大正警察あるある話③ 巡査あれこれ/夜弦雅也
文字数 1,467文字
そこで作品には書ききれなかった大正警察の裏話を、著者書下ろしエッセイとして3回にわたり掲載!
今回で最終回です!
巡査あれこれ
巡査ほど、多彩な歴史に彩られた警察階級はない、と私は個人的に思う。拙著『逆境 大正警察 事件記録』の執筆を終えての素直な思いだ。
司法省に附属する「警保寮」(今の警察庁に相当)に、初めて「巡査」と呼ばれる階級が登場したのが明治五年。最初の巡査たちは、東京府下を巡視して、「番人」(治安維持と犯人検挙を責務とする地方警察の者たち)を監視するのが仕事だった。今で言えば監察業務である。
「巡査」「番人」とは別に、取締りを任務とする「邏卒(らそつ)」なる存在もいたので複雑だ。邏卒・巡査・番人が、それぞれの役割を果たして東京府の治安を維持していた。
その二年後の明治七年、警保寮が司法省から内務省に移管され、東京府には首都警察である「東京警視庁」が創設された。
これを機に、「邏卒」と「巡査」は東京警視庁に移管され、呼称は「巡査」で統一された。「番人」の一部も「巡査」に吸収されて残りは廃止された。
当時の巡査の定員は総数六千名。ここに、明治・大正・昭和・平成を経て令和の世に繋がる巡査の原型が作られたのである。
巡査に帯剣が許されたのは、この明治七年である。最初は一等巡査(複数の等級があった)のみであったが、明治十六年には全等級の巡査に許可された。
警部以上の階級者は最初から帯剣が許されていたというから、ようやく許可された巡査たちは、士族出身が多い元邏卒などは特に、歓喜に震えたろう。
警察官の帯剣はサーベルの外見をしていたので、当時の新聞記事では「サアベル」「洋刀」などと称されている。
が、明治四十一年に定められた服制によれば、巡査と警部補に限っては、刀身に日本刀を使用することが決められていた。(警部以上は錬鉄製の刀身のため日本刀ではない)
見た目はサーベル、抜けばギラリと光る日本刀だったわけである。
拳銃所持が許可されたのは大正十二年以降――それまでの制服巡査たちは、日本刀で凶悪犯どもに立ち向かったのだ。
福岡県出身。愛媛大学理学部生物学科卒業。2021年、歴史冒険小説『高望の大で第13回日経小説大賞を受賞して作家ででデビュー。翌’22年、同作品で第5回細谷正充賞を受賞した。
明治44年(1911年)、警視庁は大改革を行い、日本初の鑑識課を設置。世界でも早期に科学捜査の一つ「指紋捜査」を開始した。それまでの刑事捜査は、江戸時代の「岡っ引き方式」を引き継いで個人による手柄競争が奨励され、検挙率は3割を超えない低さだったのだ。本庁捜査係の虎里武蔵は、「眼力でピストル強盗を逮捕した男」として名を馳せ、板橋署から引き抜かれた優秀な刑事。その武蔵が非番の日に電報で呼び出される。東京府西多摩郡の山村で6歳の少女の死体が見つかったのだ。武蔵は麹町の下宿から青梅町に向かい、山中の遺体遺棄現場に臨場した。現場では円匙(スコップ)が見つかり、早速新たな科学捜査として、指紋が採取される。驚いたことにその指紋は少女の父親のものと一致し、最重要容疑者に浮かび上がる。だが武蔵は、犯行動機に疑問を感じて……。