(2/4)『水無月家の許嫁』冒頭試し読み

文字数 3,349文字

 あるところに、やんごとなき一族の跡取り息子がおりました。

 男には幼い頃から決められていた許嫁がいたのですが、大学で知り合った別の女性と恋に落ち、その人と結婚したいと願ってしまいました。

 しかしその女性との結婚を、家族や親族に猛反対されたことで、男は一族との縁を切り家を飛び出してしまいました。いわゆる駆け落ちというやつです。

 年月が経ち、男は女性との間に、双子の女の子を授かりました。

 そして温かい家庭を築き上げ、幸せに暮らしました。めでたしめでたし。


 そうだったなら、どれほど良かったことでしょう。


 御伽噺のようにはいかないのが、現実でした。

 男が全てを捨ててまで結婚したその女性は、二人の娘のうち一人を、どうしても愛することができなかったのです。双子を常に比較し、姉ばかりを溺愛し、妹のことを酷く毛嫌いし、拒絶し、虐げていたのです。

 男は双子の妹を守るため、妻だった女性と離婚し、その子を連れて家を出ました。

 ──それから数年。

 男と、その娘は、慎ましくも穏やかな日々を過ごしました。

 しかし男は、未知の病を発症し、齢四十二にして亡くなりました。

 それが、私の父、水無月六蔵の人生でした。



 目が覚めると、私は布団の中で横たわって、暗い中で天井を見上げていた。

 大きく開かれた縁側から、よく晴れた夜空に浮かぶ細い三日月が見える。昼間の雨が、噓のように明るい夜だ。

 それに不思議な匂いがする。苦いような甘いような、気分が落ち着く香り。

 もしかして、私、かなりぐっすり寝ていたんじゃないだろうか。

 なんだか気分がすっきりとしているのだ。父が死んでからというもの、うまく寝つけなかったから……

「目が覚めましたか」

 真横から声がして、私は内心ビクリとして、そちらに顔を向けた。

 そこに静かに座っていたのは、先ほど出会った青年だった。

 私は強張ったまま、金縛りにでもあったかのようにじっとして彼を見上げている。

 私は不思議と夜目が利く方なので、月明かり以外の光源がなくても、よく彼の姿が見えるのだ。この人もそうなのか、私の目を、じっと見つめ返している。

 確か名前は、水無月文也。私のはとこに当たるという。

 銀糸のような髪や、伏し目がちな目元にスッと伸びるまつ毛が、月光に照らされてますます神秘的に感じられた。最初、人ではないのではと思ったほど、浮世離れした綺麗な顔立ちの男の子だ。

 すでに喪服を脱いでいて、薄灰色の着物と羽織姿で、背筋を伸ばして正座している。

 その姿は洗練されていて、クラスメイトの男子とは纏う空気が全然違う。

 そういえば本家の当主だと言っていた。

 当主というのは、その家で一番立場のある人だという。お父さん、名のある旧家の出だと言っていたけれど、本当だったんだ。

「あ……っ!」

 意識がはっきりとしてきて、ガバッと勢いよく布団から起き上がる。

「私、私、お父さんのお骨を……っ」

 そもそも、法要の後の何もかもを、放り出して来てしまった。

「大丈夫、落ち着いてください。お骨は枕元にありますし、その他のことも水無月の者に任せていますから。あなたは今すぐ、その手の治療をしなければなりません」

 震えていた私を、文也さんは顔色を変えることなくクールに宥めた。

 振り返ると、確かに枕元には父の骨箱が置かれてある。それに、

「手の治療って……」

 私はハッと、自分の左手の甲を見る。

 ぽつぽつと青緑色の石が生えていて、それが暗闇で鈍い光を帯びている。

 ああ、そうだ。私、お父さんと同じ病気にかかっていたのだけれど、水無月文也という人がやってきて、この病は治せると言った。

 私が死んでは、自分が困るのだと。

「あの。今、何時ですか」

「夜の八時になります」

「ここ、どこですか」

「水無月家の別荘の一つです。場所で言えば、まだ東京です」

「私、どうなるのですか。やっぱり……死にますか」

「いいえ、死にません。僕があなたを死なせたりしない」

 どうしてそこまで私を……

「今から手の甲の石を除去します。左手を見せてください」

 除去するという言葉から、何か痛い思いをするのではないかと不安になった。

 だが私は、言われるがまま、左手を差し出していた。

 文也さんは傍に置いていた桶から、濡れた布を取り出す。

 桶の水は薄緑色に染まっていた。さっきから漂っていた苦甘い香りの正体は、これか。

「……文也さん。それ、何ですか?」

 私が初めて名を呼んだからか、文也さんはチラリと私を見て、また視線を落とした。

「特別な薬草の汁に浸した布です。今からこれを手に巻きます。多少痺れるかもしれませんが、それは薬が効いている証拠ですので少しだけ我慢してください。次第に石の根元が浮いてきます」

 石の根元が浮いてくるという感覚が、よくわからなかった。

 巷でよく聞く、インチキ療法とか、そういうのだったらどうしよう……

 ますます不安が募ったが、文也さんは真剣な顔をして、私の左手に薬湯の染みた布を巻いている。

「……っ」

 グッと目を見開いたのは、確かにその手が痺れてきたからだ。手を覆った温かい薬湯が、じわじわと手の内側に染みていくのがわかる。

 我慢できないほどの痛みではないが、熱を感じる。ピリピリと痺れるのは、本当に薬湯が効いているからなのだろうか。

 五分ほどして、文也さんは手に巻いていた布を取り外してくれた。

 すると驚いたことに、手の甲に生えていた青緑色の石が、確かに浮いていた。

 最初より盛り上がっているというか、飛び出しているというか。

「どうして? さっきまで、もっと深く埋もれていたのに……」

「薬湯に使った植物が、この石にとって天敵なのです。薬湯が染み込むと、石は逃げようとして浮いてくる」

「石なのに、逃げようとするのですか?」

「正確には、これは石ではなく植物なのです」

 何もかも、さっぱりだ。

 文也さんは再び私の手を取り、慣れた手つきで、ピンセットのようなものを使って石を取り除いていった。まるで刺さった棘でも抜くように。もしくは魚の骨を取り除くように。

 少しだけ痛かったが驚きの方が大きい。

 だって、父の時は何をしても取れなかった。

 巨大化し増えていくばかりだったのに、こんなに簡単に取れるなんて。

「このように簡単に取れるのは、石が深い場所に根を張る前の、初期症状だったからです。……こちらをご覧ください」

 文也さんが私の無言の疑問に答えながら、ピンセットでそれを掲げる。

 私は思わず「あっ」と声を上げてしまった。

 引き抜いた石には、細く短い根のようなものが生えていた。根も月光に照らされて、ボウッと光っている。

「とはいえ発症から一ヵ月以上がたっており、正直ギリギリでした。これ以上深く根を張ると、なかなかこうはいきませんから」

 部屋を暗くしているのは、そちらの方が、石が光って見えて小さなものまで見逃さないからだという。

 最後の一つを抜き終わると、文也さんはボコボコと穴の空いた私の左手の甲に、軟膏のようなものを塗った。そして、その上から白い包帯を巻く。

 月明かりだけを頼りにした、無言の時間が過ぎていく。

 こんなに長い間、近い年頃の男の子に手を触れられていたのは、初めてだった。

「今はこれで大丈夫です。しばらく薬を飲み続けなければなりませんし、完治までは長丁場になりますが、僕が見ていますのでご安心ください」

「……あの。あなたはいったい、何者ですか?」

 文也さんが離した手を、私はまた胸元に引き寄せながら問いかけていた。

 そうとしか、問いかけようがなかった。

 どんな病院にかかってもお手上げだった奇病。その治療方法を知っている青年。

 見た目は本当に、私より二つか三つ年上だろうかというくらいの、若者なのに。

 文也さんは少し伏し目がちになり、

「その問いにお答えするには、まず、水無月家についてお話しする必要があります」

 私に向き直り、畳に手をつき、深く頭を下げる。

「長い話になりますがどうか聞いていただきたい。我々水無月家の、事情について」

「……事情?」

 文也さんはゆっくりと面を上げて、私を見据えた。

 彼の背後には、月があった。

「単刀直入に申します。我々水無月の一族とは、羽衣伝説に代表される、月より降り立った天女の末裔なのです」


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