『Cocoon 修羅の目覚め』/夏原エヰジ 1巻まるっと太っ腹試し読み⑤

文字数 10,569文字

最強の花魁×異形の鬼!

人気シリーズ「Cocoon」の第1巻『Cocoon 修羅の目覚め』をどどーんと太っ腹に1巻まるまる試し読み! 


毎日1章ずつ公開していく「毎日コクーン」、第5回めです!


 特大の箱行灯が煌々とともる張見世部屋に、遊女が一人、また一人と入ってきた。仕掛の裾を払い、毛氈が敷かれた自分の定位置についていく。


 張見世部屋の壁には縁起物である鳳凰が描かれることが多いが、黒羽屋では代わりに、巨大な龍の水墨画が描かれていた。牙を剝き、目を見開いた見事な龍が、体を壁一面に躍動させている。優雅な鳳凰とはかなり趣向が異なるが、威厳にあふれる龍の姿は、客からの評判もよかった。


 遊女たちは携えていた煙草盆や硯箱を前に置き、龍の絵を背に座りこむ。次第に惣籬の向こうには見物客が集まり、ガヤガヤと騒ぎ始めた。清搔と上草履、裾を引きずる衣擦れの音がしばらく重ねられ、およそ三十人もの遊女が張見世部屋にずらりと並んだ。


 それから一呼吸を置いて、一人の遊女がゆっくりと入ってきた。


「よっ、津笠あっ」


 惣籬に群がる男たちはどよめき、遊女の名を口々に呼んだ。


 雅な貝桶文が躍る仕掛に、色鮮やかな鴛鴦と藤蔓の前帯を締めている。広く形のよい額にぱっちりと賢そうな目元。薄い唇には少しだけ玉虫色の紅が光り、自分を呼ぶ男たちにたおやかな笑みを向ける。津笠は惣籬から見て一番奥、龍の壁をすぐ後ろにして座った。


 間もなくして、桔梗色に飛鶴、金糸で観世水を施した仕掛を襲ね、見事な唐花文様の前帯をした遊女が現れた。男たちは再び色めき立った。


「おい、ありゃ汐音(しおん)だ。今日はとんでもねえ顔ぶれだぞっ」


 汐音と呼ばれた遊女は、気品漂う切れ長の細目をすっと男たちに向けた。が、特に表情を変えることなく目を伏せる。龍の壁を背に、津笠から少し離れた場所に座りこんだ。


 汐音は黒羽屋で二番、津笠は三番人気の呼び出し昼三である。


 遊女の位は上から昼三、座敷持、部屋持とわかれている。かつて吉原には花魁よりも格上の、太夫という位が存在した。圧倒的な美貌と深い教養を兼ね備えていたが、あまりに別格である上、その揚げ代は普通の稼ぎでは一生かかっても払えないほどに高かった。そのため二十年前に黒羽屋にいた朱崎(あけざき)を最後に、吉原から太夫職は消えていた。


「こりゃひょっとすると、黒羽屋お抱えの御三家がそろっちまうんじゃねえか」


 今や惣籬の前には黒山の人だかりができている。男たちはざわざわと、津笠と汐音の間に空けられた空間を見つめた。


「まさか、入山形に二ツ星だぞ。汐音と津笠がそろってるだけでも信じられねえってのに」


 あっと誰かがふいに声を上げ、男たちは一斉に惣籬の内に目をやった。瞬間、大きな歓声が辺り一帯を包んだ。


 黒羽屋抱えの一番人気、花魁の瑠璃が張見世部屋に入ってきたのだ。大ぶりの乱菊と踊り桐をあしらった仕掛に、松皮菱と源氏車の前帯。物憂げな、それでいて慈愛に満ちたような奥ゆかしい眼差しをして、口元にはふんわりと笑みを浮かべている。


 瑠璃は歓声を浴びながらまっすぐに津笠と汐音の間へ歩みを進め、粋に裾をさっと払って、龍の顔が牙を剝く真下に腰を下ろした。惣籬の向こう側を涼やかな瞳で見つめる。


 威風堂々とした龍の絵を背景に、黒羽屋の三大遊女を奥中心にして、選りすぐりの美女たちがずらりと居並ぶ姿は圧巻であった。男たちは浮世離れした華やぎに目を眩ませ、絵巻物の中に入りこんだかのような心持ちで、熱っぽい吐息を漏らしている。


 惣籬の内に後光が差していると見えたのか、手をあわせて拝む者までいた。


「あららあ。あそこの爺さま、あのまま昇天しちまいそうでありんすな」


 瑠璃の斜め前に座っていた遊女、夕辻(ゆうつじ)が瑠璃を振り返って言った。丸みを帯びた顔に垂れがちな目をしているが、童顔とは反対に分厚い仕掛越しにもわかる豊かな胸が、不思議な色気を主張している。


 遊女たちは夕辻の発言に、くすくすと鈴を転がすような笑い声を上げる。瑠璃も目を和ませた。


「花魁が張見世に出るなんてそうそうないですものね。それはそれで、いい冥途の土産になるんじゃないかしら」


 津笠が賢そうな顔をにこりとさせる。


「大見世の花魁ともあろうお方が、何だって張見世なんてしているのでありんしょう。今日は道中もなしで、お茶挽きでござんすか」


 切れ長の目を前方に向けたまま、無表情で汐音が言った。


 お茶挽きとは、客がつかないことを暗に指す廓言葉だ。瑠璃は微笑をたたえた顔をぴきっと引きつらせた。


「これはまあ、言ってくれるじゃありんせんか。残念だけど、今日はわっちからお客を断っていんすよ。汐音さんこそ呼び出しなのに、お客に呼び出されなかったのでござんしょうか」


 上品な微笑をできるだけ保ちながら、じろりと汐音を見る。汐音も瑠璃を冷たく横目で見て、二人の間に見えない火花が散った。


 人気の一番二番を競う瑠璃と汐音は、普段から何かとそりがあわない。顔を突きあわせてはその都度、静かな睨みあいを繰り広げているのだった。


「おやめなんし、二人とも。ほら、花魁は最近まで体調を崩していたでしょう。病み上がり後も連日客を取って道中も続いてたんですし、たまには養生する日もありんしょうよ」


 津笠が慌てて二人の間を取り持った。


 他の遊女たちには内緒にしているが、黒雲の仕事も兼任する瑠璃は、月に一度か二度は体調不良という名目で見世を空ける。加えて客の選り好みが激しく、疲れてるから、という適当かつ単純な理由で見世を休むこともしばしばだ。休みは概ね、妖との宴に当てられる。


 しかし、それがあまりに続くのは喜ばしくない。よってごく稀に、普段なら一切しない張見世に駆り出されることがあるのだった。


 いつもは道中姿しかお目にかかれず、馴染みになるために莫大な金子が必要となる瑠璃が張見世に出れば、黒羽屋全体が潤う。花魁の張見世は異例であるが、逆に粋だと喜ばれた。


 汐音はふっ、と冷たく鼻で笑った。


「たまには、ねえ。体が弱いからと、そのたびにゆっくりできる日を作れるなんて、いいご身分だこと。わっちらは毎日、どんなにしんどくても休みなく働いているというのに。月に何度も行水で体が重いとか何とか、本当とはとても思えない仮病まで使って」


「汐音さん、お客に聞こえますよ。お気持ちはわかりいすが、今はやめましょう、ね」


 瑠璃が事あるごとに見世を休む、本当の理由を知っているのは、朋輩の中では津笠だけだった。幸兵衛も黙認していることだが、他の遊女にとっては不審と不満の種でしかない。そのため、ただ一人事情を知る津笠が、瑠璃と他の遊女が衝突するたびに仲立ちをしてやっていた。


「大見世の一番だというに、禿も新造も、番新すらつけないで、姉女郎としての仕事は何にもしなくてよいのでしょう。花魁の地位を利用して好き放題できて、妹の世話もしないで荒稼ぎ。その分お勢以どんや錠吉さんは大変でおざんすな」


 津笠の言葉を無視して、汐音はここぞとばかりに半畳を入れる。


 番新とは番頭新造の略で、遊女としての年季が明けた者がなるものだ。客を取らず、遊女の世話や馴染み客との橋渡し、相談役にもなる。番新も禿、新造と同じく、その費用は遊女がすべて負担しなければならない。


 一人身を通す瑠璃の世話役は、主に遣手のお勢以や、時には錠吉が請け負っている。部屋の掃除や文の遣いなど、細々したことは双子の豊二郎と栄二郎をつかまえてやらせることが多かった。


「毎日わっちらが身銭を切って、借金までして禿たちの費用を出して、新造出しをするのなんてどれだけ大変か、花魁は知らないのでおざんしょう。身軽で羨ましゅうありんす」

「でも花魁の稼ぎって、大方おまんまと酒に消えていんすよね」


 夕辻が吞気な口ぶりで、しれっと会話に入ってきた。


 確かに瑠璃は生来の大食らいで、稼ぎの大半は食に消えている。酒好きの妖たちとの酒宴も自費で開いているので、夕辻の言うことは正しかった。


 加えて、遊女が客を取らずに身揚がりする場合は、自らの揚げ代を見世に支払わなければならない。さらに瑠璃は、お勢以への心づけもふんだんに支払っていた。だからといって、お勢以の厳しさが和らぐことはないのだが。


「それでも遊女が持つにはありえない額を、本当はすでに貯めこんでるんじゃござんせんか? さっさと借金を返して、大門をくぐっていくことだってできるでしょうに」

 吉原の妓たちは、大抵はその身を売られてやってくる。一度売られてしまえば年季が明けるか、客に大金を出して身請けしてもらうかしなければ、大門の外に出ることは決して許されない。見世への借金をすべて返済すれば出ていくこともできるが、日々の衣裳や妹女郎の費用、他にも諸々の金子が飛んでいってしまうため、限りなく不可能に近かった。


 遊女の生涯は過酷なもので、大半は年季明けの前に病や過労で倒れ、大した治療も施してもらえぬまま、その短い命を落とす。無事に年季が明けたとしても、遊女揚がりの身には世間の風当たりが強い。幼い頃から吉原の世界しか知らずに育った者が多いため、大門の外ではどう生きればいいのかわからない。好奇のまじった冷たい視線にさらされた後、働き場所も嫁ぎ先も見つからないまま、結局は吉原や他の岡場所に出戻るのはよくある話だ。


 しかし瑠璃はといえば、花魁としての絶対的な人気を誇る売れっ妓であり、さらに裏稼業としての黒雲の仕事もある。任務の報酬の一割近くを瑠璃がもらう取り決めがされていて、時にはたった一回の出動で五十両もの大金を手にすることもある。育てる妹女郎もおらず、衣裳や小間物、調度品などは客が勝手に競うようにして贈ってくれるので、それらに自腹を切ることもほとんどない。


 汐音の言うとおり、食費などを差し引いても瑠璃は相当の額を手元に持っているはずであり、見世への借金返済が終わっていてもおかしくなかった。


 瑠璃と汐音をとりなしていた津笠も、この言い分には黙りこくってしまった。


 汐音の疑問。なぜ、苦界と揶揄される廓に、瑠璃は留まり続けているのか。これは黒羽屋の遊女全員の疑問でもあったのだ。


 瑠璃は遊女たちの刺すような視線を無視するように、目の前に置いた螺鈿造りの煙草盆から長煙管を取り出し、火をつけた。惣籬の向こうでごった返す男たちを見ながら、無言で煙をくゆらせる。


「花魁は、廓が気に入っているんでござんすな」


 津笠の前に座っていた遊女、桐弓(きりゆみ)が静寂を割った。謎めいた笑みを浮かべ、口元のほくろが色っぽい妓だ。


「まさか。いくら花魁でも、浮川竹の身の上であることはわっちらと同じでござんしょう。それを、気に入っているだなんて」


 桐弓の隣で訝しそうに言うのは、黒羽屋の中でも古参の遊女、八槻(やつき)だった。


 八槻の位は一番下の部屋持である。今年で二十五歳、年増といわれる年齢で、おそらく今後も吉原を出る望みはない。八槻にとっては、自らの意思で廓に留まることなどもってのほかだった。


 汐音は冷たく言葉を紡ぐ。


「黒羽屋に来てすぐ、一番上の花魁にまで上り詰めたお方ですもの。引っ込みとしての仕込み期間もなしに、大した才能でござんす。誰からもお姫様のようにちやほやされれば、出ていきたいという気にならないのも、納得かもしれんせんな」


 張見世部屋に、一層ぴりぴりとした空気が張り詰めた。


 妓楼に売られた幼子の中で容姿に見込みのある者は、七歳頃から引っ込み禿として見世に目をかけられ、唄や三味線、琴、踊り、書に将棋や囲碁など、未来の売れっ妓としてどんな客でも相手できるよう、あらゆる教養を叩きこまれる。花魁は引っ込みの中でも特に秀でた者がなるのがお定まりだ。


 それゆえ、十五という年齢で売られてきた瑠璃が、ましてや売られてすぐに花魁になったことは、かなり異例な大出世であった。


 黒羽屋では汐音と津笠が引っ込み禿として育てられ、どちらが花魁になるか、と期待されていただけに、突然現れてその座を奪った瑠璃と汐音が犬猿の仲になるのは、当然の流れでもあった。


 妓たちの会話を他人事のような顔で聞きながら、瑠璃は煙草をのんでいる。


 桐弓はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


「それか、遊女の仕事そのものを気に入っているのかもしれんせんな。旦那たちの心と体を癒すのにやりがいを感じる、とか」


 瑠璃は煙とともに、いなすように吐き捨てた。


「そんなご大層な理由なんかありんせんよ。娑婆に行くのも面倒だと思うだけでござんす。金だのやりがいだの、くだらない」


 張見世部屋はしん、と静まり返った。汐音は冷めた表情のまま前を向いている。


 惣籬の向こうには相変わらず男たちが群がっており、指名を受けて、妓たちはちらほらと張見世部屋を後にし始めた。そのうち汐音も若い衆から声をかけられ、お先に、とだけ言って瑠璃には一瞥もくれず立ち去っていった。


 冷えきった空気を変えようと、古参の八槻が口を開く。


「そういえば皆、知っていんすか? 例の五人衆、また瓦版に載っていんしたよ。今度は押上にある橋で鬼退治ですって。わっちの旦那が見せてくれんした」


 汐音がいなくなって少し人心地つき、気怠そうに煙をくゆらせていた瑠璃は思わず顔をしかめた。橋の袂で震えていた二人の男を思い出す。あいつら、ちょいと強めに殴って記憶を飛ばしとけばよかったかね、などと物騒なことを考えた。


 鬼を封じこめるのと同時に人よけのために結界を張ってはいても、戦闘の跡まで消し去ることはできない。邪悪な鬼を祓う黒雲の存在は江戸中に知れ渡っており、世間では英雄扱いをされていた。謎の五人衆として瓦版に載り、正体は何なのか、いかにして鬼退治をしているのかなど、様々な憶測が飛び交い、江戸町民のよき話の種となっていた。


 その頭領が吉原一との呼び声高い瑠璃花魁であるなど、万が一にも知られては大事になる。そのために瑠璃は任務で特注の能面をつけ、女であることも隠すべく黒い晒しを胸にぐるぐる巻きにしていた。


 がしゃに胸がないと言われたことまで芋づる式に思い出されて、あの野郎、頭かち割ってやればよかった、と苦々しく心の中で舌打ちする。


「今、千住でも鬼が出るって噂があるらしいですよお」


 夕辻が瑠璃のしかめっ面に向かって朗らかに言った。


「へえ、千住で? 特に聞いたことはありんせんが」


 津笠も瑠璃を見つめながら相槌を打つ。


「わっちの旦那でほら、あすこの近くで酒屋をやってる人がいるでしょう。その旦那が言ってたんですけどね、なんでも男ばかりが、腹から真っ二つになって死んでる事件が増えてるとか。しかも腹ん中の臓腑が全部引きずり出されて、道に散らばってたんですって。辻斬りかとも噂されてるけど、それにしては狙われるのは男ばかりだし、金目の物は奪われてないし、おまけに傷が、刀傷とはどうも違うらしいんですよ。何か、鋭いものでえぐられたような……」


 遊女たちは、津笠も含め、ぞっとしたような顔つきになっていた。何人かが、それ、わっちも聞いたことがありんす、と声を上げる。


 話していて気分が乗ってきたらしく、夕辻はさらに続けた。


「どうやら殺された男たちってのが皆、同じ柄の手ぬぐいを持っていたそうなんですよ。どっかの店で配ってるものみたいでござんすが。同じ手ぬぐいを持つ男たちが、夜になるとむごい有様で殺されてる。番所が動いて下手人探しをしているそうですけど、巷では鬼の仕業じゃないかって」


 妓たちは身震いしたり、目をつむって南無阿弥陀仏を唱えたりしている。


 瑠璃は朋輩たちの様子を無表情に眺めつつ、押上の橋にいた鬼を思い起こした。


 あの鬼の素性は、錠吉が仕事の合間を縫って突き止めてくれていた。


 鬼となった娘は、まだ十六だった。


 両親を早くに亡くした娘は実の姉と二人、支えあって暮らしていた。だがある時、姉は二人で貯めていた金を持ち出し、男と駆け落ちをした。あろう事か、それは娘と恋仲であり、将来を誓いあった男であった。


 すべてを失った娘は、橋から独り、身を投げた。一月前に、その娘と思しき水死体が発見されていた。


 恨みと哀しみが死してなお消えず、娘は鬼に成り果てた。そうして、橋を通りがかった者を無差別に川へ引きずりこみ、溺死させていたのだ。


 闇を孕み、不気味に歪んだ顔。行き場のない怒りと怨念に満ちた声。


 瑠璃が飛雷で貫いた時、鬼の感情が心を覆う感覚があった。


 憎い。苦しい。殺させろ。呪わせろ。


 ──置いていかないで。


「瑠璃?」


 はっと我に返ると、津笠が心配そうに瑠璃の顔をのぞきこんでいた。


 ん、なんでもないさ、と瑠璃は平静を装う。


 その時、豊二郎が張見世部屋の横から声をかけてきた。


「失礼しやす。津笠さん、お客さんがいらっしゃいました。どうぞこちらへ」

「え、ええすぐに」


 津笠はてきぱきと手前の硯箱を片づけ、それじゃまた、と張見世部屋を後にした。


 張見世が始まって半刻が経った。遊女たちは半数ほどが、各々の客が待つ座敷へと立ち去っていた。


「さぁてと。わっちもそろそろ部屋に戻ろうかね。ちゃんと張見世もしたし、お勢以どんもこれでとやかくは言わないだろ」


 煙草盆を手に立ち上がる。遊女たちに、お先に、と声をかけると、夕辻のあーい、という間延びした声だけが返ってきた。


 花魁が張見世部屋を出て惣籬の向こうは落胆した様子だったが、その賑わいが衰えることはなかった。



 めんどくさいなあ、と独り言ちながら、瑠璃は丸行灯を引き寄せる。この日は身揚がりをしたので客は取らないが、馴染みの旦那衆に返さねばならない文がどっさり溜まっていた。


 三ツ布団の上を見やると、炎が四つ足を無防備に投げ出してすやすや寝ている。


 主人の帰りを寝て過ごすとは何事だ、と文句の一つも言ってやろうとした瑠璃だったが、溜まりに溜まった文の山を見て嘆息し、大人しく仕事に取りかかることにした。


 終わりが見えない文の山と格闘して四半刻ほどが経った頃、襖の向こうで瑠璃を呼ぶ声がした。


「栄か? 豊? まあどっちでもいいや、お入り」


 筆を墨に浸しながら言うと、部屋に栄二郎が入ってきた。


 栄二郎は、結界役の双子の弟である。顔は兄の豊二郎とまったく同じ造りだが、豊二郎が常に生意気そうな不機嫌面を貼りつけているのに対し、栄二郎は人好きのする、頑是ない笑顔だ。


「わ、珍しい。身揚がりしたって聞いたから、てっきりもう寝てるかと思ったのに、真面目に文を書いてるなんて」


 栄二郎は目を丸くして、まだあどけなさが残る顔で笑いかけた。瑠璃の隣に正座し、さらさらと文をしたためる手元をじっと見る。


「花魁っていつも達筆だよね。それにこれだけたくさん言葉が思いつくなんて、すごいなあ」


 文でいかに客の心をつかむかは、遊女の大事な手練手管の一つだ。瑠璃も慣れたもので、客の性格や好みを鑑みて、言葉が次々と浮かんでくる。無論、心にもないことばかりなのだが、そうでもないと大量の客を捌くことは難しい。


「お前、今忙しい時分だろ。こんなとこで油売ってていいのかえ」

「うーん、よくないかも。へへへ」

「へへへじゃねえよ」


 吉原において花魁という位は何よりも高いものであり、それは客にとっても、妓楼で働く者にとっても同じである。酒宴の席で花魁は上座に座り、客は下座に座る。若い衆も朋輩も、場合によっては楼主でさえも、瑠璃には敬語を使うのが基本だ。


 だが、まだ半人前で世間知らずな栄二郎は、持ち前のまったりとした雰囲気で、瑠璃にはまるで親しい友人にするような気楽さで接していた。


 当の瑠璃も、栄二郎に敬語を使われないことは特に気にしていないようだ。


 失礼しやす、と声がして、再び襖が開いた。


「あ、栄っ。やっぱりこんなとこにいやがった」


 双子の片割れ、豊二郎が瑠璃への挨拶もなしに、弟を見るなり怒鳴りつけた。


「今日は錠さんと権さんがいないし、花魁が張見世して客が群がってるしで大変なのはわかってるだろ。仕事しろっ」


 豊二郎は、花魁が張見世、というところだけあからさまに強調して言った。


 瑠璃は片眉を上げて豊二郎を見る。


「何だい、わっちのせいで忙しいとでも言いたいのかえ。汐音さんと津笠だって呼び出しなんだから、張見世にそろってたら客も寄ってきて当然だろ。というかお前、さっき津笠を呼んだ時はでれでれしてたくせに」

「べ、別にっ。見世が賑わうのは結構なことですよ」


 豊二郎はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「相変わらず生意気なガキだ。反抗期も休み休みにしてくんない」


 わざとらしく大きなため息をつく。


「くっ、好きなことばっか言いやがって。そもそもあんたは……」


 瑠璃は小言やひやかしを言っても、栄二郎と同様、豊二郎の態度や物言い自体を叱るような素振りはなかった。


 二人がいがみあっていると、またもや襖の向こうから花魁、と声がする。瑠璃が気づかずに豊二郎と言いあいをしているので、代わりに栄二郎が襖に駆け寄った。


「栄じゃないか。おい、豊まで。今日は特にすごい盛況で見世中大わらわだってのに、こんなとこで何してるんだお前らは」


 部屋に入ってきた権三が双子を叱った。声は荒らげないものの、がっしりとした体つきのため十分に凄みがある。双子は悪さが見つかった幼子のように、同時にしゅんとした。


 まったく、と呆れ顔でため息をつく権三の後ろから、錠吉も部屋に入ってきた。後ろ手で座敷の襖をすっと閉める。


「花魁、張見世お疲れ様でした。豊と栄もいるなら丁度いい。次の任務について話があります」


 錠吉は瑠璃への労いの後、すぐさま本題に入った。


「ああ、それで二人とも出かけてたのか。押上の任務から二十日と経ってないのに、もう次かよ。お内儀さんも大概、人使い荒いよなあ」


 瑠璃は途端に疲れたような面持ちになる。


 男四人は座敷で車座になった。


「それで、次の場所は」


 瑠璃も文を書くのを中断して輪に入り、錠吉に尋ねた。


「千住です」

「千住って、まさか同じ手ぬぐいを持った男たちが、真っ二つの腑抜けにされてるのと関係がある、とか?」

「花魁、ご存知だったんですか」


 権三が驚いた顔をする。


 片や瑠璃はげんなりと肩を落とした。遊女たちの噂は本当だったのだ。


「まあ、死骸の状態がひどいってんで話題になってますもんね」

「だとしても、ただの辻斬りかもしれないだろう? 鬼の仕業だって確証はあるのかえ」

「今夜その男たちが殺された場所に行ってみたんですが、提灯小僧がいたんですよ」


 瑠璃は眉根を寄せた。


「提灯小僧ってえのがいると、鬼がいるってことになるの?」


 栄二郎がきょとんとした顔で権三に尋ねる。豊二郎もしかめっ面で首を傾げている。


「お前らはまだ見たことなかったか。提灯小僧ってのは妖でな、といっても花魁のまわりに集まってるような妖たちとは、少し毛色が違う。恨みを持った死人がいる場所に、夜になると提灯を持って現れるんだ。ただそれだけだし、出没するのも稀だから、さして害はないんだがな……」

「顔がないのさ」


 瑠璃が言いよどむ権三に続いた。


「顔だけじゃない。体も真っ黒で、影みたいなんだ。あれは普通の妖とは何か違う。不気味なモンだよ」


 豊二郎と栄二郎は顔を見あわせた。


 二人は十歳の時から二年かけ、お喜久から結界の張り方を伝授されていた。黒雲の任務に参加するようになって、まだ一年も経っていない。見たこともない顔なしの異形を想像し、背筋が寒くなったかのように硬直していた。


「そこに立ってるってだけで、悪さはしない。ただ提灯小僧がいる場所には、鬼がいるって証になりうるんだ」


 権三は、おびえた表情の双子を落ち着かせるように言った。


「花魁がおっしゃったように、殺された男たちは全員が同じ手ぬぐいを持っていました。共通点はむしろそこだけのようです」


 錠吉が遮られた話を元に戻し、淡々と説明する。


「それで、その手ぬぐいってのは」

「どうやら千住の近くにある米問屋、伊崎屋(いさきや)が配っているもののようです」


 錠吉は懐から綺麗に折り畳んだ手ぬぐいを一つ取り出した。手ぬぐいには、奇妙な形をした「ゐ」の字が無数に染め抜かれている。


「何だろこれ。〝ゐ〟にふさふさがついてるね」


 栄二郎が不思議そうに手ぬぐいを見つめる。


「ほんとだ。このふさふさ、稲っぽいな」


 豊二郎も手ぬぐいに見入った。瓜二つの顔がまったく同じ角度に首を傾げ、難しい顔つきで目を凝らしている。


「〝ゐ〟の先に稲穂がついてるから、ゐさき屋で、米問屋って意味だろうよ」


 瑠璃はさも大儀そうに判じ絵の説明をしてやった。双子がああ、と同時に手を打つ。


「これで鬼をおびき寄せます。日取りは二十日後。よろしいですか」


 瑠璃は、あいよお、と間の抜けた返事をしてため息をついた。


「今度は旦那方に何て言って休むことにしようかねえ」


「花魁。先ほどお内儀さんにも下調べの報告をしたんですが、今回は楢紅を使うかもしれない、とのことでした」


 斜めにうなだれ、魂の抜けた顔で休む言い訳を考えていた瑠璃は、錠吉の言葉を聞いて目を見開いた。錠吉を見やると、いつもの真面目な表情で瑠璃を正視している。


「……そうか」


 瑠璃は目をそらした。その顔は眉をひそめ、怒りとも憂鬱ともとれぬ、複雑な面持ちをしていた。


 布団の上で寝ていた炎が、片目を開けて五人を見た。細い猫の目が、静かに様子をうかがう。瑠璃の表情に目をやって、炎は再び眠りについた。

★この続きは、明日5月25日(水)17時公開! お楽しみに!

夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)

1991年千葉県生まれ。上智大学法学部卒業。石川県在住。2017年に第13回小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した『Cocoon-修羅の目覚め-』でいきなりシリーズ化が決定。その後、『Cocoon2-蠱惑の焔-』『Cocoon3-幽世の祈り-』『Cocoon4-宿縁の大樹-』『Cocoon5-瑠璃の浄土-』と次々に刊行し、人気を博している。コミカライズもされている。2022年5月には最新刊『Cocoon 京都・不死篇-蠢-』が刊行予定。

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