『死者の書・口ぶえ』折口信夫/古代が肌のすぐそばに(岩倉文也)
文字数 2,476文字
書評『読書標識』、月曜日更新担当は詩人の岩倉文也さんです。
折口信夫『死者の書・口ぶえ』(岩波書店)について語ってくれました。
詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。
Twitter:@fumiya_iwakura
わびぬれば身をうき草の根を絶えて──小野小町の古歌ではないが、自分というものの基盤、たしかな根がどこにも見当たらぬと思うことが頻りにある。いつもいつもふらふらと、その時々の誘いに応じてぼくは物事の上っ面のみを低回する。
およそぼくには「これが一番だ」と言えるものが一つもない。
なんだかぼくには、ぼくという存在が身の内に複数いるような気がするのである。幼稚園の頃の、小学生の頃の、中学生の頃の、高校生の頃の、そして現在の自分。それぞれがぶつ切りになって、独立して存在している。それらを貫く軸のようなものが、ぼくには欠けているのだ。
こんなことを思い、書いているぼくにしたって、数年後には別のぼくに引き継がれているのだろう。その時のぼくは今のぼくとは違うことを感じ、違うことに興味をもって、生きているのだろう。
自分の中に自分の死体が積み重なっていく。
あるいはぼくが古典に惹かれるのは、そういった不安を常に感じているからなのかも知れない。しかし古典といえどもぼくの内部に沈んでいくことはなく、一時の気分の産物として、心の表層をたゆたっているに過ぎないと感じてしまう。
『死者の書・口ぶえ』に収められた折口信夫の自伝的小説「口ぶえ」からの引用である。ここには折口信夫が「死者の書」を書くに至る感受性がどのように形成されていったのか、端的に綴られている。幼い頃からの古代へのあこがれ。
そして目の前の世の中よりも、古典の世界の方がより慕わしく、確かであるとする感性の在り方は、やがて幻想的な歴史物語「死者の書」として結実する。
「死者の書」の舞台は奈良時代。神代はもはや遥か昔。皇族同士の血腥い争いも昔語りとなり、平城京では唐の制度を見習った政(まつりごと)が行われていた。
本作の登場人物の多くは、そうした時代に適応できず、あるいは失脚し、あるいは忘れ去られようとしている人々だ。本作の端々には、時代に置き去られた者達の怨嗟とも執着ともつかぬ想いが渦巻いている。
有名な冒頭部、滋賀津彦こと大津皇子が死から甦る場面なども、その典型だ。大津皇子は反乱を企てた咎で若くして刑死した悲運の皇子だが、彼の死は本作の舞台となる時代からはおよそ半世紀も前の出来事である。他にも、神代からの古い家柄を誇るが時流に乗り遅れ低い官位に留まっている大伴家持、昔風の夢に囚われたまま失脚し、左遷された横佩大臣(よこはきのおとど)。そして古物語り神語りを語り聞かせる「氏の語部」たちもまた時代遅れとされ、その語りを聞く者もなくなっていた。
そうした彼らとは半ば隔絶した位置に存在するのが本作の主人公・郎女(いらつめ)である。藤原南家の娘である郎女は館から一歩も出ることなく、外の世界を知らずに育った。ひたすらに純な心を持ち、移り変わる時代の外側で生きていた郎女は、ある日の夕暮れ、二上山の二つの峰の間に沈む夕日に、「荘厳(しょうごん)な人の俤(おもかげ)」を見る。
本作は郎女の「俤びと」を求めての魂の彷徨が中心となって展開していくが、時系列が錯綜しており、さらに先に述べたような人物たちの断片的な挿話が至る所に散りばめられているため、容易には全容を掴みがたい作品となっている。
またそう言った形式的な面をおくとしても、古代史・神話・伝承・仏教などのモチーフが混然一体となって成立している本作は、作品全体が一種の神秘的な「語り」として機能していると言っても言い過ぎではない。実際本作ほど読んでいて肌近くに古代を感じさせる作品も稀である。と言うより絶無である。
匂い立つようなこの声、この「語り」は、一体どこから聞こえてくるのだろう。現世とも幽世ともつかぬ世界から聞こえてくる、神さびたひとすじの祈り。
遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ。
その重みが全身に行きわたるとき、ふっと、ぼくらの魂は先の世へと沈んでいく。