かわいいだけじゃ、ダメ~! 殿が愛した御小姓出身の四将。

文字数 3,149文字

異能の戦国武将

野蛮、強欲、残虐……。末法末世の戦国を、己の力の限りを尽くして生きた武将たち。その野太い雄姿を史実・通説織り交ぜて活写する、戦国徒然連載です。
わざと転んで愛される、たくらみ深き小姓。

森蘭丸(1565~1582)

森蘭丸は、勇猛な武将として知られた森可成の子。小姓として信長に仕えた。蘭丸は俗称で、名は成利。


小姓は、主君の衣食の世話から、秘書役、時には夜のお相手までも勤めねばならない大変な仕事であった。ましてや、神経質で非情な信長に仕えるのは、命がけだったかもしれない。


信長と蘭丸が衆道(※1)の関係にあったかどうかは不明である。しかし、蘭丸は、非常に機転が利き、よく信長を喜ばせて寵愛された


こんな逸話がある。ある日、献上された蜜柑が大量に乗せられた台を蘭丸が運んでいると、信長が「その方の力では危ない、転ぶぞ」と注意した。すると蘭丸は言葉通りに転んでしまう。


だが、これはわざと転んだのである。そうすることで信長の判断が正しかったことを証明し、なおかつ、自分の非力さ、可憐さをアピールしたのだ。「ほらほら、言わんこっちゃない」とか言いながら脂下がる信長の顔が浮かぶようだ。


そのほか、信長に切った爪を捨ててくるように命じられたが、その爪を数えて9個しかなかったので、戻って残りの一つを探したとか、信長に「隣の部屋の障子が開いているから閉めてこい」と命じられたが、隣室に行ってみると障子は閉まっていたため、いったん障子を開けてピシャリと音を立てて閉めたとか、「賢しげ」とも思えるようなエピソードが多い。


また、蘭丸が明智光秀の叛意にいち早く気づき、信長に警告していたという説がある。


常に君主に近侍し、家臣の取り次ぎもする小姓の影響力は大きかった。このため、豊臣秀吉などは登城の際に小姓への手土産を欠かさず、その歓心を買っていたという。果たして、光秀はそこまで気が回るタイプだったろうか。


また、気が利く蘭丸だけに、信長が光秀を疎ましく思い始めていることを察して、意に沿うような発言をしたのかもしれない。


結局、蘭丸は17で本能寺の変に遭い、光秀配下の安田作兵衛に討ち取られたという。

戦国メモ

本能寺の変で、ともに仕えていた二人の弟も討ち死に。乱世とはいえ、哀れを誘います。


独眼竜も思わず接吻。小早川秀秋も、真田幸村も「コイツに惚れた!」

片倉重長(1585~1659)

片倉重長は伊達政宗の家臣。知勇兼備で政宗の信頼厚かった景綱の子である。


しかし、重長も父に劣らず勇猛であった。特に、大坂の陣では剛勇で知られた後藤又兵衛を討ち取り、真田幸村と激闘を繰り広げるなどの活躍を見せ「鬼の小十郎(小十郎は片倉家当主代々の名乗り)」と呼ばれた。


しかし‟鬼”は、その出陣の前夜、主君・政宗の接吻を、頬に受けていた。重長が翌日の先陣を願い出ると、政宗は「お前に先鋒を命じないで、誰に命じるというのか」と言って、重長の頬にキスしたという。


この時、政宗47歳、重長29歳。二人は、かつて衆道関係にあったようだ。この時代、男色は武将にとって嗜みの一つともいえ、政宗が小姓・只野作十郎に送った“ラブレター”も残されている。


実際、重長は、かなりの美男子だったらしく、上洛した際、小早川秀秋に衆道の相手として望まれ、追い掛け回されて難渋したという。


また、重長は違う意味でも「男が惚れる男」だったようだ。


重長は、後年、真田幸村の娘を継室(※2)としている。


逆賊である幸村の娘を、重長が娶った経緯については諸説ある。乱妨取り(※3)した女を侍女として連れ帰ったところ、実はその女がたまたま幸村の娘だったというが、にわかには信じがたい。大坂の陣で重長の勇猛ぶりを目の当たりにした幸村が惚れ込み、重長の陣に、矢文で婚儀を申し込んだという話もある。


これなどは俗説としても、幸村と重長は豊臣秀吉在世中に面識があったようで、幸村が近くに陣取っていた重長に子女を託したということは十分に考えられる。そして、重長は徳川の追及から逃れるために、娘を乱取りした女として故国に連れ帰り、のちに継室にしたということではないだろうか。

戦国メモ

幸村の娘を匿えたのは、大阪や江戸から遠い伊達家だったからこそか? 幸村の深慮遠謀、恐るべし。
「やってない!」は鉄則⁉ 信玄に学ぶ浮気弁明の王道技

高坂昌信(1527~1578)

小姓が長じて、有能で忠実な武将となる例は多い。高坂昌信もその良い例だ。


昌信は石和の有力農民の子だったが、16歳から武田信玄の側に仕えるようになり、寵愛された。大変な美貌の持ち主であったという。


面白いのは、信玄が昌信に送った書状(異説あり)が残っていること。その内容といえば、信玄が弥七郎という少年に手を付けたとして、昌信が腹を立てたのに対し「弥七郎はかねてから腹痛持ちなので(関係を)断られた。弥七郎と一緒に寝たことはない」というようなもの。


つまり、昌信に浮気を疑われた信玄が懸命に「俺は浮気していない」と弁明しているのだ。


もちろん、昌信は美貌だけの男ではなかった。

海津城代を務め、上杉家に対する守りを任されている。信玄の死後も、武田家の衰退を食い止めようと懸命に努力。上杉との和平交渉に奔走するが、その最中に病死した。

戦国メモ

諸事情あって「高坂昌信(弾正)」として知られているが、史料に表れている姓名は「春日虎綱」とのこと。ややこしいです。
信長の「匂わせ」に嬉し恥ずかし⁉ 傾奇者の一途。

前田利家(1538~1599)

加賀100万石の始祖・前田利家は、若いころは、信長と同じく傾奇者で知られ、目の下に矢が刺さったまま敵陣に突撃するという、命知らずの勇将でもあった。その名乗りから「槍の又左衛門」とも呼ばれ、身長が182cmもある偉丈夫だったという。


ちなみに、織田信長の身長は徳大寺に残された等身大の木造から、166~169㎝と推測されている。ルイス・フロイス(※4)によれば信長は「背が高く、瘦せていて、ひげが少ない」人物だった。


利家が14歳で小姓として主君・織田信長に仕えていた頃、二人は衆道の関係にあったという。


加賀藩の史料『亜相公御夜話』によれば、安土城に家臣を集めた宴会の席で、信長が、若い頃に利家が自分の‟愛人”であったことを明かしたというのだ。それを聞いた周囲の家臣は、利家を羨ましがったという。


若いころ、利家は信長の寵愛を受けた茶坊主の拾阿弥と諍いを起こし、これ斬殺して出奔。信長の怒りを買って浪々の身となっていた時期があった。原因は、利家の刀の笄を拾阿弥が盗んだことと言われているが、そこに利家の嫉妬があったとも考えられないだろうか。


後年、秀吉に臣従した利家であるが、その忠誠は終生、織田家に向けられていたという。

戦国メモ

利家は21歳の時、従妹で12歳のまつと結婚。翌年には長女が生まれている。昔はいろいろとすごいですね。
※1衆道(しゅどう)……日本における男性男色の中で、武士同士のものをいう。

※2継室(けいしつ)……最初の正室との死別や離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻のこと。

※3乱妨取り(らんぼうどり)……戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。乱取り。

※4ルイス・フロイス(るいすふろいす)……ポルトガルのイエズス会宣教師で、戦国時代の日本で宣教し、織田信長豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記している。

関連書籍

『森蘭丸』澤田ふじ子/著(光文社文庫)

関連書籍

『伊達政宗と片倉小十郎』飯田勝彦/著(新人物往来社)
関連書籍

『真・甲陽軍艦』志茂田景樹(講談社文庫)

関連書籍

『いのちがけ 加賀百万石の礎』砂原浩太朗/著(講談社文庫)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色