ここは、おしまいの地

文字数 7,092文字

 実話をもとにした私小説『夫のちんぽが入らない』で鮮烈なデビューを果たしたこだま氏の三作目『いまだ、おしまいの地』が太田出版より発売!

 それを記念して、著者の二作目にして、第34回講談社エッセイ賞を受賞した『ここは、おしまいの地』の中から表題作を全文公開します。

 田舎の何もない集落で生まれ育ったこだま氏。「当たり前」が通用しない、規格外の人が集まるおしまいの地で、それでも生き抜く決意が綴られた、儚くも芯の強い一篇をご覧ください。


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 私はヤンキーと百姓が九割を占める集落で生まれ育った。
 芸術や文化といった洗練されたものがまるで見当たらない最果ての土地だった。
 コンビニも書店もない。学習塾もない。公民館のロビーの一角に「貸し出しコーナー」と書かれた今にも倒壊しそうな本棚が三つあり、住民はそれを「図書館」と呼ぶ。
 電車が通っていないので、もちろん駅もない。バスは一日二便。朝の便を乗り過ごすと午後まで集落から出ることができない。

 ないものばかり数え上げても仕方ない。春先には住民が強制的に参加させられる運動会がある。まるで中国の国家行事みたいだなと思っていたら、本当に似たような大会が中国にもあった。中国人は手榴弾を投げて競い合っていたが、我々は大きな俵を担いでリレーする。
 芸術はないが、農業はある。あり余る。赤、青、緑といえば信号機ではなく農作業着の色だ。
 十二月には窓がすっぽり埋まるほど深い雪に覆われる。息を吸い込むと肺胞がぽろりともげ落ちそうな氷点下の夜。ひと冬に何度か破裂する水道管。冬は集落をいっそう陰気なものにする。
 集落に生まれ、底辺の学校を出て、就職先もまた僻地。その後の転勤先もことごとく山奥。志願して田舎に赴任したわけでも、これといって愛着があるわけでもないけれど、体内に強烈な磁石でも埋め込まれているのか、限界集落すれすれの地ばかりに縁がある。
 そうして、見切りをつけて飛び出すこともせず、運命に身を預け、ずるずると根を下ろして暮らしている。

 集落の秋。ことに十月は不穏の色を増す。
 腰の折れ曲がった老婆たちが道端に大きなカボチャを積み始める。粗大ゴミでも出すように、どかんと無造作に置く。
 「ハロウィンはカボチャの祭りです。みなさんの畑にある、いらないカボチャを出しましょう」
 そんなあやふやな情報に踊らされ、廃品回収と同じ要領で始まったのかもしれない。
 ある者は表面のでこぼこに「祝」や「長寿」、少し視野の広い老人は「世界平和」「TPP反対」などとマジックペンで書く。中には無理やり服を着せられたカボチャもある。その顔には「交通安全」と大きく書かれている。年寄りが見よう見まねで展開する願い事だらけのハロウィン。秋の七夕である。
 雨風でインクが滴ると「願いのカボチャ」は「呪いのカボチャ」へと進化を遂げ、不気味な姿で田舎道に佇む。目や口をくり抜いたものも並ぶが、あまりにも作りが粗すぎて、それが意図的なのか鳥や狸に食われたのか判別できない。惨劇だ。
 もちろん仮装する若者なんていない。練り歩くにしても農道しかない。けれどもハロウィン本来の恐ろしさという一点においては、都会のパレードよりも、はるかに勝るのだった。皮肉なことに、そこだけは西洋文化を継承している。カボチャ生産者の空回りしたやる気だけがひしひしと伝わる。それが集落の秋。

 集落の人々には鍵をかける習慣がない。
 私の実家はこれまでに二度、不審者に侵入されている。二度やられてもなお鍵をかけようとしない。変なところだけ徹底しているのだ。
 最初の侵入者は私が中学生のとき。朝方、目を覚ますと私の部屋のドアが半開きになっていた。おかしいな、ちゃんと閉めたはずなのに。そう思いながらドアに歩み寄った瞬間、足裏にジャリという感触があった。泥の塊だった。枕元にも点々と痕跡がある。泥を辿りながら一階へ下りていくと、玄関の扉が開けっ放しになっていた。
 慌てて両親と妹を揺さぶり起こした。小学生の妹は、夜中、知らないおじさんに「早く寝なさい」と、やさしく声をかけられたという。
 いちばん不可解な行動を取ったのは父だ。目を覚ますや否や「狐が紙飛行機を飛ばしている」という謎の言葉を残し、裏山に向かってふらふらと歩いて行ったのだ。
 現金や通帳は無事だったが、その日は父を筆頭に家族全員がまるで毒を盛られたかのように、どこかふわふわしていた。きっと盛られたのだ。いや、狐の仕業だろうか。

 第二の侵入者は、母にプレゼントしたばかりのニンテンドーDSと脳トレのソフト、そして父が数年がかりで貯めた阪神タイガースのトラッキーの貯金箱を盗んでいった。トラッキーには爪先から帽子まで硬貨がぎっしり詰まっていた。
 またしても大金や通帳には手を付けず、家族のやわらかい部分だけを持ち去ったのだ。田舎の泥棒は心理的なダメージを与えることに重きを置いているのだろうか。それも、あとからじわじわ効いてくる系統の。
 おかげで母は未だに脳を鍛えられずにいる。
 「泥棒がゲームに飽きたら本体を返しに来てくれるかもしれない」
 そんな一縷の望みを抱き、母は家に残されたDSの充電器を大事に保管している。
 母がボケたら空き巣のせいだ。

 不審者だけではない。実家は訪問販売の餌食にもなってきた。
 こうなると田舎云々ではなく、単に我が家の人間性に問題があるのかもしれない。
 母は販売員に勧められるまま、三十万の羽毛布団と五十万の浄水器を買ってしまった。我が集落は、ひときわ純度の高い水源に恵まれている。水道水が美味いことが数少ない自慢なのだ。これ以上何を浄める必要があるというのか。
 祖母は「これから実演販売をやるから家の人にはナイショで見においで」と、いかにも怪しい言葉で、農協倉庫前のクヌギの樹の下に誘い出され、腰痛が治るという四十万の「磁気入り健康マットレス」を買わされた。
 幼い私がいちばん心を痛めたのは、金額ではなく「クヌギの樹の下で買わされた」という事実だった。その光景がまざまざと目に浮かぶのだ。地面に敷いたシートの上に並べられた健康器具の数々。勧められるままに手に取る、腰の折れ曲がった祖母。これでは本当に部族の売買じゃないか。簡単に樹の下に誘い出さないでくれよ。そう切に願った。

 最近では集落の老人たちがオレオレ詐欺の被害に遭っているらしい。やられ放題だ。あらゆる被害のしわ寄せが田舎に来るのだ。
 しかし、何度も実害を被ると、さすがに警戒心を持つようになったらしい。
 詐欺被害のニュースを見ていた母が得意気に言った。
 「うちんとこに潜伏していた下っ端の〝さしこ〟も逮捕されたのよ」
 おそらく受け子か出し子のことだろう。いや、本当に「さしこ」なのか。田舎に潜伏し、犯罪の片棒を担ぎながら総選挙に出場していたのだろうか。

 集落の老人といえば、母方の祖父も一風変わった人だった。広大な大地がそうさせたのか、元から備わっていたものなのか、酒を飲むと辺り構わず暴れる彼だが、素面では「いいんだ、気にするな」が口癖の気前のいい老人だった。
 祖父は生涯に二度も車に撥ねられている。
 一度目は道路を横断しようとして乗用車に撥ね飛ばされた。全身を強く打ち、うんうん唸っていると、運転席から青年が真っ青な顔をして降りてきた。年の頃は自分の息子と同じくらい。
 咄嗟に祖父は叫んだ。
 「若者には未来がある! 警察が来る前に去れ! さっさと逃げろ! 遠くまで逃げろ!」
 被害者の言葉ではなかった。祖父は見ず知らずの加害者に逃走を勧めた。血を流して横たわり、めちゃくちゃにキレながら。
 青年は言われるままに走り去った。それを見届けた祖父は、路肩の草むらにごろりと横になり、数時間休んだのち、何事もなかったように歩いて帰宅したという。
 私はこの逸話を最近になって知った。あまりにも祖父らしい計らいだと思い、腹を抱えて笑った。裁判だの賠償だのと責任の所在や損得を決めたがる人は多いけれど、祖父には世間の常識や規則なんて関係なかった。自分の心のままに行動する人だった。
 そんな祖父も二度目の交通事故で帰らぬ人となった。
 今度の相手は大型のトラック。さすがの祖父も草むらで小休止する余裕はなかった。
 それでも「段ボールのようにふわっと舞い上がった」とか「家族に内緒で購入した自分の墓をこっそり下見に行く途中だった」とかいう間の抜けた証言を聞くと、申し訳ないけれど酸素マスクをした危篤の本人を前にして吹き出してしまった。
 不慮の死でありながら、大往生を遂げたかのような和やかな葬儀だった。祖母も含めて親戚一同「じいさんらしい死に方だな」と顔を見合わせて笑った。
 こんな不謹慎さも田舎の人間の特徴なのだろうか。それともただの血筋か。どちらにしても「ありがたい血を受け継いだ」と私は思う。

 都会へ出かけたこともなく、インターネットもない時代だったけれど、子供ながらに「ここは、おしまいの地」という自覚はあった。
 この学校で一番を取っても何の価値もない。この集落は終わっているのだから。そうやって一歩離れたところで諦観を決め込んでいたけれど、実際のところ私は勉強でもスポーツにおいても一番になどなれなかった。おしまいの地の、クラスの五番手くらい。口ほどにもなかった。
 小学校から帰ると、有り余る時間を無理やり潰すように、野山の花や蝶を集めたり、夜空を見上げて星座の傾きを書き写したりして過ごしていた。やっていることは古代人とさして変わらなかった。
 没頭できるような娯楽もない。気の許せる友達もいない。
 行き着いた先は自分との対話だった。安心して曝け出せる相手は己だけ。内へ内へと向かい、寝る前に日記をつけるようになった。くだらなくて、かわり映えのしない毎日だったけれど、布団の中で日記帳を開いて一日を思い返していると、いつしか心が満たされた。
 誰にも見せることのない、自分だけの記憶の置き場だった。

 ──きょうの五、六時間目はプール。あっついからとってもうれしー。でも、水の色は緑色。虫もいっぱい浮いてる。きっもちわりー。うわさだけど、この緑色はバスクリンを入れてるせいなんだって。夏休み始まったときからずっと水をかえてないんだって。きったねーな。でも、先生に「汚いから、水に顔つけなくていい」って言われたから、最終的にラッキー。(小学六年、九月一日)

 ──一、二時間目は体育で鉄棒。その前に準備運動があって、男子はグラウンドを五周、女子は十五周なのです。先生はなんでこんなに差別するのかな。(小学六年、十一月五日)

 ──Nさんの国語、社会、理科の三教科の教科書がなくなったの。この前はBさんのもなくなったわけだから、先生は、だれかがかくしたんだ! と言い張って、三時間目の算数をつぶして、NさんとBさんにいろいろ聞いてた。犯人はわかったそーだ。だれだろーねっ。(小学六年、十二月一日)

 プールにバスクリン。そんな馬鹿なことがあるかと一笑に付されるかもしれないが、記憶の中のプールは確かに黄緑色だ。何が起きても不思議ではない地域なのだ。
 当時クラスの女子のあいだで仲間はずれや盗難が頻繁に起きていた。担任の男性教師は、連帯責任として、たびたび女子全員を教室から追い出して廊下に立たせたり、女子の給食のおかわりを禁止したりしていた。いま同じことをすれば、たちまちニュースになるだろう。
 担任の「腐りきった女どもの根性を叩き直す」という作戦は功を奏さず、女子のあいだの報復合戦は陰湿になる一方だった。どこの世界にも悪いことをする人間はいる。田舎は狭い人間関係の中で生き続けなくてはいけない分、一度つまはじきにされると、その苦労は集落を出るまで続いた。
 ふたりの教科書を隠したのはAさんという女の子だった。
 彼女は女子グループから、鉛筆を折られたり教科書をゴミ箱に捨てられたりしていた。その報いとして、Aさんが彼女らの教科書を学校の焼却炉にぶち込んで燃やしたと聞き、「やるなあ」と思わず顔がほころんだ。そんなことを口にしたら、たちまち袋叩きにされるから、できるだけ神妙な顔をつくって押し黙っていたけれど、やっぱり私は嬉しかった。彼女はひとりで闘っていたのだ。
 Aさんも私も、ひとりもの同士だった。
 私はあからさまに仲間はずれにはされていないけれど、宿題や掃除当番やさまざまな面倒なものを押し付けられていた。「便利だから一応仲間に入れとく」というぎりぎりの待遇らしきものがあった。
 誰のことも好きじゃない。誰も友達ではない。けれど嫌われるのは面倒だから、いくつもの「貸し」をつくって身を守っていた。闘う彼女と闘えない私。ひとりもの同士で結託することもなく、お互いの様子を窺いながらそれぞれの方法で息をしていた。

 ──きょうね、お母さんが私にだけ一足早くクリスマスプレゼントをくれたの。もちろん『マッピーランド』。マッピー、最初は意味がわかんなくて、「おもしろくない」って思ったけど、だんだん上手くなって、もうはや一の四面まで行けたよ。やったね。湯たんぽさん、あったかーい。やったね。(小学六年、十二月二十二日)

 こんなに浮かれている日記は珍しい。人間本当に幸せなときは湯たんぽにも「さん」を付けるのだ。学校では誰とも気軽に話せないが、相変わらずノートの中でだけは饒舌だった。
 時はファミコン全盛期。世間にならい、我が家にも一時期だけファミコンが存在したけれど、ある日それらが突然姿を消してしまった。ゲームばかりする娘たちを懲らしめるために両親が捨てたと思い込んでいたのだが、彼らはファミコンの紛失を最近まで知らなかったらしい。これも空き巣に持って行かれたのかもしれない。

 ヤンキーはトラック運転手やヤクザになり、農家の子は跡を継ぐ。地元に残った女子の多くは野菜選別や魚の解体などのパート従業員を経て、トラック運転手や農家の跡継ぎと結婚し、子をもうける。世の中が目まぐるしく変化しても、集落はそのようにしてまわっていた。
 私は念願だった教職に就くも、学級崩壊を起こして心身を病み、退職した。
 大学を出たのに定職に就いていない者に対して、集落の人の目は殊さら厳しかった。両親にも「恥ずかしい。せっかくお金をかけて大学にまで行かせたのに」と散々溜息をつかれた。
 「病気になって、仕事辞めて、子供も産めないんだって」
 中学を卒業して以来会っていない同級生にまで伝わっていた。
 病気になって、仕事を辞めて、子供も産めないことがいったい何だというのだろう。この集落を出たあとの私の何を知っているのだろう。そう問い詰めてみたいけれど、それを気にしているのは他でもない私自身なのかもしれない。

 私は実家に帰りづらくなり、暇を埋めるようにブログを更新した。
 開設したてのころは、買った物や食べた物、アルバムやB級映画の感想などを載せていたが、それは長く続かなかった。けれど、家族のことや集落での出来事を思い返しているときは、なめらかに指が動いた。
 私は集落のちょっとした腫れ物のような扱いを受けていたにもかかわらず、気が付くとブログにもコラムにも故郷のことばかりを綴っている。そこにあるのは憎しみでも恨みでもなく、滑稽な過去だ。それは、子供の時分、寝る間を惜しんで日記帳に向き合っていた日々に似ている。

 何もない集落に生まれたことも、田舎者丸出しのなりふり構わない暮らしも、大人になってそれらを隠しながら生きていたことも、教員を続けられなかったことも、病気も、経験してきた数々の恥ずかしい出来事すべてが書くことに繫がるのなら、それでいいじゃないか。そこに着地させたい。私の中の「おしまいの地」を否定せずに受け止めたい。そう思うようになった。
 誰も気に留めることのない、この小さな集落に私のすべてがある。
 そんな他人から見れば些細な話をこれからも書いていく。

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こだま
主婦。2017年1月、実話をもとにした私小説『夫のちんぽが入らない』でデビュー。たちまちベストセラーとなり、「Yahoo! 検索大賞」(小説部門)を2017年から2年連続で受賞。同作は漫画化(ヤンマガKCより発売中)、連続ドラマ化(2019年Netflix・FODで配信)された。本作は二作目のエッセイで第34回講談社エッセイ賞受賞。



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集団お見合いを成功へと導いた父、とあるオンラインゲームで「神」と崇められる夫、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……おしまいの地"で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまの日々の生活と共に切り取ったエッセイ集。



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