大正警察あるある話② 事件通報は、電話? 電信? それとも……/夜弦雅也
文字数 1,512文字
そこで作品には書ききれなかった大正警察の裏話を、著者書下ろしエッセイとして3回にわたり掲載。第2回目は、大正時代の事件通報手段について!
事件通報は、電話? 電信? それとも……
『逆境 大正警察 事件記録』を執筆するにあたり、ずいぶん悩み抜いた考証案件がある。
舞台である大正時代初頭、東京府民はどんな手段で事件通報をしていたのか、という問題である。
日本で電話が始まったのは明治二十三年。その十年後には自働電話(今日の公衆電話)も現れていた。
電話の加入者は官公庁や会社や資産家などに限られていたが、官公庁に警視庁は含まれるので、電話を持たない庶民であっても自働電話を利用して警視庁に通報することは理屈上は可能である。
問題は、電話交換手が回線を繋ぐというその仕組みである。回線の数が限られるため、火事の通報でさえ、繋いでもらえるまでかなり待たされたというのだ。
本庁の指揮能力が弱かったという背景も大きな問題である。本庁に連絡したとて、今日のように通信司令本部から指示が下りるシステムは存在しなかった。
つまるところ、大正時代の東京府民は、事件が起これば、電話を探すよりも一番近い派出所に自分で走って行くことが、もっとも現実的な術であったと思われるのだ。
警察緊急通報電話が制度化されるのは、実に太平洋戦争後の出来事である。
いったん巡査の耳に入れば、そこからは仕組みができていたようである。
東京市内に限るが、派出所には警察署と結ばれた非常報知電信機が設置されていた。
ただし、たった二種類の符号を送る機能しかない。詳細を伝えるには、ここでも巡査自身が警察署に駆け込むしかなかったと思われる。
警察署まで情報が上がれば、そこからは本格的に電信の出番だった。府内の主要警察署(大正八年からは全警察署)と本庁全部署に電信機と電信技術員が配備されていた。
大活躍したに違いない電信網だが、大正十二年の大震災で壊滅している。
警視庁の一部のみで用いられていた電話が大正十年から全面的に使用されるようになり、電信に置き換わって行った。
今日の私たちは110番通報システムを当たり前に享受している。過去と比べてみれば、何とありがたいことか。
福岡県出身。愛媛大学理学部生物学科卒業。2021年、歴史冒険小説『高望の大で第13回日経小説大賞を受賞して作家ででデビュー。翌’22年、同作品で第5回細谷正充賞を受賞した。
明治44年(1911年)、警視庁は大改革を行い、日本初の鑑識課を設置。世界でも早期に科学捜査の一つ「指紋捜査」を開始した。それまでの刑事捜査は、江戸時代の「岡っ引き方式」を引き継いで個人による手柄競争が奨励され、検挙率は3割を超えない低さだったのだ。本庁捜査係の虎里武蔵は、「眼力でピストル強盗を逮捕した男」として名を馳せ、板橋署から引き抜かれた優秀な刑事。その武蔵が非番の日に電報で呼び出される。東京府西多摩郡の山村で6歳の少女の死体が見つかったのだ。武蔵は麹町の下宿から青梅町に向かい、山中の遺体遺棄現場に臨場した。現場では円匙(スコップ)が見つかり、早速新たな科学捜査として、指紋が採取される。驚いたことにその指紋は少女の父親のものと一致し、最重要容疑者に浮かび上がる。だが武蔵は、犯行動機に疑問を感じて……。