『7.5グラムの奇跡』砥上裕將 試し読み

文字数 2,596文字

第一話 盲目の海に浮かぶ孤島



(前略)



 視野というのは、盲目の海にポツンと一つ浮かぶ孤島に例えられる。

 なにも見えないのが海の部分で、見えているのが島の部分ということだ。検査のときに視野の島の上を通過する光を、僕は島の上空を飛ぶプロペラ機のようなものだと思っている。患者さんはその飛行機が見えた瞬間に「見えたよ!」と手持ちのボタンを押す。すると機械は「了解」というようにピッと音を立てる。その音を聞きながら、僕たちは島の輪郭=視野を計測するのだ。

 顎台に顎を載せて目を見開いていれば、オートで計測できるものではなく、患者さん自身が見えたという自覚を伝えることで、初めて計測できる。だが、人間の自覚的な知覚というのは曖昧で、そこに視機能を計測する厄介さの本質が隠れている。

 患者さんの反応の見極めと、視能訓練士の手技の精度が必要な厄介な検査が、このGPだった。手順が複雑で手先の器用さが重要視されるので、僕は好きになれなかった。好きになれないだけなら問題ないのだが、上手くもなれなかった。

 もう一つの不安は、とも子ちゃんの集中力だった。

 六歳の小学生の集中力には限度があり、長時間の検査は不可能だ。視力検査のときは、指示に反応してくれたが、長くはもたないだろう。検査は素早く行わなければならない。

 プロペラ機を飛ばす滑走路には、暗雲が垂れ込めている。

 この検査は、どうしてもきちんとこなしたいと思っていた。器質的な問題があるのなら、ここで見つけなければならない。人間が視覚から取り入れる情報は、他の感覚器官の情報量を圧倒する。光は大切なものだ。これから成長し、さまざまな経験をしていくとも子ちゃんには、かけがえのないものだ。

 検査の手順を丁寧に説明してから、片目にガーゼをテープで張りつけた。照明を消して、さあ、始めるぞと大きく息を吸ってアームに手を伸ばしたとき、暗室の中に誰かが入ってきた。

「気にせず続けて」

 振り返ると広瀬先輩が立っていた。僕は先輩がやってきたことで、緊張して背筋を伸ばした。そして、もう一度だけ後ろを確認すると、先輩の言葉を思い出し、深呼吸した。

「落ち着いて、患者さんを見て、それから検査だ」

 僕は、とも子ちゃんをもう一度見た。とも子ちゃんは座ったまま、もぞもぞとしていた。顎台の位置が悪いのだ。高さを調整し、「大丈夫?」と声を掛けると、

「今度は、大丈夫」とはっきりと言った。

 顎台の位置が少し窮屈なだけでも、患者さんの集中力は大きく変わってしまう。検査が始まる前から失敗するところだった。振り返って広瀬先輩を見ると「それでいい」という顔をして何度か頷いた。僕は椅子に座りGPのアームを持った。

 まずは右目からだ。観察望遠鏡という小さな隙間を覗くと、とも子ちゃんが指示通りまっすぐ見てくれているのが分かった。

 定石通り、盲目の海に浮かぶ孤島を十字に切る水平と垂直の視野を計測。光のプロペラ機を縦と横に一定の速度で飛ばして、反応を確認。とも子ちゃんのボタンでの応答があり、暗室に音が鳴った。僕はその瞬間ガッツポーズをしそうになった。検査はできそうだ。僕は観察望遠鏡を覗き込んだ。その先のとも子ちゃんの目は、パチパチしている。今のところフライトになんの問題もない。

 僕は意を決して視標の操作を始めた。光をランダムに四方八方から中心に向かってなるべく同じ速度で動かした。こうすることによって、とも子ちゃんの注意を引き、自覚的な反応を可能な限り引き出そうと考えていた。飛ばした光の場所を正確に記憶さえしていれば、悪い方法ではないと、教科書には書いてあった。六歳のとも子ちゃんが集中できる時間はおそらく短く、僕の検査の速度は遅い。僕にはこの方法しかなかった。とも子ちゃんの視野が正常なら、視野はこういう形になるだろうという予測はできていた。その形を導くように視野を計測するつもりだった。

 だが少しずつ視野ができあがっていくにつれて、予想は粉みじんに打ち砕かれた。

 とも子ちゃんの視野は凸凹で、しかも、かなり複雑な形をしていた。

「なにかが、おかしい」

 そう思ったときには、プロペラ機は雷雲の中に飛び込んだように道筋を失っていた。

 方向を確認しながらランダムに飛ばしていた光の軌道は少しずつ乱れ始め、正確な形を取っていこうと一度計測した場所に、執拗に光を飛ばし直した。応答のブザーは激しく鳴り響く。測り直す度に視野の島は輪郭を変える。盲目の海は津波で岩礁を叩きつけ、島を不規則に浸食していく。光のプロペラ機は今にも墜落しそうな暴走を繰り返している。僕は自分がどこを飛んでいるのかも分からない。

 そのとき、後ろからニュッと出てきた白い腕に僕の手は止められた。光の視標は停止して、一瞬で消えた。

「基本をよく勉強していて、いい線はいっていたけれど、ここで交代。視野の島は見えなかったでしょ?」

 と言って、広瀬先輩は僕と席を代わった。

 先輩は、検査用紙を素早く新しいものに替えると、とも子ちゃんに、

「眠いかもしれないけれど、もうちょっとだけ頑張ろうね」

 と、観察望遠鏡を覗きながら声を掛けた。そして、一度だけ両手を膝の上に置くと、落ち着いて、と小さな声で呟いた。広瀬先輩の肩が一度だけ呼吸で揺れた。

 視標を灯すボタンのカチッという音を合図に検査は始まった。

 アームを持った広瀬先輩の腕は、優雅に規則的に動き始めた。編隊を組むように、次々に並んで、反時計回りに、正確に視野の島の上を飛んでいった。まるで、晴れ間の凪いだ海を心地良く進むように、光は風に乗って飛んでいく。視野の島があると思われる場所を、ただ美しく規則的に飛んでいく。

 広瀬先輩の無駄のない動きに、とも子ちゃんも反応してくれている。アームは刻々と進み、とも子ちゃんの視野はできあがっていく。光は、美しい円を描いていく。

 機材が発する微かな明かりを頼りに記載されたとも子ちゃんの視野を見て、頭の中が真っ白になった。人の視野がこんな形になるなんて信じられなかった。とも子ちゃんの視野は、一つの島の形ではなく、誰かが定規を使って描いたかのように、見事な螺旋を描いた。

 僕が小さく、「まさか」と呟くと、広瀬先輩は手を休めることもなく、

「そう、視野の島はなかったのよ」

 と、小さな声で答えた。



続きは『7.5グラムの奇跡』(10月7日発売予定)で!

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