹色のトロツキー』安彦良和/作(潮出版)
