【11巻読後に読んでください】『チェンソーマン』/神なき世の獣たちへ(千葉)

文字数 1,711文字

今週のオールジャンル文芸書評コーナー「読書標識」は番外編。取り上げるのはコミックです。


あまりに鮮烈な最終回を連載誌面で迎え、この3月に11巻が発売された藤本タツキ『チェンソーマン』1巻〜11巻(第1部)を取り上げます。


物語の設定・内容・核心に触れる内容となっておりますので、未読の方はここで画面を閉じるかブラウザバックしていただければ幸いです。


書評の書き手は千葉集さんです。

書き手:千葉集

作家。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。

『チェンソーマン』における元ネタ探しや反復の指摘が読解においてさして意味がないのと同様、聖書とつなげるのもまた意味がなく、まんがを読んでいるのだからもっと有効な読み方がある気はするのだけれど、それはそれとして『チェンソーマン』にはやたら食事描写が多い。

地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。


――口語訳『創世記』第9章2, 3

誰もが彼の肉を欲している。


『チェンソーマン』第一話の第一ページで主人公デンジは、カネのために臓器を売ったことをあっけらかんと話す。


最初の雇い主であるヤクザからも、次の主人であるマキマからも「犬」扱いで搾取される彼は、同時に自らの肉を差しだせと悪魔から常に要求される。コウモリの悪魔からは血を絞られ、銃の悪魔からは心臓を狙われ、爆弾女レゼからは舌を噛みちぎられる。


デンジは徹底的に犠牲となる贄であるわけで、ここでは「食い物にされる」という比喩が比喩ではなく文字通りに機能している。


ところで、聖書によると原初の人類はベジタリアンだった。アダムとイヴは楽園のなかに生えた果実だけを食物として許されていた。肉食ができるようになったのは、一度古い人類が滅ぼされてから、方舟に乗って生き残ったノアの一族が神より「生めよ、殖やせよ」と地上の支配権を認められて以後だ。


要するに、キリスト教圏的には、動物の肉を食う行為は動物を支配することと不可分なのだった。


食う食われるの関係を支配被支配の関係とつなげる思想から何歩か進めた先には、人種差別思想が屹立している。


その枝葉の一つが「かつて純粋で神に近かった人類が獣と混血したせいで堕落してしまった」と主張してナチス・ドイツの蛮行に影響をあたえたりあたえなかったりしたらしいランツ・フォン・リーベンフェルスの『神聖動物学』なのだけれど、そういえば、マキマがデンジと融合したチェンソーマンを見つめる視線というのはランツ的なものがある。


獣と交わってしまった神から神だけを切り離す。その過程を通じて自分も神に近づく。忘却の力によって歴史を操る能力を持つものを、神といわずとしてなんといえるだろう? 


マキマはいう。「私は人が好きです。人が犬を好いている感情と同じ様に」。ここでも支配される側は動物としてたとえられる。


しかし、デンジは血を交わらせる続けることを選び、「命の軽い」パワーの血を取り込んで獣と人の間の存在のまま復活する。そして、「糞映画のない世界」を望むかどうかマキマに訊ねる。糞映画のない世界とは、獣と交わった人のいない世界だ。そこではデンジもパワーも否定される。


だからこそ、マキマを倒すにはその肉を食べるしかなかった。


彼女の肉を混沌たるデンジ自身の一部にしてしまうこと。デンジの血とマキマの血を交わらせること。


分離は階級を生み、階級は支配を生む。混淆することでしかわたしたちは対等になれない。


そして、もうひとつ。


歴史に刻まれた痛みを忘れないこと。


愛ですよ、愛。

『チェンソーマン』1巻〜11巻 藤本タツキ(集英社)
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