『火蛾』解説/佳多山大地(書評家)

文字数 2,369文字

メフィスト賞受賞作にして、長い間(23年!)文庫化されなかったため、メフィスト賞ファンの間で長らく「超入手困難本」として語り継がれてきた『火蛾』。なんと23年の時を経て、ついに文庫化です!

さて、そんな『火蛾』とはどんな作品なのか、はたまた23年の沈黙の理由とは──。書評家・佳多山大地さんによる文庫版所収の解説の一部を特別掲載します!

 フィリップ・ゲダラが書いているが、日本の古泉迦十作の小説『火蛾』は、「訳者の興味をそらすことのまれなイスラームの寓意詩と、当然のごとくジョン・H・ワトソンをしのいで、孤絶のさまも申し分のない《山》でくり広げられる死の恐怖を完璧に描く探偵小説との、少々ぎくしゃくした組合わせである」という。彼以前にもセシル・ロバーツ氏は、古泉本に見られる「ウイルキー・コリンズと12世紀のペルシャの有名な詩人、ファリード・アッタールとの二重の、信じがたい結合」を批判した。──


*   *   *


 まるで夢を見ているようだ。古泉迦十の手になる長編『火蛾』(2000年9月、講談社ノベルス初刊)が、発表から23年近い時を経て文庫化されるなんて。


 物語の舞台は中近東、時は西暦1100年代後半とおぼしい。ペルシア出身の詩人であるファリードは、とある穹廬の中に座している。神の友たる聖者たちの逸話伝承を収集している彼は、伝説の信仰者ウワイス・カラニーの教派に連なるという男のもとを訪ねたのだ。いかにも神秘家然としたその男が語る《物語》の主人公は、イスラーム神秘主義を極めんとする若き行者アリー。聖地メッカを目指す旅の途中、決して生身の姿は見せない導師ハラカーニーの住まう《山》の頂にアリーが足を踏み入れるやいなや、導師のほかの弟子たちが次々と不可解な死に見舞われて……。


 われわれ日本人一般には馴染みの薄いイスラーム神秘主義思想を題材に目眩く謎解きの物語を構築した古泉迦十は、先の千世紀の変わり目に登場した新人作家のなかでも殊に話題の的となった。初刊ノベルス版のカバー袖に記されていたプロフィールは、「1975年生まれ。本書で第17回メフィスト賞を受賞しデビュー」とだけ。いったいこのような誰も読んだことがない推理小説を書き上げた、当年(2000年)取ってまだ25の恐るべき若者の正体は?


 無名の新人のデビュー作は、2000年末の各種ミステリーランキングにおいても俄然注目を集めた。「本格ミステリ・ベスト10」では惜しくも第2位だったが、第1位の泡坂妻夫『奇術探偵曾我佳城全集』が大ベテランの20年がかりの仕事だったことを考慮すれば、実質この年に発表された国産本格ミステリーのなかで最高の評価を得たと断じていいだろう。広義のミステリーを対象とする国内ランキングでも、「週刊文春ミステリーベスト10」で第10位、「このミステリーがすごい!」でも第14位と健闘した。


 ──しかし。かくも好評を呼んだ『火蛾』が、発表から23年目の今まで文庫化されずにきたことには、大きく二つの理由がある。理由のひとつは、残念ながら、初刊ノベルス版が充分な商業的成功をおさめたとは言えないこと。今回の解説依頼が舞い込んだとき講談社文庫編集部の担当者に尋ねたところ、世に出回ったノベルス版『火蛾』は2001年1月の第2刷までで、初刷と合わせても2万部に止まったと知る。それでも決して悪くない数字に思えるが、業界的な目安である〝3年後に文庫化〟のゴーサインは見送られたということだ。


 そして二つ目の、より大きな理由は、作者の古泉が2作目を書かなかったことである。出生地も性別も学歴も職業も不明の作者、古泉迦十。この文庫版のカバー袖や奥付に記されてある彼(彼女?)のプロフィールを見よ。プライベートはもとより、作家としての情報量は微塵も増えることなく、とうとう23年の月日が経とうとしている。そう、悪くいえば一発屋。新作を書かない作家に、出版社が冷たいのは致し方ない。


 そんなこんなで〝幻の名作〟と化した『火蛾』は、幸い2017年1月に電子書籍化されてはいるけれど、どうしても紙の本で読みたい向きは2023年3月現在、だいたい五千円前後の値段がついた古書を買い求めるほかなかった。ノベルス版の定価は880円(税別)だったので、およそ5、6倍が相場だ。まこと今回の文庫化は、この類い稀なミステリー長編の存在があらためて世に広告される好機であり、とりわけ年若いミステリーファンがどう反応してくれるか楽しみだ。


 ところで、この解説の冒頭で示した一文について、遅まきながら説明しないといけないな。《物語》の聞き手として登場する詩人ファリードの名を、年来のミステリーファンはJ・L・ボルヘスの短編「アル・ムターシムを求めて」(岩波文庫『伝奇集』所収、鼓直訳)のなかで目にしているはずだ。実際は存在しない書物『アル・ムターシムを求めて』の書評という形態を取った、知的ユーモアと幻想味にあふれた逸品……。わが身のほどを知らず、ボルヘスの〝書評の幻〟の冒頭をパロディーしてみた次第。


※この続きは『火蛾』(講談社文庫)でお読みください!

12世紀の中東。

聖者たちの伝記録編纂を志す詩人のファリードは、伝説の聖者の教派につらなるという男を訪ねる。
男が語ったのは、アリーのという若き行者の《物語》──姿を顕さぬ導師と四人の修行者だけが住まう《山》の、閉ざされた穹盧(きゅうろ)の中で起きた連続殺人だった!
未だかつて誰も目にしたことのない鮮麗な本格世界を展開する、第17回メフィスト賞受賞作がついに文庫化。

古泉迦十(こいずみ・かじゅう)

1975年生まれ。本書で第17回メフィスト賞を受賞。星海社より次回作『崑崙奴』出版予定。

おまけ:講談社ノベルス版のカバー(現在は発売されていません)

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