『流星の絆』東野圭吾 冒頭無料公開! 3

文字数 5,205文字



 男たちは刑事だった。どちらも名乗らなかった。白髪頭を短く刈った男が功一の正面に座り、背の高い若い男がその隣の席についた。
 もう一人別の男が少し遅れてやってきて、隣のテーブルの椅子を引いた。その人物のことは功一も知っていた。何度か客として来たことがあるからだった。最近も来ていたのを覚えている。幸博とも親しかったらしく、よくカウンター越しにゴルフの話をしていた。しかし彼が警察官だということは、今夜初めて知った。警察に連絡した後、店の前で待っていたら、最初に現れたのが彼だったのだ。柏原という名字も、その時に聞いた。
「話、できるかな?」白髪頭が訊いてきた。
 功一は柏原のほうを見た。大体のことは彼に話してある。
「今は無理なら、明日にしてもらおうか?」柏原が気遣うようにいった。
 功一は小さく首を振った。「大丈夫です」
 本当は今すぐにでも弟や妹たちのところに戻りたかった。だが自分が話をしなければ犯人は捕まらないのではないかと思うと、逃げ出すわけにはいかなかった。
「今夜のことを、なるべく詳しく聞かせてもらいたいんだけどね」白髪頭がいう。
「あの……どこから話したらいいですか」かすれた声で功一は訊いた。自分でも驚くほど、全身に力が入らなかった。身体が小刻みに震えていることに初めて気づいた。
「どこからでもいいよ。話しやすいところからで」
 そういわれても、頭が混乱して考えがまとまらない。功一は再び柏原を見た。
「あそこからでいいんじゃないか。ほら、家を抜け出したところからだ」
 ああ、と功一は頷き、白髪頭の刑事に目を戻した。
「十二時頃、弟らと窓から外に出たんです。ペルセウスを見ようって……」
「そうらしいね。そのことは当然、御両親には内緒だったわけだね」
 はい、と功一は頷いた。
「家を出る時、御両親はどこにいたのかな」
「ここで何か話してました」
「どんな様子だった?」
「別に……ふつうの感じでした」
 昨夜、家を出る直前に功一は一階の様子を(うかが)った。両親は店で話をしていた。二人とも、ぼそぼそとしゃべっていたので、話の内容はわからない。だがたぶん商売のことだろうと功一は想像している。このところ両親が、それに関する話を子供たちに聞かせたがらないでいることに彼は気づいていた。
「星を見て、戻ってきたのは何時頃?」
「見てません」
「えっ?」
「流星、見えなかったんです。天気が悪くて、それで帰ってきたんです」
「ああ、そうか。で、帰ったのは何時頃?」
「二時頃だと思います。でも、あんまり自信ないです。時計を見たの、ずいぶん後だから」
「いいよ、それで。家を出る時には窓から出たといったけど、帰った時にはそこの入り口から入ったんだよね。どうしてかな」
「妹がいたから。俺と弟だけなら窓から入れるけど、妹を連れてたら無理だから。それに、妹は途中で寝ちゃってたし」
「鍵は君が持ってたのかい」
「はい」
「いつも持ってるのかな」
「財布にくっつけてあります」
 こんなことまで話さねばならないのか、こんな話が役に立つのだろうか、などと考えながら功一は質問に答えた。
「それで、店に入ってきた時のことを聞きたいんだけどね」白髪頭が、それまでに比べてやや慎重な口ぶりでいった。
「店の電気が消えてるんで、父さんたちはもう寝てるんだろうと思って、鍵をあけて中に入りました。そうしたらそこのドアがちょっと開いてて、向こうの電気がついてました」
 功一はカウンターのほうを振り返った。その先にあるドアのことだ。
「それで、もしかしたら父さんたち、起きてるのかなあと思ったんですけど、もうどうしようもないし、怒られるのを覚悟して、ドアを開けたんです。あそこを通らないと二階に行けないから……」
 ドアをくぐると三畳ほどのスペースがあり、料理の下準備などが出来るようになっている。右側が靴脱ぎで、そこから家に上がれる。上がって正面が階段で、左側が居間兼両親の寝室だ。家に上がらず、奥のドアを開けると、裏口に通じる通路がある。
 功一が覗いた時、両親の部屋の引き戸が開いていた。それを見て彼は、まずいなと思った。両親が眠る時には必ずそこを閉めるからだ。子供たちが抜け出したことを知り、帰ってきたら(しか)ろうと待ち受けているのではないかと思った。
 静奈を背負ったまま、功一はこっそりと室内の様子を窺った。すると――。
「足が見えたんです」彼は刑事たちにいった。
「足?」白髪頭が首を(かし)げる。
「母さんの足です。靴下を穿()いていました。どうして寝転んでいるのかなと思って、それで中を覗いてみたら……」その後のことをどう表現していいかわからず、功一は言葉に詰まった。
 彼の目に最初に飛び込んできたのは、白地に赤い染みのついた布だった。一瞬それは日の丸の旗に見えた。塔子の上半身にかけられ、彼女の顔は見えなかった。
 それが旗ではなく血に染まったエプロンだと気づいたと同時に、奥の台所で倒れている父親の姿が目に入った。幸博は(うつぶ)せだった。Tシャツの背中が血にまみれていた。
 父も母も、ぴくりとも動かなかった。功一も動けなかった。身体が凍り付いたように固まった。
 彼の金縛りを解いたのは背後から聞こえた物音だった。店のドアは開閉するたびに、ほんの少し(きし)み音をたてる。小さな頃からその音を聞き慣れている功一は、それに反応した。
 彼は静奈を背負ったまま、ゆっくりと後ずさりした。靴を履き、店に戻った。泰輔が近づいてくるところだった。
 功一は弟に何かいった。何といったのか、覚えていなかった。ただ、彼の言葉に泰輔が青ざめ、震え始めたことだけは記憶にある。
「びっくりして、何がなんだかわからなくなって……」功一は(うつむ)いていった。「弟と妹を二階に連れていって、店の電話で110番しました。後は店の前で待っていました」
 白髪頭の刑事は黙っていた。どんな顔をしているのか、下を向いている功一にはわからなかった。
「今夜は、このへんでいいんじゃないんですか」柏原がいった。「少し落ち着いたら、何か思い出すかもしれないし」
「……そうだねえ」白髪頭が頷く気配があった。「今夜、子供たちはどこで?」
「それはまだ何とも。ただ、聞くところによれば、近くに住んでいる親戚はいないようです。一応、功一君の担任の先生には連絡したんですがね」柏原が答えている。
「じゃあ、今夜の落ち着き先が決まったら教えてください。――功一君」白髪頭が呼びかけてきた。功一が顔を上げると、刑事は申し訳なさそうな顔をした。「疲れてるところを悪かったね。でも、おじさんたちも、早く犯人を捕まえたいんだよ」
 功一は黙って頷いた。
 二人の刑事が立ち去ると、柏原が空いた席に移ってきた。「喉、渇いてないか?」
 功一は首を振った。
「おじさん……」
「なんだ?」
「弟たちのところへ戻ってもいいかな」
 柏原は戸惑ったような顔をした。
「あっ、それはどうかな。じつはこの後、二階も調べることになると思うんだ。だから逆に、弟さんたちに部屋を空けてもらわなきゃいけない」
 功一は柏原を見た。
「あそこにいちゃいけないんですか。俺たち、邪魔しません」
「いや、悪いけど、そういうわけにはいかないんだ。なるべく細かいところまで調べなきゃいけないからな。今夜の部屋は、こっちで用意する」
「シーは……妹は、たぶんまだ寝てると思うんです。あいつ、よく寝るから」
「起こすのはかわいそうか」
「いつもなら、別にいいんだけど、今は眠らせといてやりたいんです。だって、あいつ、まだ何も知らないから。何が起きたか知らなくて、いい気持ちで眠ってるから、せめて今夜ぐらいはって、ちょっと思ったんです」
 話しているうちに、突如胸の内側が燃えるように熱くなってくるのを功一は感じた。静奈の寝顔を思い浮かべたからだった。両親が殺されたという事実以上に、そのことを彼女に教えなければならないということに、彼の心は激しく揺さぶられた。どうしていいかわからなくなり、絶望的な気分になった。
 胸にこみあげてきたものが、涙となって溢れ始めた。両親の死体を見た時でさえも泣かなかったのに、今はそれを止められなかった。彼はそばのナプキンを鷲掴(わしづか)みにし、顔に当てた。わあわあと声をあげた。堪えることなど出来なかった。

 横須賀署で最初の捜査会議が開かれたのは朝の八時過ぎだった。現場に駆けつけた捜査員の(ほとん)どが一睡もしていなかった。萩村もその一人だ。山辺と共に『アリアケ』の周辺を歩き回った。しかし収穫は皆無といわざるをえない。何しろ、起きている人間を探すだけでも一苦労なのだ。コンビニエンスストアや屋台のラーメン屋などを当たったが、有益と思える情報は掴めなかった。
 それはほかの捜査員たちも同様だった。機動捜査隊からも大した報告はない。会議を進行する県警の係長も、何となく焦り気味に見えた。
 有明夫妻が殺されたのが午前零時から二時の間であることはほぼ間違いない。長男の証言が根拠となっている。警察に通報された時刻は記録によれば午前二時十分で、死体を見つけてからすぐに電話をかけたという彼の証言と合致する。
 夫妻は居間兼寝室で刺し殺されていた。ただし凶器は別で、有明幸博は洋包丁で背中から突き刺されている。刃の長さが三十センチ近くあるもので、刃先は身体を貫通し、胸から飛び出ていた。おそらく即死に近かったのではないか、というのが監察医の意見だった。
 塔子も洋包丁で刺されていたが、こちらはナイフと呼べそうな小振りのものだ。夫とは反対に胸から刺されている。ただし、彼女の首には手で絞められたような跡もあるので、(とど)めを刺す目的で刃物を使ったのかもしれない。
 どちらの凶器も被害者の身体に刺さったままになっていた。引き抜くのが大変だという理由もあるだろうが、犯人としては凶器を残しておくことに危険性を感じなかったのだろうと考えたほうがよさそうだ。どちらの凶器も『アリアケ』の厨房から拝借したものだと思われるからだ。ただし、指紋はついていなかった。布の手袋をしていた可能性もある、というのが鑑識の見解だった。
 犯行時に多少の格闘はあったようだが、物色された気配は室内にはない。しかし当然どこかに保管されているはずの売上金が見当たらないことから、店のカウンターから手提げ金庫か何かを盗んだことも考えられた。このあたりのことは、長男たちに確かめるしかない。
 単独犯か、複数の人間による仕業(しわざ)なのか、結論づけられるほどの材料は今のところない。顔見知りの犯行かどうかについても同様だ。また今回の場合、凶器を用意していなかったからといって、計画性がなかったとは断言できない。洋食屋に包丁類があることは誰にでも予想できる。
 いずれにせよ、今日一日の聞き込み捜査が重要なのは明白だった。
 全体での会議が終わった後、県警本部の捜査一課が中心になって、役割分担などが決められていった。萩村たち所轄の刑事も、その中に組み込まれていく。
 萩村は隣に座っている柏原を見た。彼は頬杖をつき、目を閉じている。眠っているのでないことは、もう一方の手の指が机を叩いていることでわかる。
「子供たちはどうしたんですか」萩村は小声で訊いた。
「旅館にいる」柏原はぼそりと答えた。
「旅館?」
 柏原は頬杖をしていた手を外し、首の後ろを()んだ。
汐入(しおいり)にある旅館だ。長男の担任が一緒にいるはずだ」
「柏原さんが連れていったんですか」
「いや、俺はパトカーに乗せるまでだ」
「どんな様子でした?」
「子供らか?」
「ええ」
 柏原は、ふうーっとため息をついた。
「妹はまだ寝てたな。長男がさ、起こさないでくれっていうんだよ。それで、警官が抱っこしてパトカーに乗っけてた」
「妹は親が殺されたことは……」
「知らないんだよ。それで長男がそういったんだ」柏原は腕時計を見た。「まだ話してないかもしれないな。あの担任教師が話すのかねえ。頼りなさそうなおっさんだったけど、大丈夫かな」
 幼い少女に、一体どんな言葉で今度の惨劇を伝えればいいのか、萩村にはまるでわからなかった。自分がその役でなくてよかったと思った。
「長男や次男はどうです」
「上の兄ちゃんはしっかりしている。一課の連中が質問することにも答えてた。横で聞いてて、すげえなあと感心したよ」
「弟は?」
「弟は――」柏原はゆらゆらと頭を振った。「口がきけなくなってた。パトカーに乗る時も人形みたいだった。目が死んでたよ」

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