「本は必需品」/安藤祐介

文字数 2,299文字

構想3年、印刷会社全面協力のもと、奥付に載らない本造りの裏方たちを描く、安藤祐介会心のお仕事小説『本のエンドロール』がついに文庫化! 文庫化に合わせて書下ろされた特別掌編「本は必需品」より、一部を試し読み! 『本のエンドロール』の豊澄印刷の3年後を描きます!

文庫版特別掌編「本は必需品」について/安藤祐介


初めはこの掌編を短期間で、かつコロナ禍を踏まえた形で書けるか不安でしたが、
今となってはチャレンジして本当に良かったと思います。
豊澄印刷の3年後を描く素晴らしい機会を頂き、ありがとうございます。
きっとこの特別掌編が文庫読者の皆様の心に届くと信じております。

特別掌編 「本は必需品」


 二日ぶりに出社した浦本学は、三階の営業部フロアで原稿整理をしていた。

 正午前の営業第二部の島には、浦本の他に誰もいない。仲井戸は外出中で、毛利部長は在宅勤務。外は陽射しが強く、二月中旬にしては驚くほど暖かいのに、人気の少ないフロアは心なしか肌寒く感じる。

 印刷業界でもテレワークが推奨され、豊澄印刷も例外ではない。しかし営業部はほぼ毎日のようにゲラの戻しがあり、現物を確認しなければならないため、浦本も仲井戸も在宅勤務は週に一日程度が精一杯だ。

 もうすぐ正午になる。作業に区切りをつけ、昼食を取ることにした。

 弁当を持って二階のフロアへ下り、データ制作部の横を通り抜ける。DTPオペレーターの出社率は通常時の六割ぐらいだ。作業に慣れているベテランのオペレーターは交代制で可能な限り在宅勤務をする一方、不慣れな新人は上司や周りの先輩社員に随時相談し、チェックを受けながら作業を進めるため、出社することが多い。


 休憩室の入口に備え付けられたアルコールスプレーで手指を消毒して中へ入ると、先客が一人座っていた。アクリル板で仕切られたカウンターの窓際の席で、福原笑美がサンドイッチを食べながら単行本に目を落としている。

 邪魔になると悪いので、浦本は二つ隣の席に座り、小さく「おつかれさまです」と声を掛けた。それから弁当の包みを開け、マスクを外す。

「ご無沙汰しております」

 福原が単行本から目を離して応答した。

「あれ、そんなに久しぶりだっけ」

「浦本さんとはオンラインの打合わせで三日前にお会いしましたが、直接顔を合わせるのは一週間ぶりですよ」

 言われてみれば昨日は浦本が久々の在宅勤務、その前の二日間は福原が在宅勤務だった。

 サンドイッチを食べ終えた福原は、隣の椅子に置いてあるトートバッグを開けてマスクケースを取り出す。ケースの中から新しいマスクを一枚引き抜いて、それから丁寧に広げて着けた。

「そのマスクケース、使ってるんだね」

「重宝しています。マスクは今や必需品ですから」

 福原のマスクケースには、豊澄印刷のマスコットキャラクター『とよ君』が印刷されている。三年前にノベルティグッズとして作ったものだ。当時はまさか世界がこのような災禍に見舞われるなど誰も想像していなかった。

「マスクは必需品、か……」

 必需品という言葉から、浦本はある人に聞いた話を思い出していた。

「本はどうだろう」

「私にとって、幼い頃から本は食べ物と同じぐらいの必需品ですが」

「おっと、福原さんには愚問でした」

 世の中が大きく変わってしまうその一年以上前、印刷業界の展示会でゲスト講演に立った東北地方の男性書店員の言葉が、今も浦本の胸に残っている。


〈本は必需品なんです〉


 先の東日本大震災の後、避難所で生活する人たちは食べる物や着る物とは別に、本を渇望した。地震で滅茶苦茶になった店から本を段ボールに詰めて届けると、多くの人に喜ばれ、あっという間になくなったという。

 本は必需品。決して講演向けに誇張した話でもなく、本を過大評価した訳でもないことは、彼の朴訥で真剣な語り口から明確に伝わってきた。

 浦本は弁当を食べながら、福原にその時のことを語った。

「あの書店員さんの話が今になって、実感をもって蘇ってくるよ」

「本は不急ではあっても、不要ではない。すなわちそういうことですね」

 非常時には多くの物事が「不要不急」の基準によって振り分けられる。

 その度に、娯楽や文化芸術は存在意義を問われているような気がする。ウイルスが世界を脅かす中、SNSでは「いま小説など書いている場合なのだろうか」と自問して揺れる作家の呟きも目にした。


 本を読まなくても、人は生きてはゆける。やはり生活のためには衣食住が最優先だ。

 昨年四月から五月の緊急事態宣言で、浦本はそのことを痛感した。スーパーに食料品や生活用品を求める人が殺到して欠品が相次ぐ一方、多くの書店は臨時休業の措置を取った。

「書店が休業したあの時は、耐え難いぐらいショックでした」

「本当に……読者としても、印刷会社の社員としても衝撃的だったなあ」

 出版社各社は新刊の刊行時期を遅らせ、豊澄印刷への発注もぱったりと止まった。

「このままでは会社が無くなるんじゃないかと、本気で思ったよ」

「それは完全に浦本さんの杞憂でしたね。過去の歴史でも、どんな非常事態であれ、本は読まれ続けていますから。本が読まれ続ける限り豊澄印刷は無くなりません」

「いやあ、福原さんには敵わないや」

 今の仕事は天職と言い切るこの人は、やはり強い。本というものを信じ切っている。

 福原が信じた通り、緊急事態宣言下の緊迫した日々の中でも、本は売れ続けていた。書店が休業になり、新刊の発売延期が相次ぐ中、多くの人がネット書店や電子書籍で既刊の本を買い求めたのだ。


           ※続きは講談社文庫『本のエンドロール』特別掌編でお楽しみください!

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