『魔王』ブックレビュー/朝樹 卓

文字数 3,916文字

伊坂幸太郎さん『魔王』の初出は2004年。なんと20年近く前です。

ところが、現在読んでみても全く違和感なく「最近書かれたのでは?」と感じてしまう「予言の書」でもあります。

では20代の若者はどう感じるのでしょう?

大学院生・朝樹 卓さんが、『魔王』についてレビューしてくれました!

「空気を読め」と、暗に周りに合わせた行動を取るよう、言下に促された経験が、誰しも一度はあるのではないだろうか。たしかに目に見えずともこの”空気”は読み取ることができる。ネットニュースのコメント欄やSNSのトレンドは、まさに目に見えない空気の擬似的な可視化だ。この空気の存在感はコロナ禍になり二重の意味で重くなった。日々、トピックをチェックし自分の意見をスムーズに推移させることが現代人のマナーで、それをできない人間は時代に適さない遅れた人間だ。そんな意見さえ受容される空気になりつつある。


 一例を挙げれば、開催前はあらゆる側面で問題が多発し、反対の声が多く出たオリンピックも、いざ開催し選手たちがメダルを獲得し出してからは、異を唱える言動が全て憚られるような空気になった。これは否定的な空気を醸造する負のニュースが作り出した空気が、メダル獲得という新鮮な正のニュースで上書きされたからだ。実際に政治家の中には「いざ競技が始まればオリンピックに否定的な空気は一変する」と語っていた人間もいる、という報道もあった。空気は常に新しくセンセーショナルな話題に主導され上書きされていく。

 ではこの空気を作っているのは、どんな存在なのか。

 伊坂幸太郎は『魔王』を通じてその正体を描いている。


『魔王』は2005年に初版発行された伊坂幸太郎の代表作の一つだ。2022年には『マリアビートル』がハリウッドで映画化(『ブレット・トレイン』)し、大ヒットと、世界中で評価が高まる中、この新装版が発売される運びになった。だがそうした伊坂ブーム以上に本作がいま新装版として売り出される意義は大きい。


 おそらくこの新装版のタイミングで『魔王』を知ったほとんどの人は、今作は伊坂幸太郎が書き下ろした新作だと勘違いするだろう。なぜならばこの小説には2023年の日本社会を伊坂幸太郎が、そのまま小説世界に再現させた、と思わずにはいられないクオリティで現在が映し出されているからだ。


 18年前といえば2009年の政権交代や東日本大震災、ロシア・ウクライナ危機、元首相の銃撃事件も起こる前である。しかし読んでいる最中に思い起こされるのは上記のように、この18年間に社会で起きた変換点となる出来事の数々だ。そのため今作は伊坂幸太郎による「予言書」だと言われることも多い。だが実態としては「予言」よりも「予期」や「予測」の方が実態に近いと感じる。つまり本作が的中させた多くの未来は、偶然の一致ではなく、当然の結果だったのではないだろうか。


 本作はモチーフにファシズムを扱っているが、テーマとして重要なのはファシズムそのものではなく、ファシズムへと知らず知らずのうちに向かっていく社会の空気だ。『魔王』の中で伊坂幸太郎は日本社会の本質を突いている。停滞した社会の空気を動かすには、強い指導者が国民の矛先を一点に向けさせればいい。物語の持つ普遍性と時代が変わっても本質の変わらない日本社会、この二つが『魔王』を「予言書」たらしめる要因である。『魔王』という作品は、伊坂幸太郎という作家の洞察力の深さと、長く変わることのない社会への絶望を一度に感じられる作品だ。後者が本質からの変革を遂げない限り、これから先も『魔王』は「予言書」として機能し続けるだろう。


 内容についても詳しく触れていきたい。

『魔王』は表題作とその続編となる『呼吸』の対照的な中編二作からなる。

表題作である『魔王』は非常に切実な物語だ。


 独裁者・ムッソリーニにも似た資質を持つ政治家・犬養と、その躍進ととも変化の兆しを見せる社会。この社会の異常な空気に危機感を覚えた安藤は超能力「腹話術」を武器に犬養との孤独な戦いに挑んでいく。

このあらすじのみを読むと分かりやすく能力バトル漫画のような展開を期待するが、本作の方向性は全く異なる。じわじわとファシズムへと向かう社会と、それに気付かない周囲。ただ一人居心地の悪さを感じる主人公にひどく感情移入してしまうのは、これが決して小説の中だけの話ではないからだろう。


 まず安藤の超能力である「腹話術」は、自分が考えた言葉を他人に話させる、というものだ。超能力という割には、直接的な威力はなく、むしろ実際に戦おうと思ったら使い道に困るような物だ。だが安藤にはもう一つの武器がある。それは「考察」だ。作中で「考えろ!考えろ!マクガイバー」という特徴的なセリフがある。これは『冒険野郎マクガイバー』という80年代の海外ドラマに由来するもので、安藤がドラマの主人公マクガイバーのように考えることで窮地を切り抜けようと、何度も唱えられるセリフだ。安藤は常に物事を考察して、弟や友人からは杞憂を笑われることもある。しかし社会の空気の危険性に周りでただ一人気付くことができたのも、「考察」がもたらした結果だ。どちらも武器、というにはいささか貧弱だ。それでも安藤は「でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば世界は変わる」という信条を胸に「腹話術」と「考察」という武器を信じて、止められない空気の流れに一石投じようとする。


「腹話術」くらいの超能力は、誰しも一つは持ちあわせているのではないだろうか。

たとえば、他の人より広く周りを気にすることができる人や、好きなことに没頭して何時間も集中できる人なんかは、「腹話術」と比べても、あまり遜色ない超能力を持っていると私は思う。そしてもう一つの「考察」は誰しも意識すればすぐに実践可能な行為だ。

だからこそ、現在で通用する普遍性と共にメッセージが強く問いかけてくる。


「考えろ。そして、でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけ。そうすれば世界は変わる」と。


『呼吸』は『魔王』の続編的位置付けで、安藤の弟である潤也と彼女の詩織が主人公となる。

安藤(兄)とは対照的に潤也たちは戦う道でなく、社会そのものから離れる道を選ぶ。憲法改正のため、国民投票が起ころうとしている時勢を背景に、東京から伊坂作品でお馴染みの仙台へと移住した二人の生活が描かれる。潤也と詩織はテレビや新聞、ネットも見ず社会からの情報を遮断した生活を送る。


 潤也も安藤(兄)と同じく超能力を得るが、その能力を国民投票へと向かう社会との対決に使おうとはしない。兄とは違う方法で社会を良い方向に変えようと模索する。

『呼吸』では

「自分の生活から遠い問題については、誰も考えない。考える余裕もない。考えたつもりになっているだけだ。(『魔王』p.313)」

 という詩織のセリフに象徴されるように、安藤(兄)とは対照的な現実が描かれる。むしろ詩織のような人の方が一般的ではないだろうか。誰しもが安藤(兄)のように考え続けることは難しい。日々の生活に追われて精一杯だからだ。ブラック企業で働いている人間には、社会や政治の動向に考えを巡らせている余裕はない。若年層の貧困が社会問題になっている現在、この現実は一層重くのしかかる。作中でも詩織は国民投票へと足を運び、一瞬迷った後に丸をつける。


 考える人間以外は社会の空気に飲まれるしかないのか。それも違うだろう。作中、詩織の友人である蜜世が語るクラレッタのスカートにまつわる話は、詩織タイプの人間への道を示しているムッソリーニと共に処刑された恋人のクラレッタ。広場で吊るされた彼女の死体のスカートがめくられた時、民衆は興奮したけれど、一人だけブーイングを受けながらスカートを直した人がいた。


「スカートがめくれてるのくらいは直してあげられるような、まあ、それは無理でも、スカートを直してあげたい、と思うことくらいはできる人間ではいたいなって、思うんだよね(『魔王』p.321)」


 超能力がなくても、考えることが困難でも、スカートぐらいは直してあげる、直してあげたいと思える人間になりたい、という切実な思いは、人間が最後の最後にかろうじて持っていられる優しさであり、この世で最も高潔な感情だと思う。


『魔王』と『呼吸』は読んだ人間に、安藤(兄)のように考えぬいて、自分を信じて対決に向かう方法と、それが難しければせめてスカートを直そうと思える人間になる方法の、二つの選択肢を与えてくれる。一人の人間が空気を変えることは出来ない。社会だけでない会社のその中のもっと小さな部内ですら絶望する。一人だけではそれこそ腹話術で、他人に自分の意見を言わせない限り、空気を変えるのは難しい。『魔王』を読み全ての人が、各々の方法で自分一人でも抵抗しようと思えれば、どんな独裁政権でも倒せるかも知れない。その時は初めて本書が予言書としての役割を終える時なのではないだろうか。


 潤也たちのその後は『魔王』の世界から50年後を描く『モダンタイムス』で明かされることになる。本書を手に取ったあとぜひ続けて読んでほしい。

朝樹 卓

慶應義塾大学大学院修士 趣味はプログラミング・ボードゲーム・ゲーム音楽など
「これはもしかして」
安藤は、自分が念じた言葉を相手が必ず口に出すと偶然気づく。
「腹話術」と名付けた能力を携えて、彼は一人の政治家に近づいていく。
同居する弟の潤也は兄が迫りつつある不穏そのものを直観する。
未来にあるのは青空なのか、荒野なのか。
世の中の流れに立ち向かおうとした兄弟の物語。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色