『連理の宝 Cocoon外伝』夏原エヰジ・著 試し読み!

文字数 8,993文字

人気シリーズ「Cocoon 」より、『連理の宝 Cocoon 外伝』第2話「新入り若い衆・作造の悩み」をまるっと超太っ腹試し読み!

第二話 新入り若い衆・作造(さくぞう)の悩み


 吉原は江戸町一丁目に位置する最高級妓楼「黒羽屋(くろばや)」──その内所にて、楼主とお内儀を前にした作造はぴしりと姿勢を正していた。

「楼主どの、お内儀さん。こちらが先日お話しした私の甥、作造でございます」

「何卒よろしくお願い申し上げます」

 黒羽屋の番頭であり叔父でもある伊平(いへい)に目で促され、作造は深々と辞儀をする。楼主の幸兵衛(こうべえ)は作造の居住まいを吟味するように眺めていた。

「伊平の紹介とあらばさほど心配はしていないが……作造や。お前さん、歳はいくつだね」

「ちょうど二十歳でございます」

「若い衆の仕事は想像より遥かに厳しいものだ。覚悟はできているかい」

 試すような目つきをする幸兵衛。その隣に座るお内儀、お喜久(きく)は無表情に作造を見つめるばかりで何も言わない。二人の漂わせる静かな凄みに、作造は些かひるんだ。

 しかし、

「無論でございます。廓においでになるお客さまのため、どんなにきつい仕事でも喜んでやらせていただく所存ですっ」

 目を輝かせる作造に対し、幸兵衛は「お客さまのため」と繰り返して、満足そうに頷いた。

「よろしい。黒羽屋で働くことを許可しよう。伊平、呼んできてくれ」

 楼主の頼みを聞いた伊平はすぐさま内所を出ていった。しばらくして襖が再び開かれ、童子が二人、中に入ってきた。

 顔も背格好も瓜二つの双子──とはいえ一人は仏頂面、一人は人好きのする笑顔、と表情は正反対だ。遊郭という場所にはおよそ似つかわしくない童子を見て、作造は目をしばたたかせる。

「豊二郎(とよじろう)。栄二郎(えいじろう)。これは作造といって、今日からここで働く新入りだ。お前さんらが面倒を見てやってくれ」

「えっ?」

 幸兵衛の言葉に、作造は思わず声をひっくり返した。

 ──こんなガキが、俺の指導役?

 その心中を読み取ってか、幸兵衛はこう続ける。

「歳はまだ十四だが、この二人は黒羽屋にいる若い衆の中では古参に入る。何せ吉原で生まれ、吉原で育ってきたのだからね」

「ちぇっ、面倒くさいなァ……」

 と、双子の兄、豊二郎が作造に向かって口を尖らせた。

「おいお前。俺らは先輩なんだから、ちゃんと敬語を遣えよ? あと俺は調理場での作業が多いから、基本の仕事は栄二郎に聞け」

「もう兄さん、おいらにばっか押しつけようとして」

 不服そうに言いながらも、弟の栄二郎は作造に向かってにこりと笑顔を見せた。

「作造さん、最初のうちは判らないことがいっぱいあると思うけど、何でも遠慮なく聞いてね」

 一緒に頑張ろうね、と顔をほころばせる栄二郎に、作造は戸惑いつつ頷いた。

 ──何だか出鼻をくじかれちまったけど、まァ指導役なんて誰でもいいか。何たってここは極楽の吉原。遊女とのめくるめく日常が、これから始まるんだから……。

 酒問屋の次男坊として生まれた作造は、俗に言うところの「どら息子」であった。兄が家業を継ぐのをいいことに、自身は仕事の手伝いもろくにせず、毎日のように岡場所や吉原を巡っては放蕩三昧。母親はやや高齢で作造を産んだためか、彼を諫めるでもなく小遣いを与えて甘やかすばかりだった。

 だが先月の末、父と兄がとうとう癇癪玉を破裂させた。

 そんなに女遊びが好きならば、吉原の若い衆にでもなりやがれ──父と兄から怒鳴られた作造は、こう思った。

 ──そりゃあいいッ。

 父と兄の発言が勘当の宣告であることなど、お気楽な作造の頭では毛ほども思い至らなかったのである。

 作造はさっそく叔父の伊平に頼みこみ、彼が番頭を務める黒羽屋の若い衆として推薦してもらえることになった。折よく黒羽屋で新しい人手を探していたとかで、それからのことはとんとん拍子に進んだ。こうして作造はたった一枚の風呂敷に入り用なものをまとめ、大いなる希望を胸に実家を出たのであった。

 ──妓楼に伝手があるなんて、俺ァ何て運の強い男なんだ。しかも小見世や中見世なんかじゃなく、上玉ぞろいの大見世ときた。

 今までいくつかの廓を遊び歩いてきた作造だが、母からもらう小遣いだけでは大見世に登楼ることはできない。せいぜい中見世がいいところで、誰それが大見世で散財しただの、花魁から頼りにされているといった武勇伝を聞くたび、指をくわえているしかなかった。

 どんな金持ちも通人も到達できぬような「酔狂」を極めたい。廓の内部に入りこめたなら、それが叶うのではないか──というのが、若い衆になろうと思った理由の一つ。しかしながら、最大の理由は別にあった。

 ──まずは風呂だな。掃除をしてたら遊女が入ってきちまって、〝あらやだ〟なんつって恥ずかしがってさ。風呂も着替えも見放題だし、不寝番になりゃ床入りだってのぞけるし……うっほほ、ここはまさしく極楽だぜッ。

「こっちが布団部屋で、向こうが行灯部屋ね──って作造さん、聞いてる?」

 妓楼の中を順々に案内しながら、栄二郎が訝しげに作造を見やる。

 ──遊女の部屋に呼び出されて行ってみたら〝ちょいと足を揉んでくんなまし〟なんて言われるんだ。そのうち〝作造どん、わっち、寂しいの〟とか何とかでなし崩し的にそういう雰囲気に──。

「ムフ、ドゥフフフ……」

 栄二郎の説明を聞きもせず、作造は尽きることのない妄想に鼻の下を伸ばした。


 しかし現実の廓の「内部」は、作造が思い描いていた理想とは、あまりにかけ離れたものであった。


「あらやだ、まだ掃除中だったの?」

 風呂の床を磨いていた作造は勢いよく振り返った。風呂場の入り口には古株の遊女、八槻(やつき)が、裸身を臆面もなくさらして立っていた。

「もっと朝早くに終わらせてちょうだいな、落ち着かないじゃない」

 不機嫌そうに言うと作造の横を通り過ぎ、床にしゃがみこむ。作造は謝りつつ八槻の裸を凝視した。

 ──ぐふふ、これだよこれ。

 ところが八槻はその場にうずくまったきり動かない。さすがに気になって声をかけようとするや、

「何? じろじろ見ないでほしいんだけど」

 鋭い眼差しを向けられた作造はうろたえた。

「あ、や、具合でも悪いのかと思って──」

「下の毛を整えてるの。気が散るからあっち向いててよ」

 八槻は毛抜きを使い、陰毛の手入れをしていたのだった。職人さながらの険しい表情で背中を丸め、股をのぞきこむ様に、作造は何とも言えぬ心持ちになった。

 ──商売道具の手入れとはいえ、こりゃ客には見せられねえだろうな……。

「作造さん、お風呂掃除は終わった?」

 とそこへ、栄二郎がひょっこり顔をのぞかせた。

「ええと、もう少しで終わります」

「お風呂の後は一階と二階の厠掃除ね。あともうすぐ文屋さんが来る時間だから、お客への文があるかどうか姐さんらに聞いてまわって。終わったら揚屋町で行灯用の油と新しい箸を仕入れて、それから……」

「あのっ」

 たまりかねて言葉を遮る。

「俺、まだ朝餉を食べてないんです。今日だけじゃなくて昨日も、一昨日も」

 すると栄二郎はきょとんと首をひねった。

「ああ、朝餉は時間が空いたらかなあ。調理場に行けば姐さんらの残り物があると思うよ。それじゃおいら、楼主さまに用事を頼まれてるから、後はよろしくねえ」

 潑溂とした笑みを寄越したかと思うと、栄二郎は忙しなく行ってしまった。

 ──ゆっくり朝餉を食う時間もねえのか? しかも残り物って……。

 男用の厠の床を磨きつつ、作造は顔をしかめた。残り物うんぬん以前に、厠掃除などしたら食欲も失せるというものだ。

「おえぇ、臭っせえなァもう」

 その時、大広間の方から妓たちの大きな声が聞こえてきた。

 ──げっ、またか。

 作造は慌てて手を止め、大広間へと走った。

「あんた、またわっちの旦那に色目を使ってたね? もう我慢ならないっ」

「何を言うのかと思えばそんなことかえ。わっちは愛想よく微笑んだだけさ。そもそもあんたがちゃんと手綱を締めてないから、客の気移りを許しちまうんじゃないか」

 妓たちの諍いを見るのはこれで何度目だろう。作造は大急ぎでいがみあう二人の間に割って入った。

「ご両人、収めて、収め──」

「関係ない奴はどいててよッ」

 二人の遊女は作造を思いきり突き飛ばし、そのまま取っ組みあいを始めてしまった。作造は畳に転がったまま、助け舟を求めて辺りを見まわす。

 しかし大広間にいる他の遊女は、こちらを一瞥しただけですぐそっぽを向く。こうした状況にも慣れっこなのか、さして興味のない様子で各々のお喋りを続けていた。

「ねえ聞いとくれよ。昨日の客ときたらとんだ〝十一屋〟でさ、ちょいと気がある素振りをしてみせたら〝どの男にもそうやって愛嬌を振りまいてるくせに、噓つき〟だって」

「やっだ、遊女が噓をつかないとでも思ってたわけ? そら早いとこ〝お履物〟にしちまったがいいさ。わっちの客なんて……」

「十一屋」とは十一を詰めると土という字になることから、「土臭い野暮な男」。そして「お履物」は「相手にしないこと」を指す廓言葉だ。

 客の見ていない所では、遊女はこんなにも明け透けになるものなのか。もしや自分も似たような陰口を叩かれていたのかと、作造は寸の間、放心してしまった。

「ふざけんじゃないわよ、この泥棒ッ」

 と、畳に転がったままの作造の上に、つかみあう遊女たちが倒れこんできた。

「ぐふうッ」

 女二人の重みを腹で受け止めて、目の玉が飛び出る。

 ──こんな風に女の下敷きになるなぞ、俺が望んでたのと全然違う……。

 次の瞬間、暴れる遊女の膝が股間に直撃し、作造はぐるんと白目を剝いた。

「……まったく。あれから半月も経つというのに、まだ妓の喧嘩ひとつも収められないのか? 情けないぞ作造。そんなことでは一人前の若い衆には到底なれん。そもそも──」

 幸兵衛の説教が始まってから、どれだけの時間が経っただろう。作造はただ首を垂れ、「申し訳ございません」と繰り返すばかりであった。

 永遠とも思われるほど長かった説教がようやく終わる頃には、すでに夜見世が始まっていた。とぼとぼと内所を後にした作造に、今度は恰幅のよい年増女が声をかけてきた。

「おや作造、いいところに」

 黒羽屋の遣手、お勢以(せい)だった。

「汐音(しおん)の宴が終わったから部屋に三ツ布団を運んどきな。あと桐弓(きりゆみ)のもね。判ってるとは思うが、絶対に布団を間違えるんじゃないよ?」

 遊女の三ツ布団は、それぞれの客から贈られたものである。したがってもし違う布団を選んでしまえば、「他の男から贈られた布団を敷くとは馬鹿にしているのか」と客の怒りを買うことは必至だ。

「ええと、汐音さんの布団はどれで……」

 作造の問いを聞きもせず、

「ああらァ松田屋さま、初会はどうです、お楽しみいただけてますか? え、厠? はいこちらですよ、ささ、足元に気をつけて」

 お勢以は一転して高い声になったかと思うと、客を案内すべく立ち去ってしまった。

 ──何て人使いの荒い……。

 その後、各座敷を飛びまわっていた栄二郎を何とかつかまえ、布団の用意を無事に終えた作造であったが、一息つく暇はなおもない。

 次は張見世部屋に置かれた特大の箱行灯に油を足すよう命じられ、油甕を携えて小走りに廊下を進む。

 龍の水墨画が描かれた張見世部屋には、客の指名を待つ遊女が十人ほど残っていた。惣籬の格子の向こうには、彼女らを品定めする男たち。作造がぐったりした体に鞭打ち、慎重に油を注いでいると、

「いよっ、瑠璃(るり)花魁ッ」

 大きな掛け声が一つして、張見世を見ていた男たちが一斉に後方を見返った。

「はあ、いつ見ても変わらぬ美しさ……ありゃまさに吉原一、いや、日ノ本一の花魁だよ」

 黒羽屋が誇る一番人気、花魁の瑠璃が道中を終えて見世に戻ってきたのである。

 作造もつられて外へ目を凝らす。惣籬の向こう、男たちの波の間から、憂いを帯びたような横顔がわずかに垣間見えた。

 瑠璃は、作造にとっての高嶺の花であった。黒羽屋で働き始めてから今に至るまで、ほぼ全員の遊女と言葉を交わしたが、瑠璃とだけは目すら合っていない。花魁という職が見世にとってもこの上なく大切なためか、瑠璃は遊女の中でも特別扱いを受けており、彼女の身の回りの世話をする者はごく限られている。

 ──あの双子が羨ましいぜ。あんな常人離れした美女と接することができるんなら、そりゃ廓での働き甲斐があるってモンだよなあ。

 花魁を目で追いながらうっとりしていると、

「ふん。何さ、気取っちゃって」

 張見世部屋にいた妓のつぶやきが耳に飛びこんで来た。

「お客の前ではいい女を演じてるみたいだけど、わっちらには通用しないんだから」

「仕事は怠けてばかりだし、朋輩のわっちらにはにこりともしやしない」

「そうそう、おまけに禿も取らず楽しちゃって……津笠(つかさ)さんの遺したひまりだって、世話するのを渋ってるらしいわよ」

「薄情ここに極まれり、ね。本性を知ったら幻滅するだろうに、あの外見に騙される男もたいがい阿呆さ」

 とかく女というのは、陰口を叩かずにはおれぬ生き物なのだろうか。知りたくなかった裏側を知ってしまった気がして、作造はひどくげんなりした。

 ──女って、怖え……。

 見世の玄関先で掃き掃除をしつつ、遊女たちの会話を思い返す。

 するとそこへ、一人の男がずかずかと歩み寄ってきた。

「おいそこの」

「はい?」

 つっけんどんに呼び止められ、作造は急いで振り返る。己の同年代と思しき男が、眉間に皺を寄せて仁王立ちしていた。頭は月代の広い本多髷。裏地の赤い羽織をまとい、いかにも遊び人、大店の若旦那といった風体だ。

「瑠璃は? 中にいるんだろう、入らせてもらうぞ」

 言うが早いか廓の中へ上がりこもうとする男に、作造は泡を食った。

「お、お待ちくださいっ」

「離しやがれッ。何度文を送っても〝また今度〟、〝胸が重くなってしまい〟って、じゃあいつになったら会えるってんだ? ええ?」

「誠に申し訳ございません、しかし今日は都合が──」

「他の客とは会うくせに何で俺だけ後回しなんだっ。今日だって瑠璃のために簪の贈り物を用意してたのに、急に都合が悪くなったって、そりゃあんまりじゃねえかようッ」

 自棄酒でも引っかけてきたのだろうか、男は人目も憚らず半泣きで駄々をこねる。

「お前、若い衆なら今すぐ瑠璃をここに呼べええっ。瑠璃に会わせろおぉぉ」

 じたばたと振りまわした男の手が、作造の顔面に当たる。

「痛いッ。あ、暴れないでくださ……」

「作造さんっ」

 と、騒ぎを聞きつけてすっ飛んで来たのは栄二郎だった。揉みあう作造と男を見て何事かすぐに察したのだろう、栄二郎はたちまち眉を引き締めた。

「仁蔵(にぞう)の旦那、どうか落ち着いてください。花魁がなぜあなたとお会いにならないか、お判りになりませんか」

「なぜって、どうせ俺より他の客が大事なんだろ、こんちきしょうめっ」

 いいえ、と栄二郎は冷静に首を振った。

「花魁は、旦那を試していらっしゃるんですよ。ほら、旦那は花魁を敵娼にするまで他の色んな廓を渡り歩いていたでしょう? だから旦那の愛が本物かどうか、花魁は些か不安になっておいでなのです。だからつい焦らすような返事ばかりしてしまうのですよ」

 仁蔵の動きがぴたりと止まった。

「俺を、試して……?」

「そう。それが女心というものです」

 栄二郎の声は、幼いながらに不思議な説得力を帯びていた。

「そうか、そうか。瑠璃はそれだけ俺のことを想って……」

 声を湿らせたかと思うと、仁蔵は先ほどの女々しさはどこへやら、凜々しい顔つきで頷いた。

「なら瑠璃に伝えておいてくれ。お前さんに会えるのを、いついつまでも待ち続けると。それが大人の男の余裕ってモンだからな、へへっ」

 ──男ってな、何て単純なんだろう。俺も身に覚えがあるけど……。

 上機嫌に帰っていく仁蔵の背中を見ながら、作造は安堵の息を吐き出した。

「助かりましたよ栄二郎さん。しかしその歳で女の気持ちを読み取れるなんて、廓育ちってのは伊達じゃありませんね」

 心から感服して言ったのだが、当の栄二郎はというと、

「……いや? さっきのは適当に言っただけだよ?」

「えっ」

「ああでも言わないと仁蔵の旦那ってしつこいからさァ」

 あっけらかんと言ってのけた直後、栄二郎は「ああっ」と大声を出した。

「そうだ、おいら作造さんのこと探してたんだよ。汐音さんと桐弓さんの布団なんだけど、もしかして──」

「作造ォォォッ」

 獣に似た咆哮が廓内に轟いた。どすんどすんと階段を駆け下りる音。お勢以の足音である。

 作造は嫌な予感しかしなかった。片や栄二郎は申し訳なさそうに両手を合わせ、弱った笑みを浮かべた。

「ごめん、さっき急いでたからさ、布団の柄を間違えて伝えちゃったんだよね」

「そ、そんな」

「作造はどこだァァァ」

 こちらに向かって近づいてくる足音を耳にしつつ、作造の顔は、見る見る青ざめていった。



 若い衆として黒羽屋で働き始めてから、早ひと月が過ぎた。

 この日の仕事をあらかた終え、最後に行灯部屋で蠟燭の数を確認していた作造は、途中でどさりと床に倒れこんだ。

「もう、無理ぃ……」

 埃っぽいのが難点だが、行灯部屋には滅多に人が来ない。ひんやりとした床に頰をくっつけ、大きなため息を漏らす。

 相も変わらずこき使われる日々で、心身ともにくたくたであった。若い衆の仕事は複雑かつ多岐にわたっており、すべてを覚えきるには時間がかかる。慣れない仕事をこなすだけで精一杯にもかかわらず、客に気を遣い、遊女に気を遣い、神経はすり減っていく一方だ。

「こんなはずじゃ、なかったのに」

 溜まった不満がつい、口を突いて出る。

 見目美しくたおやかな遊女たちに囲まれ、優しい労いの言葉をかけられ、浮世の極楽を味わい尽くすはずだったのに、実際はどうだ。

 妓は井戸端会議をする長屋の女房よろしく、暇さえあれば愚痴を言いあい、客の品評に勤しんでいる。若い衆の前では女らしさなど忘れてしまうらしく──一部の若い衆の前ではそうとも限らないが──、暑ければ平気で諸肌脱ぎになり上半身をあらわにする。情緒や色気などあったものではない。

「俺が憧れていた吉原は、幻想だったのか」

 はあ、と腹の底からため息が漏れ出てくる。

「俺は一体、何のために、ここで働いているんだろう……」

 飯もろくに食えないほど膨大な仕事の量。楼主や遣手は厳しく、説教、説教の日々。指導役の栄二郎も自身の仕事を大量に抱えているため、じっくり仕事を教わる時間すら作ってもらえない。遊女同士の喧嘩の仲裁に追われ、遊女に振られた客からは毎日のように八つ当たりされ──期待感に胸を膨らませていた当初の自分が、懐かしく、そして浅はかに思えてくる。

 しかしながら、作造を悩ませる要因はこれだけではなかった。

 くすくす──。

 微かな笑い声を耳にして、作造はがばりと起き上がった。

「誰だっ。誰かいるのか?」

 が、当然ながら行灯部屋には自分の他に誰もいない。

 黒羽屋で働くようになってから、作造は時折こうした奇妙な出来事に遭遇していた。誰もいないのに袖を引っ張られるような感覚がしたり、深夜の廊下で人魂のごとき火が漂うのを目にしたり。不可思議なことが起こるたび、疲れているのだと己に言い聞かせてきたのだが──。

 ふと、作造はあることを思い出して身震いした。行灯部屋に出るとささやかれる、幽霊の噂だ。この噂があるために、遊女は元より若い衆も行灯部屋には近づきたがらない。

 薄暗く静かな行灯部屋には、そこはかとない冷気が漂っていた。涼しいというより、体の芯が凍るような冷たさだ。

「……滅多に人が来ないんだから、寒くて当たり前だよな」

 そう独り言ちた時、視界の端で何かが動いた。作造の心の臓が激しく跳ねる。

「な、ななっ……何だ、猫か……」

「ニャアン」

 落ち着いて見れば、二匹の猫であった。一匹は白猫、もう一匹は見覚えのある、さび柄の猫だ。

「お前は確か、瑠璃花魁の猫だな? そっちの白いのは友だちか? 驚かすなよ、ったく──」

 やれやれと脱力した矢先。

「炎(えん)ってば、ここに長助(ちょうすけ)が隠れてるって言うから来てみたのに、いないじゃないですかあ」

「ふむ……どうやら隠れん坊は儂らの負けのようじゃな」

 作造はその場で固まった。

 今のは、空耳か。否、空耳であってくれ。硬直した体の中で、ドクンドクンと心の臓だけが騒がしく跳ね続ける。

 すると二匹の猫は作造の存在に今気づいたかのように顔を上げた。

「ちょっとォ、そこ突っ立ってないでどいてくださいよね」

「この部屋で物音を立てとったのはおぬしか。紛らわしいことをするでない」

「ね、猫が、猫が喋っ……」

 あまりの衝撃に喉が締まり、ぱくぱくと口を開いては閉じる。そんな作造の様子を見てとった白猫は、ニタア、と意地の悪い笑みを広げた。

 白猫の尾は、よく見ると二つに裂けていた。

 ──化け、猫……。

「おやあ? あなた、よく見ればなかなか美味しそうな体してますねえ。どれ、ひとつアタシが味見をし──」

 白猫の言葉が終わるよりも早く、作造の意識は、そこでぷつりと途絶えた。


「もう、辞めてやる。こんな見世、明日にでも辞めてやるっ」

 血走った目で真夜中の廊下を歩く。

 重労働より何より、作造を最も悩ませていたこと──それは、黒羽屋で起こる恐ろしい現象の数々だったのだ。

 あの後、卒倒して目覚めると猫たちの姿はもう行灯部屋になかった。幸いにも食われはしなかったものの、作造の心は今や限界に達していた。

「今晩はとにかく寝て、明日の朝、楼主さまと話をしよう。

夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)

1991年千葉県生まれ。上智大学法学部卒業。石川県在住。2017年に第13回小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した『Cocoon-修羅の目覚め-』でいきなりシリーズ化が決定。その後、『Cocoon2-蠱惑の焔-』『Cocoon3-幽世の祈り-』『Cocoon4-宿縁の大樹-』『Cocoon5-瑠璃の浄土-』と次々に刊行し、人気を博している。コミカライズもされている。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色