「雨を待つ」⑩ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,923文字

 選手としてマウンドに立ったときは、グラウンドの状態などまったく意識しなかった。地方球場にくらべて抜群にプレーしやすいとはいえ──甲子園が高校球児にとって特別な場所だとはいえ、グラウンドはただのグラウンドだった。
 支えられていた。たくさんの人がたずさわって、はじめて自分は野球ができていた──そんな当たり前のことに、社会人になってから気づかされる。日々、裏方としてのやりがいを感じる毎日だ。仕事に没頭していれば、気もまぎれる。しかし、自分の心と体が一致しないような、妙な違和感は残りつづけていた。
 野球をしていたとき、俺の心と体をつなぎとめていたものはいったい何だったのだろうと考え、ちらっとマウンドを見た。
 あそこに立ち、まず真っ先にやること……。つねに、冷静に、堂々と投げる──そう言い聞かせて目をつむり、深呼吸をした。ブラスバンドの音色、声援、たぎるような真夏の熱気を、すべて自分の心の内側にとりこんでいくような感覚で、気持ちをしずめていく。すると、無音になる。暑さも感じなくなる。誰も──チームメートでさえ、この領域に踏みこんできてほしくなかった。
 整備を終えて、裏手に引きあげる。ウグイス嬢の声が、ドラゴンズのバッターの名前を告げた。トランペットのメロディー、大太鼓の下腹に響く低音、メガホンを打ち鳴らす小刻みなリズムが、球場を揺すった。
「長谷!」
 道具をしまっている小部屋にトンボを置くと、背後から呼びかけられた。振り返ると、現場の長である、甲子園施設部長・(しま)さんが立っていた。
「明日なんやけど、鳴尾浜(なるおはま)で欠員が出たから、そっちに行ってくれるか?」
「鳴尾浜……ですか?」
 思わず眉をひそめてしまった。入社一ヵ月の新人としてはありえない反応に、島さんも顔をしかめた。
「……あかんか?」
「いや……、あかんことはないです、はい」
 鳴尾浜には、阪神タイガースの二軍球場がある。そのグラウンドの整備も、阪神園芸が請け負っている。ふだん、甲子園と鳴尾浜のグラウンドキーパーはそれぞれ固定されているのだが、距離が近いこともあり、人員の行き来はつねにある。
 タイガースの二軍には才藤がいる。会いたくない──そんな拒否反応が、つい表情にあらわれてしまったのだ。
「行ってきます」
 島さんは、軽くうなずいて去っていった。ふつうなら、「なんや、その不満そうな顔は!」と、一喝されるところだ。
 職人気質の、仕事に厳しいリーダーというのが、島さんの印象だった。グラウンドキーパー歴、約三十年の大ベテランだ。
 入社面接での出来事だった。総務の人事担当者から志望動機をたずねられたのだが、まあ、落ちるんなら落ちてもええわと思っていた俺は、「寮が個人部屋なのが最高やなと思います」と、いい加減な答えをした。飯田のおいちゃん経由で誘われただけなのだし、「御社の理念が……」などと耳触りのいい噓をつくよりは、断然マシだと思った。
 会議室が不穏な空気に包まれた。
 べつに生意気だと思われてもいい。俺は真っ直ぐに前を見つづけていた。沈黙を破ったのは、今まで一言も発しなかった島さんだった。
「新しく打ちこめる何かを見つけるまでのつなぎの仕事やと、君がそう思ってるんやったら、それでもかまわん」
 意外な言葉が出たせいか、人事担当者が驚いた様子で島さんを見た。現場から駆けつけたのか、阪神園芸のウィンドブレーカーとカーゴパンツといういでたちの島さんは、腕を組んで話をつづけた。
「たとえ、腰かけで、一、二年でやめたとしても、ええと思ってんねん」
 日に焼けた顔が、現場一筋のベテランであることをよく示していた。俺の汚い字がならんだ履歴書から顔を上げて、鋭くこちらを見すえる。
「いや……」心のなかを見透かされたような気がして、否定の言葉を吐きかけたのだが、島さんがそれを押しとどめた。
「けど、この会社にいるあいだは、一生懸命やってもらわんと困るで。選手の足元をしっかり支えるのが、俺らの仕事やからな」
 丸まった背中を、思わずぴんと伸ばした。つくったばかりのスーツが、体になじまず、苦しかった。(つる)しの安いリクルートスーツはどれも身の丈と体格に合わず、オトンがこの際やからと、そこそこ高価なものをオーダーであつらえてくれたのだ。
「失礼を承知で言わせてもらうけどな、君みたいな思いをする選手が、自分のいい加減な仕事で生まれんように、俺たちは日々戦ってるんや。その覚悟がないんやったら、甲子園に来てもらうわけにはいかんな」
 穏やかな口調のわりに、島さんの言葉は俺の空っぽの胸を深くえぐった。


→⑪に続く

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