第4話

文字数 8,631文字

5 不安の影(承前)
 
 正木監督の前作〈闇が泣いてる〉で、チーフ助監督をつとめたのが、葛西哲次である。
 亜矢子がまず連絡したのが葛西だった。
 ――今、スタッフとして一番見付けるのが大変なのはチーフ助監督なのだ。
「――もしもし、葛西さん? 亜矢子ですけど」
「やあ、我らのスタントガールか」
「もう! やめて下さい、その呼び方」
 と、亜矢子は文句をつけた。
 亜矢子を〈スタントガール〉と呼んでいるのは、〈闇が泣いてる〉で、主演女優の代りに、断崖から落ちそうになる、という危険なシーンを亜矢子がふき替えたせいなのである。
 でも、亜矢子は正木の頼みだから断り切れなくてやったので、「好きでやったわけじゃない!」と言いたかったのだ。
 亜矢子はラウンジを出たロビーの隅の所で電話していた。ラウンジの中が見えて、正木が上機嫌で戸畑母娘を相手にしゃべっているのが目に入っていた。
「――葛西さん、次の仕事、もう入ってるんですか?」
 と、亜矢子は訊いた。
「いや、ちょっと企画が遅れてるんだ」
「それじゃ、正木さんの次回作について下さい!」
 と、亜矢子は強い口調で言った。
「え? でも、スポンサーが見付からなくて正木さん、諦めたって聞いたぜ」
 こういう出所不明の噂話が勝手に駆け回るのが怖いところだ。
「急に具体化したんです」
 と、亜矢子は、いきさつを手短に説明して、
「ですから、ぜひ葛西さんに」
「へえ、正木さんの『初恋の人』?」
「初恋かどうか知りませんよ」
「でも、そんな製作費を出すって、ただごとじゃないね」
「それより、大丈夫ですよね? 葛西さん、OKって監督に言いますよ」
「相変らず強引だね」
 と、葛西は笑って、「亜矢子ちゃんにはかなわないよ」
「じゃ、OKですね! 明日にでもスケジュール出しますから」
 それ以上何か言われない内に、と、切ってしまった。
「これでよし、と……」
 カメラマン、録音、美術……。主要なスタッフに次々に連絡して行く。
 映画もデジタル収録が普通になって、昔ながらのフィルムで仕事をして来たベテランはあまり声がかからなくなっている。
 カメラマンの市原、録音の大村も、「手が空いている」というので、亜矢子の誘いに、「喜んでやるよ!」
 と、言ってくれた。「正木組は亜矢子ちゃんでもってるね」
 そこまで言われると、亜矢子もちょっと照れる。
「――とりあえず、主要スタッフはOK、と」
 亜矢子はケータイを手に戻ろうとしたが……。
「ひとみ……」
 同じラウンジで打合せしていたはずの長谷倉ひとみが、男に手を引張られるようにして、出て来るところだった。
 奥にいた亜矢子には気付かずに、ラウンジを出た所で、
「やめて下さい」
 と、ひとみがその中年男の手を振り切ろうとした。「こんなこと、聞いてません」
「何言ってるんだ」
 と、どこかヤクザのような雰囲気の男は、ひとみの手を離そうとせずに、「誰がお前みたいな素人に金を出すと思ってるんだ? 俺の他に、もの好きはいないだろ。製作費を出してもらいたきゃ、言うことを聞け」
「そんな……。私はただ――」
「つべこべ言うな。もうこのホテルに部屋が取ってあるんだ。言うことを聞かなきゃ、話は流れるぞ」
「ひどい! そんなこと――」
「もう金を使ってるじゃないか。いやなら、その金を返せ」
 ひとみが目を伏せる。――男は、
「さっさと来い」
 と、強引にひとみの手を引いて、エレベーターの方へと連れて行く。
「あの野郎……」
 と、亜矢子は呟いた。
 ラウンジには二人残っていた。おそらくあの男の子分だろう。
 一瞬考えて、亜矢子はひとみと男を追いかけた。
 エレベーターの扉が開いて、男がひとみを押しやろうとした。そこへ、
「ひとみ!」
 と、大声で言って、亜矢子は駆け寄った。
 走って来た、というようにハアハアと喘ぎながら、
「良かった! ここにいたの!」
 と、せき込むように、「お父さんが倒れたって!」
「え?」
「ついさっき連絡が。救急車で運ばれたって。すぐ行って」
 ひとみは、亜矢子に合せて、
「分った。お父さん――危いって?」
「分んない。ともかく病院に。S医大病院だから!」
 話を聞いていた男は、さすがに渋々という様子で、ひとみの手を離した。
「じゃ、失礼します」
 と、ひとみは男へ言って、「亜矢子――」
「タクシーで。ね、ホテルの前に停ってるから」
「うん」
 二人はロビーを小走りに駆け抜けて、正面玄関から外へ出た。
「――ありがとう、亜矢子!」
 と、ひとみが言った。
「用心しないと。ともかく、黙って見てられなかったの」
「ごめん。私、調子のいい話だな、って思ったんだけど、製作費をこしらえるあてがなくて……」
「後で考えよう。ともかく今はタクシーで帰りなさい」
 と、亜矢子は言った。「この辺でウロウロしてて見付かると、嘘がばれるよ」
「うん。分った」
「もうお金使った、とか言ってたけど、いくらぐらい使ったの?」
「スタジオの予約とロケハンで……三百万くらい」
「三百万ね」
 亜矢子は肯いて、「今夜でも電話して。相談しよ」
「うん。それじゃ……」
 ひとみは客待ちしていたタクシーに乗り込むと、亜矢子の方へ手を振った。
「――可哀そうに」
 と、亜矢子は呟いた。
 初めてシナリオが採用されるかも、と思った戸畑弥生と同様、監督になるのが夢だった長谷倉ひとみにとって、「製作費を出してやる」という話は、魅力的だったに違いない。
 少しぐらい「怪しげな話」と思っても、あえてそういう思いにふたをしてしまうのも分るというものだ。
 あの男は、おそらく映画製作のことなど全く分っていないし、たぶんお金を出す気もあるまい。ひとみを好きなようにしておいて、「事情が変った」とでも言い出すに違いない。
 亜矢子はホテルのロビーへ入って行ったが、ラウンジからあの男が他の二人を連れて出て来るのが見えて、急いでロビーのソファのかげに姿を隠した。
「――もう少しだったのに!」
 と、男が腹を立てているのが聞こえて来る。
「どうします、社長?」
「三百万、すぐ返せと言ってやる。できなきゃ言うことを聞け、とな。あんな小娘に馬鹿にされてたまるか! おい、車だ」
「すぐ表につけます」
 と、子分が駆け出して行く。
 ――その男たちがいなくなると、亜矢子はロビーへ出て行って、
「ぶっとばしてやる!」
 と、拳を固めて、あの男のいた辺りにパンチを食らわせた。
 ――ラウンジに戻ると、
「何だ、どこへ行ってた?」
 と、正木が訊いた。
「いえ、ちょっと」
 と、亜矢子は冷めたコーヒーを飲んで、「監督、葛西さん、市原さん、大村さん、OKです」
「そうか」
 正木は別にホッとした風でもなく、「では、シナリオを待ってるぞ」
 と言った。
「はい! 今夜から取りかかります」
 と、戸畑弥生は頬を紅潮させている。
「でも、お母さん……」
 と、娘の佳世子が心配そうに、「お父さん、リストラされたんでしょ? 生活、大丈夫なの?」
「あ、忘れてたわ」
「呑気なんだから」
「だって……もう興奮しちゃって」
 と、弥生は言った。「大丈夫よ、すぐに食べるのに困ることはないでしょう」
 正木が笑って、
「いや、そのいい加減なところが、映画向きかもしれん」
「監督」
 と、亜矢子は座り直して、「私はいい加減じゃないつもりですけど、映画に向いてませんか?」
「何を言ってる」
 と、正木は肩をすくめて、「スクリプターは別の生きものだ」
「人をエイリアン扱いして」
 と、亜矢子は正木をにらんだ。

「今夜は泊ってく?」
 帰宅すると、弥生は佳世子に訊いた。
「うん……。そうね。たまにはいいか」
 と、佳世子は伸びをして、「でも、お母さん、寝てんでしょ、私のベッドに」
「いいわよ。一晩くらいお父さんの隣でも」
「ハハ、嫌われたもんだ」
 と、佳世子は笑った。「だったら、いいよ、私、ソファで寝る。平気よ、若いんだから」
「それもいいわね。お風呂入るでしょ?」
「うん」
 弥生がお湯を入れに行くと、佳世子はソファに身を沈めて、大欠伸した。
 母について歩いて、少々くたびれていた。しかし――母があんなに活き活きしているところを見たのは、久しぶりだ。
「映画の話、うまく行くといいけど……」
 と呟く。
 すると、ケータイが鳴った。
「はい」
 と出ると、
「やあ、正木だ」
「え? あ――どうも!」
 正木監督からいきなりかかって来るとは思わないので、びっくりした。
「亜矢子から君の番号を聞いた。迷惑か?」
「いえ、とんでもない! あの――母にご用でしょうか?」
「いや、君に話があって」
「何でしょう?」
「今度の映画に出てみないか?」
 佳世子は絶句した。冗談でそう言われたか――。
「いや、君は美人とは言えん。しかし、魅力的な笑顔をしている。これは本当だ」
「はあ……」
「どうだ? 興味があれば、考えてみてくれんか」
「はい……。よく考えます」
 としか言えない。
「うん。急がなくていいから」
「分りました」
「今週中に、亜矢子の方へ返事してくれ。頼むぞ」
「は……」
 急がなくていい、って……。切れてしまった。
「せっかちな世界なのね」
 と、思わず佳世子は呟いた。
 またケータイが鳴って、びっくりする。
 今度は父からだった。
「――もしもし?」
「佳世子か。今、どこだ?」
「家よ。お母さんと一緒だったから」
「そうか。じゃ、弥生は――」
「今、お風呂にお湯入れてる。呼ぼうか」
「いや、いいんだ」
 と、戸畑はあわてたように、「お前から言っといてほしい」
「何を?」
「今日は帰らない」
「また……」
 と、佳世子はため息をついて、「例のなの?」
「いや、まあ……」
「お母さんのこと、少しは考えなよ。それに仕事、リストラされたんでしょ? この先、どうするの?」
「それはこれから考える。うん、お前たちに苦労はかけない」
「もうかけてるよ」
 と言って、「分った。じゃ、今夜は帰って来ないのね。お母さんに言っとく」
「あ、それと――」
「他にも何かあるの?」
「たぶん……明日も帰らない」
「え?」
「その次の日も、たぶん……」
「お父さん、それって――」
「そういうことだ。よろしく言っといてくれ!」
「お父さん――」
 切れてしまった。
「何よ……」
 今日も明日もその次も、って……。
「お湯、入ったわよ」
 と、弥生が戻って来て、佳世子がケータイを手にしているのを見ると、「電話? お父さん?」
「うん、お父さんからも……。今夜帰って来ないって」
「また、女の所ね。いいわ、放っとけば。リストラされたあの人のことなんか、見限るわよ」
 と、弥生は言って、「今、『お父さんから』って言った? 他の人からも?」
「あ……。うん、正木さん」
「監督から? 呼んでくれればいいのに!」
「でも――私に用で」
「佳世子に? 何だって?」
「映画に出ないか、って」
「まあ」
 弥生はポカンとしていたが、「――で、何てご返事したの?」
「うん……。考えますって」
「じゃあ……考えて」
「考える」
 何だか間の抜けたやりとりをして、二人は笑ってしまった。
「じゃ、私、ソファで寝なくていいわけだ」
 と、佳世子は言った。
「でも――佳世子。あんた、の方は大丈夫なの?」
「え? ああ、別に一緒に暮してるわけじゃないの。ときどき泊ってくだけで。心配しないで」
「心配するわよ」
 と、弥生は苦笑して、「そう。――心配っていえば……。お父さんの上着の血……」
「あ、そうだね。訊いてみりゃ良かった」
「いいわよ。きっと、どうってことないのよ」
 と、弥生は言って、「さ、今夜からシナリオに取りかかるぞ!」
 と、宣言したのだった……。

 6 新人

「あ、葛西さん」
 亜矢子は打合せのために借りた会議室へ入ると、チーフ助監督の葛西に会釈した。
「やあ、またよろしく頼むよ」
 と言って、「じゃ、監督――」
「うん、今の予定で頼む」
「シナリオが上るのを待つばかりですね」
「楽しみにしてていいと思う」
「そうですか」
 葛西は立ち上って、「じゃ、連絡します」
 と、足早に出て行った。
「順調ですか」
 と、亜矢子は訊いた。
「まあな。あの戸畑弥生からは、シナリオの新しい部分について、何度もメールが来ている。新人作家らしい情熱が感じられていいな」
「スクリプターが中古品ですみません」
 と言って、亜矢子は手にさげた大きな袋から、ポットを取り出した。
「誰もそんなこと、言っとらんじゃないか。――何だ、それは?」
「コーヒーです」
 と、紙コップを出して、「気に入りの店で特別にいれてもらいました。監督のお気に召すか分りませんが」
「紙コップというのは……。まあいい、飲んでみよう」
「まだ充分熱いと思います」
 と、亜矢子が紙コップに注ぐと、正木はそっと一口飲んで、それからゆっくりと飲みながら、
「うん! これは旨い!」
「そうですか。良かったです」
 と、ホッとしたように言って、「監督のご機嫌を取っておかないといけないので」
「何だ、それは?」
 すると、亜矢子はやおら床にペタッと正座して、両手をつき、
「監督、一生のお願いがあります」
 と言ったのである。
 正木もさすがに面食らって、
「どうしたっていうんだ?」
 と、目を丸くしている。
「私の願いを聞いて下さったら、私は一生、監督の〈影の女〉として生きて行きます」
「何だ、それは?」
 と、正木は呆れて、「願いって何なんだ?」
「三百万円、貸して下さい!」
「金の話か。――何に使うんだ?」
 と、正木が訊く。
 そのとき、会議室のドアが開いて、
「遅くなってごめんなさい!」
 と、入って来たのは、今回の出資者、本間ルミだった。
 そして、亜矢子を見ると、
「まあ! 正木さん、あなたこんなパワハラを?」
「違う! こいつが勝手にやり出したんだ!」
 と、正木はあわてて、「亜矢子、ともかく立て!」
「はい」
「三百万、何に使うんだ?」
「友人を救いたいのです」
 本間ルミは椅子にかけて、
「私も聞きたいわ。どういうわけなの?」
 と、興味津々という様子。
 亜矢子は、友人の長谷倉ひとみが、「製作費を出してやる」と言って来たヤクザまがいの男に脅されている事情を説明した。
「――ともかく、使ってしまった三百万円を返せと言って来ているのです。調べてみると、相手は有田京一という男でした」
「聞いたことがないな」
「映画のことなど何の関心もない男です。ただ、ひとみを気に入って、強引に……」
「許せないわ!」
 と、本間ルミが憤然として、「亜矢子さん、その三百万、私が出してあげるわ」
「そういうわけには……。これは私の個人的な問題ですから」
「誰が出してもお金に変りはないわ。正木さんだって、即座にポンと三百万は大変でしょ?」
「まあ……出せないこともないが……」
「じゃ、私が正木さんに貸すから、亜矢子さんは正木さんから借りなさい。それでいいでしょ?」
「ありがとうございます!」
 と、亜矢子は深々と頭を下げた。
「あなたはいい人ね」
 と、ルミは微笑んで、「正木さんが気に入ってるのも分るわ」
「恐れ入ります」
「びっくりさせるな」
 と、正木が苦笑して、「俺の〈影の女〉になるってのはどういう意味だ?」
「ずっとスクリプターを続けるってことです」
「じゃ、今までとちっとも違わないじゃないか」
「そうですね」
「全く……。大体、お前みたいな〈日なたの塊〉みたいな女に〈影の女〉なんてできるわけがない」
「何ですか、それ?」
 と言って、「ともかく、ひとみに『お金ができた』と教えてやります。大喜びすると思います」
 亜矢子はドアを開けると、
「ひとみ、出て来ていいよ」
「そこにいるのか」
 と、正木は笑い出してしまった。「お前にゃかなわん」
「いい知らせは直接言うに限ります」
 と、亜矢子は言った。「長谷倉ひとみです」
 おずおずと入って来ると、
「色々ご心配をかけまして……」
 と、ひとみは小声で言った。
「こちらの本間ルミさんが、三百万円、貸して下さることになったから」
「すみません! 私が世間知らずなばっかりに」
「そうやって人間は成長していくのよ」
 と、ルミは言った。「三百万、現金がいいわね。その男に叩き返してやりなさい」
「わざわざ喧嘩しなくてもいいよ」
 と、亜矢子はあわてて言った。
「ちょっと待ってね」
 ルミはケータイを取り出すと、「秘書へかけるの。――あ、もしもし、あのね、急いで三百万、現金で持って来てくれる? ――そう。場所は言ってある所。――よろしく」
 ルミは通話を切って、
「たぶん三十分もすれば持って来るわ」
「はあ……」
 あまりの手早さに、誰もが呆気に取られていた。
「ひとみ君といったか」
 と、正木が言った。
「はい」
「自分で監督してみたいと思うのは誰しも同じだ。しかし、焦るといいことはない」
「身にしみました」
「どうだ。これから新作に入るところだが、君、助監督としてついてみないか」
「でも――いいんでしょうか」
「現場を知ることだ。必ず役に立つ」
「はい! 劇場映画の仕事を手伝えるのはありがたいです」
 ひとみの言葉に、正木はニコニコしている。ひとみが、あえて「劇場映画」と言ったことが嬉しいのだ。ひとみはさらに、
「あの――もしかして、フィルムで撮るんでしょうか」
 と訊いた。
「もちろんだ! フィルムこそ映画そのものだ」
 まだ、その件は決めてないですよ、と言いたいのを、亜矢子はこらえた。
 今は映画もほとんどがハイビジョンのビデオ撮りだ。フィルムで撮ると、相当高くつく。
 しかし、フィルムの持つ表現力を正木が愛していることは、亜矢子もよく知っていたし、映画ファンとしては、フィルム上映を見たいのも確かである。
 まあ、本間ルミが、かなり気前よくお金を出してくれそうなので、フィルムでいけるかもしれない……。
「じゃ、私の方のプランは中止して、必要な所へ連絡します」
 と、ひとみは言った。
「私が手伝うよ」
 と、亜矢子は言った。「あの有田って人と、きちんと切れておかないと」
「悪いね、忙しいのに」
「どういたしまして。助監督なんかについたら、『忙しい』なんて言ってるヒマもないよ」
 と、亜矢子は言って、「それで、監督、主演の女優をともかく押えないと」
「うん、分ってる。心当りには二、三電話してある」
 脇役はともかく、主役クラスの役者のスケジュールをまず押えなければ、予定が立たない。
「一つ、お願いがあるの」
 と、本間ルミが言った。
「何でも言ってくれ」
「私を出演させて」
 そのひと言は、さすがに正木も予測していなかった。
 一瞬、固まった感じで、ポカンとしていたが――。すぐに、彼女が次作の事実上のスポンサーであることを思い出した。
「ああ、もちろんだ」
 と、正木は笑顔になって、「そうだった。君は演劇部のスターだったな」
「お願いね」
 と、ルミはニッコリ笑って、「一度、自分の姿をスクリーンで見たかったの」
「任せてくれ」
 と、正木は肯いた。
 あんまり安請合いしない方が、と亜矢子は思ったが、正木としては断れない立場であることも分っていた。
「それで――」
 と、ルミは出資者の顔に戻って、「製作費って、どこへ振り込めばいいの?」

 ルミの言葉通り、三十分しない内に、三百万円の現金が届き、亜矢子はひとみと一緒に会議室を後にした。
「有田に連絡して、どこかで会うようにしましょ」
 と、亜矢子は言った。「人が大勢いる所にするのよ」
「うん、分った」
 と、ひとみは肯いた。「ね、亜矢子、大丈夫なの?」
「何が?」
「あの本間さんって、女優じゃないのに……」
「ああ、そうね。監督としては、ちょっと微妙だろうけど、何といっても、製作費丸ごと出してくれる人だもの。いやとは言えないわよ」
「そういう妥協は必要なのね」
「珍しくないわ。よその監督だけど、まるきり素人の自分の恋人を主演にしちゃったこともあるしね」
「へえ! で、結果は?」
「それがそこそこの出来だったの。ともかく、主演の女の子のボロが出ないように、監督が涙ぐましい努力をしたからね。評論家から、漸新だ、ってほめられた」
 何があるか分らない世界なのだ。
 しかし、正木の新作は、まだこれからシナリオの準備稿が上ってくるのだ。
 どうせ、何度も内容についてのやりとりがある。どこかで、本間ルミに合ったイメージのキャラクターを登場させることは難しくないだろう。
「――もしもし」
 ひとみがケータイを手にして言った。「長谷倉ひとみです。お目にかかりたいんですが――」
 聞きながら、亜矢子は三百万円の包みをしっかり抱きしめていた。

(つづく)

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