第3話

文字数 9,448文字

3 生死の問題(承前)

 翌朝、戸畑弥生が目を覚ましたのは、十時を少し過ぎていた。
「寝過しちゃった……」
 と、つい急いで起き上って、「あなた――」
 そう言いかけて思い出した。ゆうべ、あの人は何と言ってただろう?
 リストラされた。もう会社には行かない……。
 夢だったのかしら?
 弥生はベッドから出て、隣の部屋を覗いた。
 娘の佳世子が家を出て、弥生はその佳世子の部屋で寝ている。夫は夫婦の寝室を使っていた。
「あなた?」
 と、寝室を覗くと、ベッドは起き出したままで空になっている。
 出かけたのかしら? ――弥生は居間へ入って行った。
 ダイニングキッチンのテーブルに、走り書きのメモが置かれていた。
〈出かける。遅くなると思う〉
「はいはい……」
 弥生は、呟くと、ともかく自分も目を覚まそうと、シャワーを浴びた。
 バスタオルで体を拭きながら、バスルームを出ると、
「お母さん」
 目の前に、娘の佳世子が立っていて、弥生はびっくりして飛び上りそうになった。
「――何よ! びっくりさせないで!」
 と、大きく息をつく。
「だって、シャワーの音がしてたから……」
 佳世子は今、大学の三年生である。大学の近くに一人でアパートを借りていて、めったに帰って来ない。
「どうしたの?」
 服を着て、弥生はキッチンへやって来た。
 佳世子が冷蔵庫に入っていたおにぎりを食べている。
「お父さんのこと」
 と、佳世子が言った。「何かあったの?」
「それは……。聞いたの? リストラされたって」
「やっぱりね」
 と、佳世子は肯いた。「そんなことじゃないかと思った」
「佳世子、あんた、どこでそのこと――」
「お父さんがね、ゆうべ突然アパートに来たの」
「まあ。――よく知ってたわね、場所」
「引越しのとき、荷物、車で運んでくれたもの」
「そうだっけ。忘れちゃったわ」
 と、弥生は言った。
 もうそのころ、夫とはほとんど口もきかないようになっていたのだ。
「でも、佳世子、お父さんと会ったんでしょ? 直接聞かなかったの?」
「うん、それが……」
 と、佳世子はちょっと口ごもって、「私、一人じゃなかったから、お父さんが来たとき」
「え?」
がいたの、一緒に」
 弥生は面食らって、
「つまり……あんたの彼氏ってこと?」
「うん」
 と、佳世子は肯いて、「それも遅い時間だったから、二人で布団に入ってた」
 弥生はしばし言葉を失っていたが、
「――あんた、いつの間に……」
「お母さん、私、もう二十歳だよ。恋人いたって当り前でしょ」
「そう……かしらね。じゃ、お父さんもショックだったでしょ」
「裸の上にパジャマの上だけ着て出てったら、お父さん、ポカンと口開けてた」
「それで――」
「何も言わないで、帰っちゃった。だから、リストラのことも聞けなかった」
 夫にとっては、リストラに加えて、娘が男と寝ているところを見て、二重のショックだったわけだ。
「これからどうするの?」
 と、佳世子は訊いた。「大学の方は、私、自分で稼いで何とかするけど、お父さんとお母さん、養うのは無理よ」
「まさか、そんなこと」
 と、弥生は苦笑して、「あんたの財布をあてにはしてないわよ。お父さんだって、何か仕事を探すでしょ」
「でも、五十五でしょ? 難しいと思うけど……」
「それはそうでしょうけど、でも――リストラっていっても、昨日突然言われて、その日で終りってわけないわよね。たぶん少し前に言われて、でも、うちでは話しにくくって黙ってたのね、きっと」
「お父さん、相変らず……」
「女性がいるのは分ってる。けど、もう今さら、どんな女か後を尾け回したり、調べたりする元気ないわよ」
 そう言ってから、「じゃ、お父さん、彼女の所に行ったのかしら」
 と、弥生は呟いた。
 佳世子は冷蔵庫からもう一つおにぎりを出して、食べ始めていた。
「まさか、お父さん、自殺したりしないよね?」
 と、佳世子が言って、弥生は反射的に、
「まさか!」
 と打ち消していた……。
「そうだよね」
 と、佳世子も肯いて、「お父さん、そんな度胸ないよ」
 弥生はふと、ゆうべ夫の上着に、血らしい汚れが付いていたことを思い出した。急いで上着を掛けた所へ行ってみたが、上着はなかった。
 あれを着て行ったのかしら?
「――どうしたの、お母さん? 何あわててるの?」
 佳世子に訊かれて、弥生は、
「いいえ、何でもないの」
 と、あわてて首を振った。
「また……。お母さんは隠しごとのできない人だって、自分でも分ってるでしょ? 今の様子、ただごとじゃなかったよ」
「はっきり分らないのよ……。ゆうべ、お父さんの上着を拾ってここに掛けたんだけど……」
 と、弥生はためらいながら、娘にしていた。
「血が付いてたって……。お母さん! どうしてお父さんを問い詰めなかったの? もしかしたら、リストラされて、お父さん、彼女に振られたのかもしれないわ。カッとなって、彼女を……」
 と、佳世子は言いながら、「でも、どこの誰だか分らないんじゃ、調べようもないわね」
「いくら何でも、お父さん、そんなことしないわよ」
 と、弥生は言った。「鼻血でも出したのかもしれないし」
 あの血の汚れは、とても鼻血という感じではなかったが……。
 そう。佳世子の言う通り、夫の彼女が、どこの誰か分らないのでは……。
「――そうだ。お母さん、出かけるんだった」
「どこへ? 買物なら付合うけど」
「違うの。撮影所」
「何、それ?」
 思ってもみない答えに、佳世子は面食らった。

 4 紙一重
 
 確かに、戸畑進也はを殺してはいなかった。――
「あかり。――俺だ」
 戸畑はケータイで、黒田あかりへかけた。
「ちょっと……」
 と、向うは声をひそめて、「困るわよ、仕事中なのに」
「すまん。今日、時間取れないか? 一時間でも三十分でも――」
 切れてしまった。
 戸畑は手にしたケータイをじっと見ていたが、やがて諦めて、ため息をついた。
 小さな公園だった。
 オフィスビルの谷間で、そのせいでいわゆる「ビル風」がいつも吹いている。
 戸畑がこの公園を知っているのは、彼がリストラされた会社もこの近くだからだ。
 もちろん、今は、恋人だった黒田あかりの会社のそばへやって来ていたのだが。
 昼休みにはまだ少し時間がある。
 戸畑は、ベンチに腰をおろすと、諦め切れずに、黒田あかりのケータイへメールを入れた。
〈仕事中に電話してすまん。今日、帰りに会えないか? いつでも連絡してくれ〉
 送信して、しばらく返信が来ないか、じっとケータイを見ていたが、やがて首を振ってケータイをポケットに入れた。
 時間的に、そう風は強くなかったが、それでもコートの襟から入ってくる北風は冷たかった。
 ここにいても仕方ない。
 といって――どこに行こう?
「戸畑さん?」
 と、女性の声がした。
 顔を上げると、勤めていた会社の庶務にいた子である。
「やあ……」
「やっぱり! あの辺から見てて、何だか戸畑さんみたいだな、って……。会社に用事?」
「いや、そういうわけじゃ……。もう会社の方で、『用はない』って言ってるからね」
「ひどいわよね、本当に」
 と、彼女は言った。
 大山啓子。――確かまだ二十五、六のはずだが、年齢の割に落ちついている。
「外出かい?」
 と、戸畑は訊いた。
「おつかいに出て、早く終ったんで、ちょっとサボろうかと思って」
 と、大山啓子はいたずらっぽく笑って、「戸畑さん、お茶、付合って下さいよ」
「ああ……」
 一人でここに座っていても仕方ない。戸畑は、大山啓子について行くことにした。
 ティールームに入った二人だったが……。
「――戸畑さん、お腹空いてる?」
 と、啓子が紅茶を飲みながら言った。
「え? どうして?」
 と、コーヒーを飲んでいた戸畑は訊き返した。
 うん、と言っているのと同じだ。
 そして戸畑は、このティールームがランチタイムに限って出しているカレーライスを、他の客が頼んでいるのをじっと見ていたことに気付いた。
「実は――朝から何も食べてないんだ」
 と、正直に言った。
「じゃ、食べて! 十一時だから、もうカレーが出るのね。すみません!」
 啓子が注文してくれて、戸畑は食事にありつくことができた。
 ついせかせかと食べてしまって、戸畑はちょっと照れくさそうに、
「ガキみたいな食い方だな」
 と笑った。
 啓子は少し頭をかしげて戸畑を眺めていたが、
「戸畑さん。――に会いに来たの?」
 と訊いた。
「何だって?」
「この近くなんでしょ? 私、夜、帰りに戸畑さんが彼女と腕組んで歩いてるの、見たことがある。この辺に勤めてて、待ち合わせてたんでしょ」
「ああ……。まあな」
 と、戸畑は肩をすくめて、「会社へ電話したが、迷惑そうに切られた。たぶん――リストラされた俺になんか、用がないんだ」
「そう……」
「会社も、彼女も、女房も、誰も俺になんか用がないのさ」
 戸畑は冷めたコーヒーを飲んだ。
「でも……」
 と、啓子が少しして言った。「リストラと関係なく、その彼女は別れてたと思いますよ」
「――何のことだ?」
「他のときに、見たことあるんです。戸畑さんと腕組んでた彼女が、どこかの社長さんみたいな、でっぷりした、禿げたおじさんと車に乗ってくの」
 と、啓子は言った。「見間違いじゃないと思う。派手で、目立つ人ですよね」
 戸畑は眉を寄せて、
「放っといてくれ。俺だって、女にもてるとは思ってやしない」
 と、ついきつい口調で言った。
「ごめんなさい。大きなお世話よね」
「いや……。すまん」
 戸畑は目を伏せて、「せっかく、俺なんかに声をかけてくれたのに……」
「そんなこと……。でも、そんな風に、自分のこと、だめだ、だめだって言ってたら、本当にだめになっちゃう」
 啓子の言葉に、戸畑は自分を恥じた。
「――ありがとう。嬉しいよ。俺のことを本気で心配してくれるのか」
「だって、戸畑さん、いい人じゃないですか」
 啓子の言葉は、戸畑の胸を突いた。――「いい人」か。前にそんなことを言われたのは、いつのことだろう?
「――やだ、私、何か悪いこと言った?」
 と、啓子は少しあわてたように言った。
 そう言われてから、戸畑は初めて気が付いた。自分が泣いていることに。

「あの……戸畑と申しますが、東風亜矢子さんに……」
 撮影所の入口で、戸畑弥生はおずおずと声をかけた。
 遊びに来て下さい、とは言われたが、何しろ、忙しいだろう。弥生のことを憶えていてくれるかどうか……。
 しかし、入口のガードマンは、
「ああ、亜矢子さんから聞いてます!」
 と、すぐに肯いて、「戸畑弥生さん……ですね」
 と、メモを見て言った。
「そうです。あの――これは娘で」
 佳世子まで、
「一緒に行く!」
 と言い出して、連れて来たのである。
「どうぞ、どうぞ。――ここ真直ぐ行くと、〈4〉って大きく書いたスタジオがあります。そこへ行って下さい。中へ入って構いませんから」
「ありがとうございます」
 弥生は礼を言って、撮影所の中へ入って行った。
「――ちゃんとした人なんだね、その人」
 と、一緒に歩きながら佳世子が言った。
「そうね」
 と、弥生は肯いた。
 そして、あの入口のガードマンも亜矢子のことを「仲良し」と思っているのが、様子で分った。そういう人は多くないだろう。
 色々な扮装をした人がすれ違って、佳世子は面白がって、その都度立ち止っていた。
〈4〉の数字のある大きな建物の前で足を止めると、
「そっと入りましょ」
 と、弥生は言って、小さなドアを静かに開けた。
「もっと左! 左だ! 右も左も分らないのか!」
 と怒鳴る声が響いた。
 天井の高い、広い空間に、一軒家のセットが組まれている。いくつものライトが、その家の庭を照らしていた。
 眺めていると、
「あ、弥生さん」
 と、亜矢子の方からやって来た。
「ゆうべはどうも……。あの――これ、娘です」
「佳世子です。母がお世話に……」
「いらっしゃい。――後輩の仕事を見に来たんです。こちらへ」
 亜矢子はスタジオの中を通って、奥の方へ二人を連れて行った。
 パイプ椅子を並べて、数人が紙コップのコーヒーを飲んでいた。
「監督」
 と、亜矢子が声をかける。
「おい、このコーヒーはひどいぞ。まるでコーヒーの香りがしない」
「仕方ないですよ。よその組なんですから」
 と、亜矢子は言った。「こちら、今朝お話しした、シナリオライターの戸畑弥生さんです。――正木監督です」
 弥生はびっくりして立ちすくんだ。
〈シナリオライター〉だなんて!
「あの……お目にかかれて光栄です」
 挨拶する声が震えていた。
「やあ、いらっしゃい」
 正木は明るく言って、「亜矢子の奴から話は聞いたよ。そっちのお嬢さんは、ニューフェイスかな?」
 と、佳世子の方を見て言った。
「監督、〈ニューフェイス〉は古いです」
 と、亜矢子が言った。
「娘の佳世子です。こちらへ伺うと言ったら、ついて来てしまって」
「なかなか華のある娘さんだ。役者に興味はない?」
「え……。私なんかとても……」
 と、佳世子が真赤になっている。
「それより――。そうそう、戸畑さんと言ったかな? 亜矢子からあんたのシナリオを渡されたよ」
 と、正木は言った。
「恐れ入ります。お忙しいのに――」
「いや、あんたも色々あったようだが、こっちも今の企画がなかなかうまく行かなくてね」
「監督、グチは内輪だけにして下さい」
 と、亜矢子が言った。
 実際、「これをやりたいと思ってるんだ」とか、「あれは難しそうだ」とか軽い気持で口にしただけで、いい企画を先に他でやられてしまったり、「あの監督はもう撮れないらしい」といった噂がアッという間に広がる世界だ。
「お作にはいつも感激しています」
 と、弥生が言うと、
「嬉しいね。亜矢子はいつも厳しいことばっかり言ってるんでね」
 こっちを悪者にして! 亜矢子は苦笑したが、それで監督の機嫌が良くなるのなら、スクリプターとしては結構なことなのである。
「あんたのホンを読んだ」
 と、正木は言った。「ひどいタイトルは別として、中身はね、うん、悪くなかったよ」
 弥生は思わず上ずった声で、
「本当でしょうか! ありがとうございます」
 と言って、深々と頭を下げた。
「まあ、もちろん、あのままでは撮れない。むだなところもある。しかし、一番肝心なところは、映画的にできていて、良かった」
「ありがとうございます……」
 弥生は目を潤ませた。「そんな風におっしゃっていただけると……。今後の励みになります」
「映画に関しちゃ、俺はお世辞は言わない。亜矢子もよく知ってる。な?」
「いやというほど知ってます」
「素直じゃないぞ」
 と、正木は笑った。「どうだ」
 と、弥生の方を見て、
「あのホンを直して使えるかもしれんと思うんだ。やる気はあるかね」
 弥生は息を呑んだ。
「はい! ――もちろんです!」
「そうか。いや、ちょうど考えていた企画にも合う話なんだ。ただ、もう少し、こう――普遍的な広がりがほしい」
「はい」
「監督」
 と、亜矢子が言った。「具体的なことは、ここでは……」
「ああ、分ってる。今日は、亜矢子について、撮影を覗いていくといい。俺もいつものカメラマンと話をすることになってる。夜にでも会おう」
「よろしくお願いします」
 正木が他のスタッフと話を始めたので、弥生は亜矢子に促されて、スタジオを出た。
「――亜矢子さん、正木監督のおっしゃってたこと……」
 と、恐る恐る言った。
「監督も言った通り、映画に関して、ただの社交辞令は言いません」
「じゃ、本当に私のシナリオを……」
「テーマについては、また後で説明します」
 と、亜矢子は言った。「ただ、この企画には、正直言って、目下スポンサーが見付かってないんです。もちろん、努力はしていますし、スポンサー捜しのためにも、ちゃんといいホンが出来ていた方がいいので、それを承知で、ということなら、ぜひやってみて下さい」
「はい!」
 弥生は力強く答えた。
「お母さん、良かったね」
 と、佳世子が言った。
「人生がバラ色に見えて来たわ」
 と、弥生は言って笑った。
「他のスタジオを覗きましょう」
 と、亜矢子は言った。「どこにでも知った顔がいるので、大丈夫です。――あ、ごめんなさい」
 亜矢子のケータイが鳴ったのである。
「はい、亜矢子です」
「お仕事中?」
 と、女性の声がした。
「あ、本間さんですね」
 正木の旧友、本間ルミだ。ホテルのラウンジで会ったとき、名刺を渡していた。
「今、撮影所ですが、外を歩いています」
 と、亜矢子は言った。「正木監督にご用でしょうか?」
「まあ、そうなんだけど、まずあなたに、と思って」
「どんなご用件でしょうか」
 と、亜矢子は足を止めて言った。
「次回作のスポンサーを捜してるのね」
「はい、そうです」
「私にも少し出資させていただけない?」
 と、本間ルミは言った。
「それはもう……。監督も喜びます」
「だといいけど。一応、あなたから正木さんに話してみてくれる?」
「はい、もちろんです。この番号にご連絡してもよろしいのでしょうか?」
 本間ルミはケータイからかけて来ていたのだ。
「ええ。これはビジネス用なの。夜遅くなると出ないかもしれない」
「かしこまりました。監督に話した上で、ご連絡します。監督からお電話さし上げてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。夜十時ごろまでなら、たいてい出ます」
 本間ルミの話し方は、ビジネスライクでありながら、暖かく、といって必要以上に親しげにしない。人との節度のある距離というものを分っている人だ、と亜矢子は思った。
「――もしかすると、今度の話、うまく行くかもしれませんね」
 と、ケータイをしまって、亜矢子が言った。
「私、張り切らなくちゃ!」
 と、弥生が言った。

 そこは夫婦というものか、同じころ、戸畑進也の方も張り切っていた。
 もっとも、張り切り方は少し違っていたが。
「――大山君」
 戸畑は息を弾ませて、「良かったのか、こんなこと……」
「今さら言わないで」
 と、大山啓子はちょっと笑って言った。
「それもそうだな」
 ――今、戸畑は、大山啓子のアパートの部屋で、可愛いシングルベッドに入って啓子と肌を寄せ合っていた。
 啓子が、一旦会社へ戻って、早退して来たのだ。
 そして、戸惑っている戸畑を自分のアパートへ連れて来た……。
「でも、やっぱりの方が良かった?」
 と、啓子が訊いた。
「え? ――ああ、いや、もうどうでもいいよ」
 戸畑は、改めて部屋の中を見回すと、「よく片付いてるな。几帳面なんだね、君は」
「一人暮しは、きちんとしてないと、どんどんだらしなくなっちゃうから」
「そうだろうな……。俺も片付けるのが苦手だよ」
「奥さんがきれい好き?」
「そう……だろうな、きっと。いつでも気付かない内に片付いてて、同じ物はいつも同じ所に入ってる」
「シナリオ書いてる、っていつか言わなかった?」
「うん。話したことあったかな? シナリオ教室に通って、せっせと書いてたよ。まだ、ものになってないようだったが」
 戸畑は啓子を抱き寄せると、「どうしてこんなにやさしくしてくれるんだ」
 と言った。
「だって、放っとくと、戸畑さん、死んじゃいそうだったから。違う?」
 そう言われてドキッとした。
 自分でも気付いていなかったが、あのまま黒田あかりを待ち続けていたら……。
「そうかもしれない」
 と言って、戸畑は啓子をしっかり抱きしめた。「君のおかげで……」

 5 不安の影
 
 待ち合せたティールームに現われた正木は上機嫌だった。
「やあ! 待たせてすまん!」
 と、大きな声で言いつつ、少しも「すまなく」思っていない様子で、「おい、コーヒーだ!」
 亜矢子は苦笑した。
 よく仕事の打合せで使う店だが、正木はいつも、
「ここのコーヒーは飲めたもんじゃない」
 と、文句を言っていたからである。
「本間さんとお話できましたか?」
 むろん、できたから、こんなに上機嫌だということは分っている。
「ああ。彼女が、今度の製作費、全額出してくれることになった!」
「全額? 四億円もですか?」
 大まかな金額ではあるが、今回の作品は、大がかりなロケやセットは必要ないので、それくらいで収まるだろうと計算していた。
「うん。彼女の会社は、大したものなんだな。もう今じゃ企業グループができていて、彼女はそのトップなんだ」
「良かったですね」
 ティールームには、戸畑弥生と娘の佳世子も来ていた。
 昼間、ずっと撮影所を見て歩いて、弥生は興奮していた。
「だから、戸畑君だったか、早速シナリオの改訂にかかってくれ」
 と、正木は言った。
「監督、どこをどうしたいのか、おっしゃらないと」
「そうだったな!」
 と、正木は笑って、「ともかく、まず全体のコンセプトからだ」
 弥生は、「リアルな生活感のあるメロドラマ」という正木の狙いを聞いて、手元の手帳にせっせとメモした。
 もちろん、亜矢子も聞いているが、同時に、スクリプターとして――というより、正木の女房役として、やっておく必要のあることを、自分でメモしていた。
 まず、「流れた」という企画だが、その実態がどうなのか、知る必要がある。
〈N映画〉の丸山というプロデューサーのことは全く聞いたことがない。何か裏がないか、当っておこう。
「――まあ、ザッとこんなところだ」
 と、正木は言った。「後はあんたのイメージで、ふくらませてみてくれ」
「かしこまりました」
 と、弥生は言った。「頑張ります」
「しかし、何度も書き直してもらうことになるぞ。覚悟しておいてくれ」
「はい。承知しています」
 弥生の目は輝いていた。
 そのとき、亜矢子の脇を通って行く数人のグループがあった。
「あれ? ひとみ?」
 と、つい声をかけていた。
「――あ、亜矢子」
 オーディションを手伝った、長谷倉ひとみだったのである。
「打合せ? 頑張ってね」
 と、亜矢子は手を振って見せた。
「うん。ありがとう」
 ひとみは、他のメンバーを急いで追いかけて行った。
 亜矢子は、ちょっと不安になった。
 通って行ったグループが、何だか映画作りのプロたちに見えなかったのだ。
「――おい、亜矢子、どうかしたのか」
 と、正木に言われて、
「いえ、何でもありません」
 と、亜矢子は言った。「じゃ、もうスタッフ、集めてもいいですね」
「もちろんだ! この前のチームでやろう」
 正木は、昨日までとは別人のように活き活きしていた。

(第4話につづく)
※【目次】をご覧ください。

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