大正警察あるある話① 犯人逮捕と手柄競争はどっちが大事?/夜弦雅也
文字数 1,629文字
そこで作品には書ききれなかった大正警察の裏話を、著者書下ろしエッセイとして3回にわたり掲載いたします!
第1回 大正警察あるある話
犯人逮捕と手柄競争はどっちが大事? /夜弦雅也
『警視庁史』という、警察当局が編纂した四巻仕立ての分厚い書物がある。
その三巻目の「昭和前編」に、往年の捜査一課長、江口治氏の言葉が収められているのだが、抜粋するとこうだ――。(アンダーラインは著者がつけました)
「私が昭和四年七月、捜査第一課長になった当時の捜査本部というものは、特別重大事件の捜査をするため、刑事部内だけに設けたもので、各署長に対してはなんらの権限もなく、指揮も統制もできるものではなかった。従って各警察署と対等の立場で相対立して、お互に勝手な捜査を続け、巧妙争いに鎬を削っていた。だから各警察署がせっかくいい資料を把んでも隠し合っているので、有機的に捜査に活用するなどということはできないから、随分無駄骨を折り、当然挙がるべき犯人を逃がしてしまうことが少なくなかった。(後略)」
どう思われただろうか。警察ミステリーのファンならば、目を剥いて驚かれたに違いない。
現代からは想像できない頑迷なプライドや競争意識に警察は浸かっていたようなのだ。
情報の隠し合いも厭わぬというのだから、少なくとも事件捜査において、本庁と警察署は敵に近いライバルだった。
凶悪犯罪の検挙率は昭和三年で六割程度なのである。今は九割に届きそうなのに、当時は十人中、四人もの凶悪犯が逃げ果せていた。捕まえる側の原因も大きかったのだろう。
拙著『逆境 大正警察 事件記録』では、こうした大正警察あるあるをふんだんに盛り込んでいる。
舞台は大正二年だから、昭和四年の状況よりもさらに混迷度は増している。
同じ部署の刑事同士ですら、つかんだ情報や証拠を隠し合っていたようというから驚きだ。目的はここでも手柄争いである。過去に遡るほど、検挙率はぐんぐんと下降して行く。
博徒にスパイをやらせたり、あの手この手で自白を強要することが王道だった時代だ。指紋捜査は途に就いたばかり――刑事自身が現場に指紋をつけまくって叱られた逸話も残されている。
拙著はフィクションにつき、架空の人物を主人公にし、嘘も脚色もてんこ盛りではある。
が、事実は小説よりも奇なり、とも言うではないか。
「嘘だろ」と読み手がドン引きする箇所にこそ、リアルが隠れ潜んでいたりする。
トンデモナイあるあるを探しながら、拙著を楽しんでいただければ、この上もない幸せです。
福岡県出身。愛媛大学理学部生物学科卒業。2021年、歴史冒険小説『高望の大で第13回日経小説大賞を受賞して作家ででデビュー。翌’22年、同作品で第5回細谷正充賞を受賞した。
明治の末に刑事課の大改造を行われ、大正時代になると警視庁ではやっと科学捜査が始まった──熱血刑事の事件簿・書下ろし警察小説!
明治44年(1911年)、警視庁は大改革を行い、日本初の鑑識課を設置。世界でも早期に科学捜査の一つ「指紋捜査」を開始した。それまでの刑事捜査は、江戸時代の「岡っ引き方式」を引き継いで個人による手柄競争が奨励され、検挙率は3割を超えない低さだったのだ。本庁捜査係の虎里武蔵は、「眼力でピストル強盗を逮捕した男」として名を馳せ、板橋署から引き抜かれた優秀な刑事。その武蔵が非番の日に電報で呼び出される。東京府西多摩郡の山村で6歳の少女の死体が見つかったのだ。武蔵は麹町の下宿から青梅町に向かい、山中の遺体遺棄現場に臨場した。現場では円匙(スコップ)が見つかり、早速新たな科学捜査として、指紋が採取される。驚いたことにその指紋は少女の父親のものと一致し、最重要容疑者に浮かび上がる。だが武蔵は、犯行動機に疑問を感じて……。