人の皮を剥ぐけど動物好き。美女を撲殺も激似の人形を愛した暴君。

文字数 2,427文字

「なあ、シロ。朕って暴君なのかな。でもお前は裏切らないよな」

《呉》 孫晧(243~284)

孫晧(そんこう)は『三国志』の英雄、孫権の孫で呉の4代皇帝。『三国志』の中の暴君といえば、この男であろう。


孫晧の父・孫和は、孫権の後を継ぐべき皇太子であったが、後継者争いが起こって殺害された。孫晧も配流先に押し込められていたが、叔父にあたる第3代皇帝・孫休が急死。その子供が幼少であったため、濮陽興や長布ら重臣が孫晧を皇帝に推挙。孫休の皇后、朱氏もこれを認めたため、孫晧が即位した。


その時、孫晧は23歳。即位当初は民に食料を施すなどしたため仁君かと期待されたが、その後は酒色に溺れ、粗暴な本質を見せ始める。


まず、自分の即位を認めてくれた先代の皇后・朱氏を殺害し、その4人の子も捕えて幽閉。年長の二人を殺したとも、全員を殺したとも言われる。


視線恐怖症の類であったのだろうか。孫晧は自らの顔を直視されることを嫌い、家臣らに顔を直視することを禁じた。「目つきが気に食わない」という理由で家臣の目をえぐり出して殺害した。他にも、些細な罪で家臣を処刑し、その顔の皮を剥いだ。


また、孫晧は家臣を招いてよく宴会を開いた。そこで無理やり大量の酒を飲ませるのである。それだけなら最近までよく見られた乱暴な上司や先輩と変わりがないが、孫晧の恐ろしいところは、宴会に10人ものスパイを置き、彼らに宴会での家臣の様子を報告させるのだ。そして、家臣が少しでも不満な態度を見せたり、酔って本音を漏らしたりすれば、「無礼な振る舞いがあった」という理由で処刑してしまう


孫晧は後宮に何千もの女性を入れていたが、女の振る舞いに少しでも気に食わないことがあると、これを殺害し宮殿内に流れる川に遺体を流した


小心にして疑り深く、嗜虐的。そんな孫晧の女性に対する態度を伝えるエピソードがある。


孫晧の寵愛を受ける張美人(美人は妃に与えられた位)という妃がいた。ある日、孫晧がこの張美人に「お前のお父さんはどこにいる?」と尋ねた。


張美人の父・張布は孫晧を皇帝に即位させるべく運動した有力者。いわば恩人のはずだが、孫晧に疑いをかけられ殺害されている。


自分が殺しておいてトボけた質問だが、張美人はこの問いに「父は悪い人に殺されました」と回答した。この回答を張美人の意地と見るべきか、思わず事実を語ってしまっただけと見るべきかはわからない。しかし、孫晧はこれに激怒。張美人を棒で打ち殺した。


だが、殺した後になってこれを後悔したらしい。孫晧は職人に命じて張美人にそっくりの等身大の木像を作らせ、常にその人形を傍らに置いて暮らしていたという。


しかし、やはり人形では物足りなくなったのだろう。張美人に姉がいることを知ると、この姉はすでに家臣の妻であったが奪って後宮に入れた。孫晧はこの姉のことを妹以上に寵愛。彼女が亡くなったときは悲嘆にくれ、しばらく自室から出て来なくなってしまった


人間には過酷な孫晧も、動物には優しかった。皇帝に即位したとき、庭園で飼われていた鳥獣を憐れんで開放した。また、非常に犬が好きだった。それを知って皆が犬を献上したたため、たくさんの犬を抱えることになったが、犬一頭につき、兵一人をつけて世話をさせたという。


古代の王の通弊とはいえ、孫晧は占いを盲信した。現行の宮殿が不吉と出れば、民衆を酷使して新たに豪壮な宮殿を建造する。諫める家臣がいると「朕に不吉な宮殿に住めというのか」と激昂したという。


首都の建業から突如、武昌に遷都するが、数ヵ月後には再び建業に戻るなど、気まぐれとしか思えない行動も多かった。佞臣が歓心を買おうと「甘露が降った」とか「鳳凰が現れた」などの瑞祥を報告すると、孫晧は素直にそれを喜んで恩赦を連発し、毎年のように年号を改めた。


そんなおだてに乗って、孫晧は、ついには「封禅の儀」まで行った。封禅の儀というのは、帝王が聖山とされる泰山にのぼり、自分が王となったことを天に報告し、天下泰平を感謝する儀式。伝説上の帝王たちが行ったとされる儀式で、秦の始皇帝が復活させた。帝王の中でも功徳のある者だけが行えるものだという。


「功徳の帝王」については置いておくとしても、孫晧の場合、「皇帝」は自称に過ぎず、呉は絶えず大国である晋の圧迫を受けている状態だ。そもそも泰山は現在の山東省にある。南方の呉の領土からは遥か遠い仕方がないので、孫晧は離墨山という山で「封禅の儀」を行った。そもそもが伝説上の儀式を無理やり復活させたデタラメなものだが、これは輪をかけてデタラメである。


封禅の儀もむなしく、結局、呉は晋の侵攻に耐えられず、孫晧は降伏を決意。その時、家臣たちに、このような内容の手紙を送っている。


「私の政治は人の道にもとり、人々に苦しみを与え、結局、降伏することになった。その罪は死んでも許されるものではない。小人を近づけ、それによってあなたのような忠臣たちに害を与えたことは、誠に申し訳なかった。あなたたちが乱れた国(呉)を去り、新たな朝廷(晋)に仕えるのは不忠ではない。仕える王朝が代わっても、あなたの志を遂げてほしい。体を大切に。


この文面だけを見れば、自省的で優しい君主だったように思われてくる。うがった見方をすれば、家臣らが呉の残党として晋に抵抗を続けたりすれば、降伏する自分の身が危ないと考えたのかもしれない。いずれにしろ、いろいろとアンバランスな人物であったようだ。


孫晧は自らの身を縛らせ、棺とともに敵将の前に出頭。降伏は認められ、その後は晋に仕える。42歳の時、洛陽で死んだ。亡国の末帝は散々な評価を受けるのが常であるが、史家・陳寿の評価は下記のように手厳しい


「孫晧の降伏を認めたのは間違いである。その首と腰を切断して民に謝罪すべきであった」

関連書籍

『正史 三国志』陳寿・裴 松之 /著 井波律子/訳 (ちくま学芸文庫) 

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