「呪ったろ!」で妻子も孫も殺す。戦争と死刑と去勢が大好き暴君。

文字数 2,334文字

西方より兵士は帰らず、馬が来た。「男」を奪われ、偉大なる史書を成す。

《漢》武帝 (B.C.157~B.C.87)

前漢の第7代皇帝、武帝(劉徹)の治世は前漢の最盛期といわれる。しかし、武帝は紛うことなき暴君だ。


武帝の先帝、景帝は子だくさんで、武帝は10番目の男子。しかし、宮廷内の女性同士の政争の結果、武帝に白羽の矢が立てられ、皇太子となった。


ちなみに、武帝の異母兄に中山王・劉勝という人物がいる。『三国志』の英雄、劉備は、この劉勝の子孫と称していた。劉勝は多淫で有名で、50人の子供がいたという。だから、300年も後に生まれた劉備がこの劉勝の子孫であったとしても不思議はない。仮に子孫でなかったとしても、特に問題はない


閑話休題。

景帝の死後、武帝は16歳で皇帝に即位する。当初は祖母である竇皇后太后が実権を握っていた。


祖母が死んで実権を握ると、武帝は盛んに外征を行うようになる。高祖・劉邦が大敗して以来、頭が上がらなかった匈奴を撃破し、西域に領土を広げた。東は衛氏朝鮮を打ち破って朝鮮南部まで支配下に置き、南は越南(現在のベトナム)にまで攻め込む。漢の最大版図を築き、ローマをはるかに上回る世界最大の帝国となった。


しかし、これらの領土は結局、武帝の死後にはすべて失われている。幾十万の命と莫大な費用に値する外征だったと言えるだろうか。特に「汗血馬」(一日に千里を走ると言われる大型の馬。アラブ種の馬とされる)を求めて中央アジアの大宛(フェルガナ)に遠征したのは、いかがなものか。


大宛が多くの汗血馬を飼育していると聞いた武帝は、「千金をあげるから馬を寄越せ」と使者を送ったが、使者は殺害されてしまう。怒った武帝は、遠征を決意。最初の遠征は失敗に終わったが、次は6万の兵士を揃えて再遠征を命じ、大宛を屈服させた。遠征軍は3千頭の馬を連れて帰ってくる。


武帝は歓喜して「西の果てから天馬が来たよ」なんて歌を作っているが、この遠征から戻って来られた兵士は、1万に満たなかったという。匈奴の蒙古馬に勝る良馬を手に入れたかったのだろうが、この遠征が行われたのは、匈奴を打ち破った後のことなのだ。


武帝は、秦の始皇帝同様、不老長寿の仙薬を求めたり、大規模な建設事業を行った。「封禅の儀」孫晧の回を参照)を行って悦に入っていたあたりも始皇帝に似ている。度重なる遠征や建設事業で、当然、国の財政は傾いてくる。


武帝は財政難を解決するため、塩や鉄を専売化。また「平準法」や「均輸法」なる制度をつくった。建前は物価の安定が目的だったが、実態は国が穀物などを強制的に徴収して高い値段で売りつけることに近く、民を苦しめた。


武帝は、自分の気に食わないことを言う家臣をすぐに処刑した。また、将軍たちに敗北を許さず、やむを得ず敵に下った者でも、その家族を皆殺しにしてしまう。


中島敦の小説でも有名な李陵は、6倍する匈奴軍相手に奮戦するもついに降伏。だが、武帝はこれを裏切り者としてその家族を殺した。武帝におもねる家臣ばかりの中で、「史記」の編者である司馬遷は一人、李陵の無実を訴えた。しかし、武帝は司馬遷を投獄し、後に宮刑(男子を去勢する刑罰)にしている。


また、晩年の武帝は巫蠱の術」を極端に恐れるようになる。巫蠱(ふこ)とは、呪いたい相手の名前を書いた人形を地下に埋め、呪殺するというような呪術。これを行うのは大罪とされた。


古代のことゆえ迷信深いのは致し方がない。しかし「呪い」が皇帝の弱点であると知れば、自らの保身や政敵を追い落とすために「あいつは巫蠱してますよ。陛下を呪ってますよ」と嘘の告発をする者が現れるようになる。


衛皇后が「巫蠱」によって武帝を呪っていると告発するものがあり、庭を調べさせるとはたして人形が出てきた。事前に人形を埋めておけばいいのだから、証拠の捏造など簡単である。しかし、武帝はこれを信じて衛皇后と二人の娘(当然、武帝自身の娘である)を自殺させた


武帝は江充という男に、巫蠱を行っているものがいないか探索させていた。この江充は、おもねりと讒言で武帝に取り入り、のし上がってきたような人物。取り締まりの実績をあげ、さらに武帝に気に入られようと、江充は巫蠱の証拠を捏造し、被疑者を拷問にかけて自白させるという手法で多く罪をでっちあげた。ついには民の間でも告発しあうようになり、結果、数万人が処刑されたという。


この江充は、以前、つまらぬことで皇太子の劉拠を告発したことがあった。武帝が死ねば、その劉拠が皇帝となるわけで、そうなれば自分の身が危ない。江充は、例のごとく証拠を捏造し劉拠が武帝を呪い殺そうとしていると告発。折り悪く、ちょうど病に臥せっていた武帝はこれを信じ、劉拠の捕縛を命じた。


なにせ劉拠の母親は同じく巫蠱を行ったとして自殺させられた衛皇后である。もはや弁明が受け入れられるはずもないことを知っていた劉拠は、江充を殺して反乱を起こす。この反乱は市街戦に発展し、数万の市民が犠牲になったという。結局、反乱は鎮圧され、追い詰められた劉拠は子供らとともに首を吊って自殺した。


その後、劉拠の無実を知った武帝は深く後悔。残った江充の一族を皆殺しにした。手遅れである。そして、無惨に死んだ我が子を思い、「思子宮」なる宮殿を造営。手遅れの上に、また民を酷使したわけだ。


当時の戸籍によれば、武帝の治世に漢の人口は半減したという。暴政の被害は暴虎に勝るが、貧苦に耐え切れず土地を離れた流民が増えたことも理由の一つだろう。武帝の治世の過酷さがわかる。

関連書籍

『漢の武帝』吉川幸次郎/著(岩波新書)

関連書籍

『李陵・山月記』中島敦/著(新潮文庫)

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