雪の上を引きずられる生首。江戸の真ん中での壮絶な斬撃テロ。

文字数 1,683文字

「われは知る テロリストの かなしき心を」(石川啄木)。テロは民主主義にとっての脅威である。しかし、暗殺が歴史のうねりを加速させた例は数多い。そんな暗殺事件から世界の歴史を俯瞰する。(年齢は事件当時)
朱く染まった雪に舞い散る耳朶、手指、腕。維新の号砲テロ事件。

井伊直弼暗殺事件〈桜門外の変〉1860年

3月3日、この日、江戸は早朝から大雪が降っていた。

安政の大獄を断行し、攘夷派の恨みを買っていた大老・井伊直弼(44)の行列が桜田門の橋に差し掛かった時、一人の男が現れる。


訴人のように見えたその男は、いきなり刀を抜くと行列の先頭に襲い掛かった。井伊の供廻りの者たちは、一斉にそこに駆け寄る。すると、一発の銃声が響き渡り、それを合図に大名駕籠見物を装っていた襲撃者たちが、一気に駕籠に向かって殺到したのである。


井伊の行列は、馬夫なども含めれば約60人。一方で、攘夷派襲撃者たちは16人だった。しかし、井伊にとって不運だったのは、雪除けのため、供廻りの者たちが合羽を着たうえ、刀に柄袋をかぶせており、後れをとったことだ。


駕籠かきは襲撃に驚いて逃げ散り、井伊の乗った駕籠は放置された。

それでも、駕籠脇を守っていた二刀流の使い手である河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱いで柄袋を外す。襲撃者の一人を斬り倒し、数名に重傷を負わせたがそこで力尽きた。


襲撃者たちは刀で何度も駕籠を貫く。井伊は居合の名人だったが、襲撃の合図となった銃弾が彼の太腿から腰部を貫き、動けなくなっていたと言われる。


薩摩藩士・有村次左衛門は髷をつかんで井伊の体を引きずり出し、猿叫と言われる薩摩示現流の甲高い気合とともに、その首に刀を振り落とす。首は一撃では落ちず、物を蹴るような音が三度したのちにやっと落ちた。


有村は首を刀の切先に刺して掲げ、襲撃者たちは鬨の声を上げる。だが、その声を聞き、斬られて意識を失っていた彦根藩士・小河原秀之丞が目を覚まし、現場を引き上げようとする有村の後頭部に一撃を浴びせた。メッタ刺しされる小河原。有村も井伊の首を引きずってしばらく歩いたが、後頭部の傷は深く、もはやこれまでと若年寄・遠藤但馬守邸前で切腹を試みる。


しかし、重傷を負った身で手元はおぼつかず、うまく切腹できない。次第に集まったきた見物人に介錯を頼んだが、みな尻込みしたという。

「切腹の際、水を飲んでいると速やかに死ぬことができる」という教えがあったので、苦悶のうちに周囲の雪を食らっているところを、遠藤家の者に井伊の首とともに収容され、しばらくして死亡した。


「真剣勝負の時は(切られまいと腰が引けて)間合いが開くと聞いていたが、そんなことはなく、刃先(刀身の中ごろ)や鍔元で競り合っていた」。

現場を目撃した杵築藩の藩士は戦闘の様子をこう表現している。


激闘の後、現場には重傷者の上げる「残念なり、残念なり」という呻き声が響き、雪の上には斬り落とされた多くの指や耳朶、腕などが散乱していた。彦根藩士たちの多くが柄袋のために刀を抜けず、敵の刀身を素手や鞘で受けざるを得なかったためであろう。


井伊の側は直弼以外に8人が死亡、13人が負傷、4人がその場から出奔(うち2人はしばらくして戻った)した。主君を守れなかった生存者たちへの処分は過酷なもので、死者の家には相続を許したが、重傷者は減知のうえ幽閉。軽傷者は切腹。無傷のものは駕籠かきに至るまで斬首のうえ、家名断絶となった。


襲撃者の側も、1名がその場で死亡、4名は重傷を負ったために自刃。その他の者も自訴したり捕えられた末に斬首された。明治まで生きたのは2人だけだった。


江戸城の目前で大老が惨殺されるという事態に、幕府の権威は失墜。これを機に尊王攘夷運動は一気に激化し、日本は回天の時を迎える

関連書籍

『桜田門外ノ変』吉村昭/著(新潮文庫)
関連書籍

『井伊直弼の首 幕末バトルロワイヤル』野口武彦/著(新潮新書)


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