『魔王』新装版解説「2022年末からふりかえる『魔王』」/大森 望

文字数 6,154文字

イラスト/蓮村
東野圭吾氏や宮部みゆき氏と並んで日本のエンターテインメント小説界を代表する存在である伊坂幸太郎氏による初期の代表作『魔王』

その『魔王』の新装版は、カバーのメインビジュアルを一般公募するというプロジェクトを実施、審査の結果「蓮村」氏のイラストが選ばれました。

そんな『魔王 新装版』を、書評家の大森 望氏が解説してくださいました!

ただし、ネタバレがあるので顛末を知りたくない方は注意してくださいね。


 デビュー長編『オーデュボンの祈り』(新潮社/2000年12月刊)から22年。いまや、伊坂幸太郎は、東野圭吾や宮部みゆきと並んで、日本のエンターテインメント小説界を代表する存在となっている。2022年12月現在、著書は小説だけでも40冊を超え、日本国内で映画化された作品は13タイトル。2021年には『マリアビートル』がBullet Trainのタイトルで英訳されて、2020年度のストランド・マガジン批評家賞最優秀新人賞を受賞。2022年には、それがブラッド・ピット主演でハリウッド映画化(邦題『ブレット・トレイン』)されるなど、海外でも注目度が急上昇しつつある。Kotaro Isakaが世界的人気作家になる日も遠くない。そのときになってあわてないように、いまのうちに過去の名作をいろいろ読んでおいたほうがいいですよ。


 ……という老婆心からなのかどうか、初期の代表作のひとつである『魔王』の新装版がこうして刊行されることになった。新しいカバー用のメインビジュアルを一般公募するという大胆なプロジェクトも実施され、ごらんのとおり、著者および講談社の審査を経て選ばれた「蓮村」氏のイラストがカバーを飾っている。また、本書に続いて、『魔王』の続編というか後日譚にあたる上下巻の大長編『モダンタイムス』、その2作と共通するテーマを扱った『PK』も、新装版が連続刊行される予定。この機会にぜひ〝世界のイサカ〟の神髄に触れてほしい。


 ……と、これだけ言えば、新装版解説者の使命はほぼ果たし終えたようなものだが、せっかくの機会なので、〝2022年末からふりかえる『魔王』〟についてもう少し詳しく書いてみよう。


 本書『魔王』は、中編二編の連作から成る。安藤兄弟の兄を主人公とする「魔王」と、弟を主人公とする「呼吸」。どちらも、オール読み切りの新しい小説誌〈エソラ〉の1号(2004年12月)と2号(2005年7月)に掲載されたのち、2編を1冊にまとめた単行本が2005年10月に講談社から刊行された。


「魔王」の一人称主人公の〝俺〟こと安藤(兄)は、ごくふつうの会社員だが、あるとき自分が、念じた言葉を他人に言わせることができる〝腹話術〟的な特殊能力を持っていることに気づく。カリスマ的な人気を誇る(国家ファシスト党を率いたイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニを思わせる経歴を持つ)若手政治家・犬養の台頭に強い危機感を抱いた安藤(兄)はみずからの果たすべき役割について考えはじめる。


 単行本刊行時、〈本〉2005年11月号に寄稿された著者のエッセイ「魔王が呼吸するまで」(新潮文庫『3652 伊坂幸太郎エッセイ集』所収)によれば、「魔王」はもともと「百枚くらいのお話を」と依頼された作品だった。ところが、書きはじめるとどんどん筆が走り、三百枚近くまでふくらんでしまったという。最初に頭にあったのは「魔王」という題名。次に主人公が持つ特殊能力を考え、主人公が政治家と対決するという構造を決定した。その政治家の下敷きにムッソリーニを流用しようというところまで決めたら物語がひとりでに動き出し、〈ファシズム、宮沢賢治、冒険野郎マクガイバー、スイカの種並び、死神、とにかく僕の記憶に隠れていた物が次々と表に出て(中略)どんどん、繫がっていく〉ことで、ゴールまでたどりついたという。


 発表後の反響の中で唯一予想外だったのは、先行作品との類似を指摘されたこと。〝将来、国の指導者になりそうな政治家に危険を感じた主人公の超能力者が、その政治家の排除を試みる〟という物語は、スティーヴン・キングが1979年に発表した長編小説『デッド・ゾーン』(および、デヴィッド・クローネンバーグ監督、クリストファー・ウォーケン主演で1983年に製作された映画版)と共通する。この小説を読んでいなかった(映画も観ていなかった)伊坂幸太郎は、〈類似した作品がある、と言われ、大きく落胆をしました〉と書いているが、だからといって「魔王」の価値が下がるかというと、そんなことはまったくない。わたし自身、発表時には、てっきり『デッド・ゾーン』の本歌取りだと思って読んだ記憶があるが、超能力で予見した世界の破滅を止めるために銃撃による暗殺を試みる『デッド・ゾーン』に対し、「魔王」は、非常に特殊な能力と皮肉な展開を用意することで、21世紀にも通用するように伊坂幸太郎らしくアップデートした作品と受けとめた。

【以下、小説の内容に触れていますので、未読の方はご注意ください!】

 当時の日本では、政治家に対するテロがそれほど身近な問題として認識されていなかったからなのか、いま「魔王」を読み返してみるとずいぶん印象が違い、より生々しく、リアルに見える。


 もちろんそれは、2022年7月8日、選挙遊説中の元首相が、自作の銃を持って背後から近づいた犯人に狙撃され、死亡するという事件が起きたためでもある。その事件をきっかけに、犯人が恨みを抱いていたカルト的宗教団体に対する批判の嵐が吹き荒れ、悪質な寄附を規制する新たな法案が成立したことも含め、時代がますます〝伊坂幸太郎化〟しているような気がしなくもない。いまはじめて『魔王』を手にとった読者は、否応なくあの事件を想起し、伊坂幸太郎の〝予言〟に戦慄するかもしれない。


 もっとも、伊坂作品が予言的だと言われるのはいまにはじまったことではない。本書に収められている斎藤美奈子さんの解説は、『魔王』の初刊以後に起きた小泉郵政選挙や第一次安倍政権下の(改憲を前提にした)国民投票法の成立に触れて、〈『魔王』には、その後の政治状況を彷彿させる、もしくは予言しているかのように見える部分がいくつもある〉と書いている(そのあとに〈それとも、政治の状況なんていうのは、いつの時代もたいして変わらないってことだろうか〉とも付け加えているが)。


 今回、一連の新装版の解説を書くために、仙台の著者とZoomをつないでざっくばらんに話を聞いたが、この点について著者は、「何かあるたびに『作品の中で予言してましたよね』と言われるんですよ」と語っている。そういう状況そのものが伊坂幸太郎的にも見える。


 憲法改正をモチーフに選んだのは、現実的な危機感とか、社会的な使命感というよりも、作家的な嗅覚だったらしい。前出のエッセイにいわく、〈「近い将来、憲法改正の国民投票は必ず行われる」と僕は思っていたため、「その時になって、小説で描くよりも、今から先に描いておくべきではないか」と考えずにはいられなかったからです(どんな物でも先にやった者勝ちではないか、という色気もあったのかもしれません)〉。


 実際、本書収録作が執筆されてから17年あまり経って、日本の情勢はますます憲法改正に近づいている。意外と時間がかかっていると見るか、時計の針が着々と進んでいると見るか、立場によって考えかたはさまざまだが、そこに描かれた問題はいまもまだ古くなっていない。そう考えると、やはり伊坂幸太郎の作家的嗅覚がすぐれていたということか。Zoomインタビューによれば、

「憲法改正がいいことかどうかは別にして、冷戦時代に育ったせいか怖いイメージを持っちゃっているんですよね。当時、そろそろ国民投票になるのかな、不安だなあと思ったとき、なんか一個ぐらいはいいことがあるといいなあと思って。小説の中で憲法改正を書いておけば、国民投票が現実になったとき、ちょっとくらいは話題にしてもらえるんじゃないかとその時は思って(笑)。そうすれば、ただ落ち込むだけじゃなくて、少しはよかったと思えるかなあ、と」


 小説の中で悪い予言をしておけば、悪いことが起こったとしても予言が的中したという慰めは得られるし、逆に(予想が的中したと大喜びしている未来が想像できないから)そういう未来が訪れる確率は低くなるのではないか──というたいへんまわりくどいリスクヘッジをかける意味もあるらしい。まあ、もちろんこれは作家的ジョークというか、一種の韜晦だろうが、偉そうに天下国家を語りたくない(もしくは、そういう作家だと見られたくない)という姿勢は一貫している。大文字の正義よりも身近な正しさ。大きな洪水を止めるよりも、乱れたスカートの裾を直してあげること。乾坤一擲の大勝負よりも小さな保険。


 伊坂幸太郎の若い読者のほとんどは米ソ冷戦時代を知らないだろうが、2020年代には、米中対立の激化にともない、米中新冷戦とか第二次冷戦とか言われる状況が生まれた。また、ロシアのウクライナ侵攻により、ロシアも米欧とさらに激しく対立。旧冷戦時代の東西対立にかわって、専制主義陣営vs.民主主義陣営という新たな冷戦構造が定着しつつある。いつミサイルが飛んでくるかもしれないという冷戦時代の不安がJアラートに姿を変えて復活し、伊坂幸太郎の不安が老若男女の読者に共有される時代になっている。


 先ほど引用したエッセイでは、すんなり完成したように見えるが、Zoomインタビューによると、「魔王」の初稿を書き上げた直後は、ずいぶん暗い話を書いてしまったと思って自分で自分の作品にがっくりしたという。


「これ、がんばってがんばって思い込んじゃった人がただ死ぬだけの話じゃないですか。二カ月もかけてこんなに暗い話を書いてしまった……と。がっくりしていたそのとき、〝巨乳〟を思いついて、それでどうにか着地できたんです」


 本編の中で、カリスマ政治家は演説の最後に、宮沢賢治の生前未発表の詩「生徒諸君に寄せる」の一節を引用する。

「諸君はこの颯爽たる/諸君の未来圏から吹いて来る/透明な清潔な風を感じないのか」

 この詩はさらに、「それは一つの送られた光線であり/決せられた南の風である/諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて/奴隷のやうに忍従することを欲するか」と続く。ちなみにわたしが個人的に好きなのは、「新しい時代のコペルニクスよ/余りに重苦しい重力の法則から/この銀河系を解き放て」というフレーズ。うーん、なるほどかっこいい。


 これはもともと宮沢賢治が1927年に〈盛岡中学校校友会雑誌〉への寄稿を求められて書いた詩が、下書きのまま残されていたものらしい。いずれにしてもすばらしく力強い言葉だが、主人公が述懐するとおり、〈魅力的で力のある言葉は、いつだって扇動家に利用される〉。その宮沢賢治の詩の力に対抗する言葉が〝巨乳〟だという発想がすばらしい。命がけで対峙した敵に、はたして「巨乳大好きー!」と言わせることができるのか? これを最大のクライマックスに持ってくるところに伊坂幸太郎の天才がある。そのおかげで、ただの悲劇ではない、笑いと悲しみが一体になった絶妙のラストが生まれた。著者いわく、「笑えないときついんですよね。悲しくて、でも笑えるというのがいい」。


 ──とはいえ、いまならこの台詞は書けなかったのでは。

「そうなんですよ。もともと〝巨乳がどうこう〟という話が得意じゃないので、そういう価値観を肯定する使い方ではなかったんですけど、言葉そのものがいまは使いにくい気がしますね」

 その意味では、2005年時点に〝ギリセー〟(ギリギリセーフ)だったおかげでこの奇跡的なラストシーンが実現したのかもしれない。


 Zoomインタビューによれば、「魔王」を書いた時点では続きは考えていなかったが、〈エソラ〉の2号を出せることになったのでまた書いてほしいと依頼されたとき、「魔王」と対になるような〝何も起こらない話〟として発想したのが「呼吸」だった。動の「魔王」に対して、静の「呼吸」。


〈「魔王」の正反対の物語にしようと決めた瞬間、「『魔王』の反対語は、『人間』や『天使』ではなく、『呼吸』である」と確信しました〉〈「魔王」が直球だとしたら、「呼吸」はスロウカーブにすべきだ、と〉(前出のエッセイより)


 もっとも、「魔王」に出てくる超能力の〝腹話術〟に匹敵するような新たな能力を考えるのは困難だった。

「腹話術は自分ではすごく気に入ってたんですけど、それにかわるものをいろいろ考えたけど思いつかなくて。素人時代に書いていたネタを流用したんです。確率10分の1を1にする能力を持つ青年が誘拐犯と戦うみたいな小説を(日本推理サスペンス大賞の)応募原稿で書いてて。それを使うしかないなと思ってひっぱってきて。ただ、エンタメ的に使うんじゃなくて、エンタメ感のないものとカップリングしようと思って、鳥の観察の話を入れたんです。


 この能力も書評で叩かれたんですよね(笑)。『競馬が無理なら競輪にすればいいじゃん』とか。ああそうかと思って、文庫にするときに言い訳を書いたんですけど(笑)」


 ──でも、10分の1が能力の限界だってことを検証するためには競馬じゃないといけなかったわけだから、そこは必然性がありますよね。

「そう思ってもらえるといいですけどね。とにかく、この『魔王』と『呼吸』でぼくの得意パターンができて。特殊な能力を出すのとそれを検証するのとで(起承転結の)起承を乗り切るという。それがフォーマットとして確立したので、困ったときはいつも『魔王』に立ち返る。『PK』の『密使』に出てくる時間スリもそうだし、『フーガはユーガ』とか『ペッパーズ・ゴースト』とかみんなそのパターンです(笑)」


 その意味では、『魔王』は現在の伊坂幸太郎作品に直結する〝原点〟のひとつでもある。そして、安藤兄弟の思いと〝力〟は次の時代へと受け継がれ、50年後を背景にした伊坂幸太郎史上最長の長編『モダンタイムス』に結実する。


 主人公は恐妻家のシステムエンジニア、渡辺拓海。なんでもない仕様変更の仕事を担当したところ、同僚や上司が次々に不幸に見舞われる。どうやら彼らは、同じ三つの言葉を検索したらしい。謎を追いかけるうち、やがて拓海は、監視社会の〝システム〟の裏側に触れることになる……。

 本書の次は、ぜひ『モダンタイムス』を手にとってみてほしい。


 2022年12月 大森 望


伊坂幸太郎(いさか・こうたろう)

1971年千葉県生まれ。東北大学法学部卒業。2000年『オーデュボンの祈り』で第5回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。04年『アヒルと鴨のコインロッカー』で第25回吉川英治文学新人賞、「死神の精度」で第57回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。08年『ゴールデンスランバー』で第5回本屋大賞と第21回山本周五郎賞、20年『逆ソクラテス』で第33回柴田錬三郎生を受賞する。近著に『クジラアタマの王様』『ペッパーズ・ゴースト』『マイクロスパイ・アンサンブル』などがある。

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