『Cocoon 修羅の目覚め』/夏原エヰジ 1巻まるっと太っ腹試し読み⑦
文字数 9,110文字

七
観衆の熱気に包まれながら、瑠璃は優雅に外八文字を踏む。昼は閑散としていた吉原も、瑠璃の道中ともなれば賑わいを取り戻していた。
一行は江戸町一丁目の木戸をくぐり、仲之町へと進む。今日は水道尻方面、角町にある引手茶屋までの、比較的長い道中だ。
円を描くように高下駄を滑らせ、柳腰をしならせて、瑠璃は視線をゆったりと左に向ける。流し目を受けた観衆はおお、と感嘆し、嫋々(じょうじょう)たる姿に釘づけになる。
ふと、瑠璃は何の気なく目を転じた先に、見たことのある男がいるのに気づいた。
──あれは確か、津笠の……。
津笠の間夫である、佐一郎だった。角町の木戸近くに立ち、瑠璃の道中を見物している。
今日は来てたんだ、津笠が喜びそうだな、と瑠璃は胸の内でぼんやり思った。
惚れ惚れと花魁の艶に当てられている男たちに紛れて、佐一郎は瑠璃と目があい、呆けたように動かない。
瑠璃はゆったりと目を細め、挑発的な微笑をたたえると、脚の動きにあわせて再び前を向いた。
この日の客は、浜町で医者をしている喜一(きいち)という男だった。腕がよいと評判で、金の入りもすこぶるよい。黒羽屋にとっては上客の一人だ。
ただ、瑠璃は喜一のねちっこい性格が嫌いで、あまり乗り気ではなかった。独占欲が強く床入りでも相当しつこいため、馴染みになってもたびたび振っていたのだが、客の入りが少ないこの時期にわがままは通し抜けない。またもやお勢以にどやされて、仕方なく相手する覚悟を決めたのだった。
「この間贈った仕掛、やはりよく似あっているな。暑さに負けない熱っぽさがいいだろう」
瑠璃の座敷で、喜一は杯を片手に瑠璃の姿をなめるように見た。
衣裳や小間物は瑠璃に好きなものを選ばせる客が多い中で、喜一は自分の見立てたものを贈ってくる。瑠璃にとっては選ぶ手間が省けるので助かるといえば助かるのだが、贈られる品はえらく派手なものばかりで、少々うんざりもしていた。
この日の衣裳は卍つなぎに極彩色をさした仕掛、前帯は巨大な孔雀が鎮座する鋸歯文様の更紗。結い上げられた髪には前差しが六本、普段は着けない後差しが八本、赤い珊瑚が南天の実のごとくたっぷりついた扇形簪と、瑠璃の頭はごてごての装飾で埋め尽くされている。
頭を動かすたびにずしりと重みを主張してくるそれらに、瑠璃は嫌気が差してきていた。さっさと脱ぎ捨ててしまいたかったが、本心とは裏腹に涼やかな瞳で喜一を見つめ、長い睫毛をふわりと落とす。
「お会いできるのは久しゅうござんすから、わっちの熱も、思いがけず外に出てしまったのでありんしょうか」
「可愛いことを言うじゃないか」
喜一は杯をぐっと傾けた。
「文には癪が起こったとあったが、もう大丈夫なのか?」
「ええ、おかげさまで。でもこう暑いと、立ちくらみも多くて。何度も予定を変えさせてしまって、ごめんなんし」
「癪には熊胆が効く。今度持ってこよう」
苦い薬が大嫌いな瑠璃はぎくりとした。
「もう長湯したって問題ないくらいですから、お気持ちだけで嬉しゅうござんすよ」
口をつけたひっつけ煙草を、どうぞ、と喜一に渡す。
「そうか。なら四ツ目屋薬の方がいいかもな」
「まあ、喜一さまったら」
くすくす笑い声を上げた瑠璃だったが、胸の内では、ぶっ飛ばすぞ、と唾棄していた。四ツ目屋薬とは媚薬のことである。
喜一は笑顔の瑠璃を見て楽しそうだ。
「ああ、そうだ。さっき蔦重(つたじゅう)の店で面白い物を見つけてな」
言うと、懐から「遊女よろず見立」と書かれた本を取り出した。
「吉原の遊女を野菜や鳥、魚なんかに見立ててるんだ」
「それはまた、馬鹿らしゅうありんすな」
瑠璃は微笑みながら本をのぞきこんだ。
「草の部、鳥の部。やだわ、器の部まで」
「虫の部なんてのもあるぞ」
下世話な内容に、瑠璃は閉口した。
「ご覧。鯨に、唐辛子だと。鯨はまだわかるが唐辛子とは、性格のことを言っているんだろうか」
「……殿方は残酷でござんすね」
「まあそう言うな。それで、肝心のお前だが」
瑠璃の表情に気づいていない喜一は、本をぱらぱらめくっていく。
「嫌ですよ、自分が何書かれてるかなんて見たくありんせん」
「おっ、あった」
喜一はそっぽを向く瑠璃の袖を引っ張った。瑠璃はひそかに嘆息し、仕方なく見立て本に目を戻す。
「獣の部。黒羽屋瑠璃、龍」
瑠璃は馬鹿らしさが極まって、思わず笑ってしまった。
「呆れた。張見世部屋の絵を見ただけじゃござんせんか」
喜一も相好を崩していた。つかんだ袖をたぐり寄せ、白い手を握る。
口元を覆いながら、瑠璃は斜めから喜一を見た。
「……その目だよ」
喜一は本を傍らに置き、長煙管を手に取る。
「その目が男を狂わせるんだ。今夜の道中だって、男たちは皆、勘違いを起こしたに決まってる。あの流し目はどうかと思うがなあ」
と、意味深な目で瑠璃をねめつける。
「意地悪なことをおっせえす。心に好いた女がいる殿方であれば、わっちの流し目など通じいせんよ。喜一さまだって、奥方さまがいらっしゃるんだから」
潤んだ目で少し嫌味っぽく言うと、喜一は威勢よく瑠璃の言葉を笑い飛ばした。
「それは違うな。お前は自分の持つ魅力を真にわかっていないようだ。確かに俺には、己で選んだ妻がいる。あれのことは当然愛しているさ。だがな、惚れた女がいようが妻がいようが、江戸一といわれる瑠璃花魁を目の前にして、骨抜きにならぬ男などいるわけがないだろう」
長煙管を置いたかと思うと、唐突に瑠璃の肩をぐっと抱き寄せた。瑠璃は黙ってその力に身を任せる。
「お前は不思議だ。とらえたと思ってもいつの間にかすり抜けて、まるでこの煙のようだ。ころころと笑いながら、すべてを見透かすような目をする。何を考えているかわからない。なのに、永遠に見ていたいと思ってしまう」
「わっちの考えなんて、そんなに難しいモンじゃござんせんよ。試しに今何を考えているか、当ててみてくださんし」
喜一の顔を見上げる。喜一も瑠璃の瞳を見つめた。
束の間の沈黙の後、喜一はふっと目を離した。
「いや、よしておこう。野暮な答えでお前の機嫌を損ねたくはないからな」
「そんなことは、ありんせんよ」
肩を抱く喜一の手に力がこめられた。
「たとえ心に好いた女がいても、お前はそんなものを嘲笑うように軽々と越えて、心の中に巣くってしまう。それほど特別な存在なんだ。お前の美しさは男を酔わせ、惑わす力を持っている。殷王朝の妲己(だっき)伝説しかり、鳥羽上皇が惚れ抜いた玉藻前(たまものまえ)の逸話しかりだ。傾城とはよく言ったものだよ」
瑠璃は喜一の胸に頭を預けたまま、ふふ、と艶めいた笑い声を上げた。しかし、眼差しは無機質に赤く揺れる闇を見つめ、頭では次に来たる任務のことを考えていた。
千住は板橋、品川、内藤新宿に並び、江戸でも有名な岡場所の一つである。吉原の花魁の揚げ代に最低でも一両一文が必要とされているのに対し、千住では四百文ほどで遊ぶことができるため、懐の寂しい男たちにはありがたい場所だった。
だが、まだ賑わいを見せているはずの夜五ツにもかかわらず、表通りに店をかまえる女郎屋も飯屋もぽつぽつと灯りがついているだけで、人影がない。
辺り一帯はまるで何かの存在を恐れるように、異様な静寂に包まれていた。
草履が地を滑る音だけをさせて、一人の男が静まり返った千住の裏通りを歩いていた。肩には「ゐ」の字が入った手ぬぐいをかけている。男は急ぐでもなしに、黙々と歩を進める。
その後ろから建物の陰に隠れるようにして、能面をつけ、黒い着流しに身を包んだ瑠璃、同じく黒の着流し姿の権三、豊二郎と栄二郎の双子が、辺りの様子をうかがっていた。
「錠さん、大丈夫かなあ」
ひそひそと栄二郎がささやく。
「いくらなんでも囮になるなんて、やっぱり危ないんじゃねえの」
豊二郎は眉間に皺を寄せている。
「錠のことなら心配いらない。いざという時のために、錫杖を帯に挟んでるしな」
そわそわする双子をなだめるように、権三が答えた。
権三が言うとおり、四人の前を行く錠吉は三節棍となっている錫杖を折り畳んで、腰帯に忍ばせていた。
「伊崎屋の手ぬぐいを持った男しか狙われないってんだから、仕方ないだろ。もう噂が広まっちまって、人っ子一人歩いてないんだから、おびき寄せるにはこれしかないんだ。錠さんだってそう言ってたろうが」
能面をつけた瑠璃も声を落としながら、遠くを歩く錠吉の背中を見た。人通りがこれだけないなら面を外したかったのだが、万が一にも誰かに顔を見られてはならないと、錠吉と権三の反対によって渋々、装着したままにしていた。
「でも本当にこれで出るのかよ。もう、随分と経ったような気がするけど」
豊二郎がくたびれたようにため息をついた。
実はすでに一刻ほど、千住の裏通りという裏通りを忍び歩いていた。暑さも手伝い、息をひそめて後をつけるのも一苦労である。
「ごちゃごちゃ言ってないで黙って見てなっ。嫌なら吉原に帰っておねんねしてるんだね」
一向に何も起こらず、瑠璃も苛々し始めていた。
ガキ扱いすんじゃねえ、と豊二郎はいきり立つ。
「あっ。頭、見てあれ」
瑠璃と豊二郎がいがみあい、権三が仲裁をする中、ぼんやりと前方を見ていた栄二郎がいきなり声を出した。
瑠璃は栄二郎の指差す先を見た。
からくり人形のように規則正しく歩いていた錠吉が、立ち止まっている。錠吉の視線は、すぐ先の曲がり角を向いていた。
それは、辻の暗がりに立っていた。
背丈は七歳くらいの子ども。しかし、姿は影そのものだった。暗がりよりもさらに濃い影が子どもの形をしており、輪郭は闇に溶けこむようにぼやけている。手には、これまた影でできた提灯を持っていた。
「提灯小僧だ」
瑠璃がつぶやいた。
提灯小僧を初めて目の当たりにした双子の顔には、自然と緊張が走っている。
ふと、立ち止まっていた錠吉が、体勢を変えて帯に手を差しこむ仕草をした。
途端、影の提灯がぼう、と赤黒くともった。
「来るぞっ」
瑠璃が声を張り上げて全員に呼びかける。
物陰に隠れていた四人は、一斉に裏通りへ飛び出した。
つい先ほどまで蒸し暑い夏の風が吹いていたが、瑠璃はその場の空気が急激に冷えていくのを感じた。
豊二郎と栄二郎が黒扇子をかまえる。辺りに結界を張る経文を唱え始めた。
すると、空から微かな笑い声が聞こえて、一同は上を振り仰いだ。
橙色のおぼろ月を背にして、女が屋根の上から錠吉を見下ろしていた。足には何も履かずに素足をさらし、見た目は地味だが、身なりは整っているように見える。
しかし、その十字絣の小袖の腰元から裾にかけては、ぐっしょりと赤黒い色が滲んでいた。整えられた島田髷から、後れ毛が出て風に揺れている。月を背にしているため表情は見えづらく、輪郭だけ見れば普通の女のようだ。
だが夜目が利く瑠璃には、視界の狭まった面越しにも、女の顔がはっきりと見えていた。
空洞になった眼窩は、大きく耳元に向けて裂けた口と同様、空っぽの闇を含んでいる。額からは二寸ほどの黒い角が生え、女のまわりを覆う気は禍々しく澱んでいた。
「ああこれは、ちとまずいかもね」
瑠璃は女の姿をした鬼とそれが発する気を見て、小さく言った。能面の内の口元は不敵に笑みを浮かべているが、瞳は瞬きもせず鬼の力量を推し量っている。
一筋縄ではいかない、そう直感していた。同時に、己の心が歓喜に震えるのを感じた。
突如、鬼は耳をつんざくほどの鬼哭を発した。鬼を中心に見えない衝撃波が生まれ、空気がびりびりと揺れる。
それは怒りと哀しみ、悲鳴にも号泣にも似た叫喚であった。聞くものの心を裂き、深い闇に陥れるような、魂消る声。
──カエセ、アタシ……カエセ、コロシタイ、ノロイタイ、シネ、シネ、シネ、シネ。
瑠璃たちは咄嗟に耳をふさいだが、鬼哭は刺すような怨念をもって、容赦なく心を蝕んできた。
平衡感覚を失い、瑠璃は思わず膝をつく。後ろを振り返ると、権三は辛うじて立っていたが、豊二郎と栄二郎は扇子を手にしたまま頭を抱え、地面にへたりこんでいた。豊二郎は肩で息をして、見開かれた目が虚ろに泳いでいる。
「豊っ。しっかりしろ」
叫んだつもりだったが、鬼哭に阻まれ声が喉から出ているのかすら怪しく、豊二郎の耳には届かない。
「頭っ」
権三の声が聞こえて、瑠璃は錠吉を見返った。
いつの間にか鬼哭は止んでいた。
瑠璃は、鬼が錠吉に襲いかかるのを見た。常人では考えられぬ動きで屋根を蹴り、錠吉に向かい飛びかかる。
錠吉も鬼哭を浴びてふらついていたが、すでに手にしていた錫杖を瞬時にかまえ、振りかざされた黒い爪を受け止めた。
しかし鬼の膂力には耐えきれず、そのまま地面に押し倒されてしまった。
「がっ……は……」
圧に押し負け、地面に組み伏せられた錠吉の眼前には、鬼の顔があった。角は錠吉の額を貫かんばかりに近い。
鬼は、捕食をせんとする蟷螂のように、錠吉の上に覆い被さっていた。赤黒い小袖の裾から肉感のある両脚をはだけ、錠吉の腰元に這わせていく。全身の力を振り絞って押し戻そうとする錠吉の力など取るに足らないとでもいうように、鬼はびくともしなかった。
錫杖ごと錠吉を両手で押さえつけながら、さらに顔を近づけ、ゆっくりと首を傾げて錠吉の顔をのぞきこむ。そして、三日月の形に空いた目と口を歪ませ、ニタ、と悪意に満ちた笑みを深めた。
錠吉は鬼の顔から目をそらせない。
闇を含んだ眼窩が徐々に近づいてくる。角が当たって裂けた額から、赤い球のような血が浮き出た。
刹那、錠吉の目の前にあった闇は姿を消した。地に沈められるように重かった体が軽くなる。今まで溺れていたかのごとく、肺に空気がなだれこんできた。
「見るなっ、馬鹿野郎」
瑠璃が錠吉に背を向けたまま一喝した。
権三も瑠璃の隣で金剛杵をかまえ、二人の前には鬼がよろめいている。どうやら瑠璃と権三が鬼に当て身をくらわせ、錠吉から引きはがしたようだった。
錠吉は半身を起こした。鬼の禍々しい気を直にくらって、体が震えている。困惑したように手を額に当てる。見ると、額からはわずかに血が滴っていた。
鬼は標的から引きはがされ、忌々しそうにうめく。
瑠璃は権三とともに攻撃を繰り出し始めた。
先ほどまで人の色をしていた鬼の素足は見る間に黒くなり始め、手足は完全に黒に染まろうとしていた。
瑠璃は飛雷を、権三は金剛杵を手に、攻撃を畳みかけた。権三が目いっぱいの力で鬼に打撃をくらわせ、ふらついた隙に瑠璃が斬りつける。鬼は二人の猛襲を為すがままに受け、俯いたままよろめき、後ずさりしていった。腕をかざし、幼い子どもが嫌々をするような素振りを見せている。
瑠璃は鍔のない黒刀を振りながら、おかしい、と感じ始めた。
──飛雷で傷つけられないほど、硬いなんて……。
首を、胸を、腹を、脚を、すでに全身のあらゆる箇所を斬りつけていたが、その皮膚は異常に硬く、傷一つつけられないのだ。
瑠璃は横目で傍らを見やった。権三は息を切らし、歯を食いしばって鬼を殴りつけていた。攻撃の間を縫うように、今度は後ろにいる錠吉に目をやる。錠吉はまだ同じ場所で呆然としており、参戦は無理だと判断できた。
「権さん、肩借りるよっ」
瑠璃は数歩後ろに下がり、助走をつけると、自分の背丈より高い権三の左肩にひらりと飛び乗った。ぐっと身を屈めたかと思うと、勢いをつけて屋根よりも遥かに高く跳躍する。
上空で停止した一瞬の間に、ずっと後方に置いてきた豊二郎と栄二郎へ視線を走らせる。双子もまた鬼哭に当てられたまま、身動きが取れずにいた。
「ちっ」
瑠璃は下方へと視線を戻した。
体が一気に降下していく。鬼の位置を見定めると、体を丸め落下に回転をかけた。速度が増し、地面とぶつかる寸前に体勢を戻す。鬼の脳天に強烈な斬撃が命中した。
鬼は無言で倒れ、瑠璃は軽やかに着地した。
「やりましたか?」
権三が息も絶え絶えに聞く。
瑠璃の腕には確かな手応えが残っていた。
「ああ……」
そう言って権三に歩み寄る。
目の前まで来て権三の顔を見ると、権三は瑠璃を見ていなかった。顔には戦慄の色が漂っている。
「後ろだっ」
権三の声に、瑠璃は背後を振り返る。
鬼が、何事もなかったかのように瑠璃の後ろに立っていた。
まずい、と思ったのも束の間、鬼は黒い腕を目にも留まらぬ速さで振りまわした。
不意を突かれた瑠璃と権三は思いきり吹き飛ばされた。地面を擦りながら何とか踏みとどまる。
「そんな、あれだけの攻撃で無傷だなんて……」
「気を抜くな、また来るぞ」
鬼は今までの受け身な姿勢から一転、驚異的な速度と膂力で二人を襲い始めた。甲高い笑い声が頭の中にまともに響いてくる。骨ごと砕かんばかりの重さで、二人に鋭い爪を何度も振り下ろす。
休みなく攻撃していた瑠璃と権三は疲弊し、鬼の爪を防ぐのがやっとだ。
その隙を見て、鬼は強烈な勢いで瑠璃の横っ面を張った。
「頭っ」
受けきれなかった瑠璃の体は宙に飛んだ。泥眼の面が空中で砕け散る。
ざざ、と地を擦って屈みこみながら、瑠璃は辛くも体勢を保った。辺りに土煙が舞い上がる。無防備になった左頰には、血が流れていた。
権三が瑠璃に駆け寄ろうとした時、鬼は再び鬼哭を上げた。
──シネバイイ。クルシンデ、クルシミヌイテ、シネ。
怨念は狂気を孕んでさらに混沌としていた。瑠璃の血を見て湧き上がった興奮がまじり、死へと誘う、猛り狂った快楽に包まれている。
瑠璃は頭が割れそうだった。
権三が瑠璃に向かって駆けだした足を止め、膝をつく。絶え間なく侵食してくる怨念にふらつきつつ、瑠璃は再度、後方の豊二郎と栄二郎を振り返った。
豊二郎の顔からは血の気が失せている。鬼の怨嗟に生気を吸われているかのようだ。瑠璃は度重なる鬼哭によって、双子の限界が近いことを察した。
一帯を囲う白い注連縄の結界が、その光を弱め始めていた。
──このままだと、結界が。
瑠璃は切り裂くような鬼哭を総身に浴びながら、すっと目を閉じた。
心の中に黒い波紋を思い浮かべる。
幾重もの輪を連ねては消え、また生まれる波紋は、ゆるやかに、黒の水面を滑っていく。生まれ、連なり、そして消える。徐々に波紋は収まっていき、水面は平らかになった。
弾んでいた呼吸が落ち着いたのを確認して、瑠璃は目を開いた。その目は何かを決心したように、冷徹な光を帯びて鬼へと向けられていた。背筋にぞく、と喜悦が走る。
「あの能面、また作りなおしてもらわなきゃねえ。そこそこ値が張るってのに、見事なまでに粉々にしてくれやがって」
立ち上がり、鬼に正面から向きなおる。
鬼は立ち上がった瑠璃を見て鬼哭を止めた。ニタニタと、恍惚の表情を浮かべている。
「皆、下がってろ」
瑠璃は短く告げた。
それを聞いた権三が急いで錠吉に駆け寄る。錠吉を肩に担ぎ上げると、瑠璃の後ろまで後退した。
瑠璃は再び目を閉じる。鬼がゆっくりと近づいてくる気配を感じた。
頰を流れる血を左手でぬぐい、地面にかざすように腕を伸ばす。指から赤い血が滴り落ちた。
両者の間を、生温かい風が吹き抜けていく。
「来い、楢紅(ならく)」
瑠璃は薄く目を開くと、地面を見下ろし、つぶやいた。
呼びかけに反応するように、地面がずぶずぶと泥のように柔くなり、次第に渦を巻き始めた。渦の中心から、ずず、と簪を差した白髪が見えたかと思うと、それはゆっくり全身を現した。
見事な仕掛を羽織った、美しい遊女であった。
黒地に緑から鮮やかな赤へと変わる、華やかな枝ぶりの楓樹を施した絵羽。柘榴と黄金の鳳凰が舞う前帯。結い上げられた髪はまじりけのない白一色で、控えめに簪や筓が差され、人形のような白い肌に赤い紅が映えている。
眉から下には頭を一周するように、紐のついた長方形の白布がくくられており、遊女の目を完全に覆い隠していた。白布の中央には「封」と書かれた赤い文字が浮き上がっている。
遊女は瑠璃を背にしてわずかに宙に浮き、口元は微笑をたたえているかに見えた。白布が風に吹かれ、微かに揺れている。
鬼は訝しげに突如として現れた遊女を見つめていたが、再び激しいうなり声とともに襲いかかってきた。
「悪いね」
瑠璃は鬼に向かって言い放つと、不穏な笑みを浮かべた。
楢紅と呼んだ遊女に近寄り、背中から抱きしめるような格好になる。楢紅の顔の右横に瑠璃の顔が並び、鬼と向きあう。
瑠璃は楢紅の肩越しから鬼を愉悦にも似た表情で見据え、左手で「封」と書かれた白布を、ゆっくりと持ち上げた。
瞬間、鬼の動きがぴたりと止まった。
鬼は楢紅の目があるべき位置を凝視して動かない。鬼の不気味な笑みは、段々と崩れていった。口元がわなわな震え、ア、ガギャ、と言葉にならない声を出す。
紛れもない恐怖が、鬼を襲っているかのようだった。
鬼は叫んだ。頭を抱え、鬼哭とは異なるつぶれた悲鳴を上げながら、悶え苦しみ身をよじる。顔を背けようとするも、縛られたように視線を楢紅から離すことができない。頭を左右に激しく振っても視線だけは縫い止められたままで、鬼は苦痛と混乱の声を漏らした。
一帯を震わす断末魔の叫びを上げたのを最後に、鬼の体は霧散した。
辺りには次第に、夏の湿った空気が戻ってくる。
瑠璃はすべてを冷ややかに見届けた後、白布を上げていた手を下ろした。体を離すと楢紅の輪郭は薄れていき、微笑を浮かべた残像も、やがて消え失せた。
路地の曲がり角を見やると、提灯小僧もいつの間にか姿を消していた。
夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)