『花の下にて春死なむ』北森鴻 新装版刊行記念・冒頭無料公開! 2
文字数 1,687文字
自由律句の結社『紫 雲 () 律 () 』の同人である片岡草魚こと、片岡正 () はその名をごく一部の同好者に知られただけで、この世を去った。彼の死を発見したのは、片岡が住んでいた埼玉県新 () 座 () 市にある小さな木造アパートの管理人である。四月四日のことだった。月末払いの家賃が遅れているのを不審に思い、部屋を覗 () いた管理人が、布団にくるまったまま冷たくなっている片岡草魚を発見した。警察への通報、変死者としての司法解剖の結果は、極めて事件性の乏しいものだった。
死亡推定時刻は四月二日の未明。死因は熱性疾患による衰弱死と診断書には書かれた。三月の後半から四月の初頭にかけて、関東地方は断続的に寒波に見舞われている。遺体の肺の組織には、かなり広い範囲で炎症の痕跡が見られたそうだ。暖房設備ひとつない部屋で布団にくるまる以外になかった片岡は、熱病にうなされながら眠るように死んだにちがいない。
死因はそれだけではなかった。解剖にあたった医師が「これではどこも腐りようがない」と舌を巻いたほどに、その内臓には食物の残 () 滓 () がなかった。推定で約五日、片岡草魚は食物を口にしていなかった。病 () と劣悪な環境が、ひとりの老俳人に静かな死を投げて寄こしたのだ。
特に犯罪の匂いのない状況のもと、彼の遺体はすぐにでも血縁者の所に帰るかと思われた。
問題はそこで起こった。片岡草魚の身元、血縁を示すものが、何ひとつ発見されなかったのだ。新座市の住民票には彼の記録はいっさいなかった。不動産屋の記録によれば、片岡の入居は五年前。本来移されるべき住民票が空白のまま、片岡草魚は五年間も幻の住人であったことになる。
「もしこれが病死ではなく事故死であったら、遺族はすぐに出てくるものなのですよ。補償の問題がありますからね」
部屋から見つかった『紫雲律』の発行誌をつてに、長峰の所にやって来た警察官が言ったそうだ。だが、グループの仲間をあたってみても、誰も片岡草魚の本籍地を知る者はいなかった。彼が生活の糧 () を得るためにやっていた専門書の校正、その出版社にも手掛りは皆無だった。残された履歴書の本籍地欄にあった『広島県尾 () 道 () 市×××七─十四─六』という住所に、該当する人物はいなかったからだ。こうなると「片岡正」という名前さえ、本名かどうか確認することは難しい。警察官は「犯罪歴もナシ、事件性もナシ。これでは調べようがありませんな」と苦笑しながら帰ったそうだ。言葉の最後に「珍しくはないんですよ。肉体を持った幽霊なんてのは」そう付け加えたと、後で長峰が皆に話した。
このままでは片岡は無縁仏として葬られることになる。特に犯罪に関係がないようであれば、結社の手で葬儀をあげたいのだが、という長峰の申し出は、すぐに警察に認められた。面倒な事務手続き、必要書類について地元の新座署は極めて協力的に対応してくれた。
「彼らにとっても渡りに舟の申し出だったのだろう」
これもまた、後に長峰が言った言葉である。
飯島七緒は、同人の連絡によって片岡草魚の死を知った。その知らせに驚かなかったと言えば噓になるが、冷静に事を見守る自分がいたこともまちがいない。あきらかに六十の峠をいくつか越していたであろう彼の年齢を考えれば、死はさほど遠くない所で足踏みをしていただろう。ある日突然に「そろそろいいかね」としたり顔でやって来たとしても、
──なんの不思議もない。
ことである。幼い時分に両親を失い、ごく限られた親族以外のつき合いを意図的に避け続けてきた七緒には、死は決して見知らぬ他人ではなかった。自分にとっても、第三者にとっても、である。
斎場から最寄りの駅へと向かう帰りの車中で、長峰がダッシュボードから黒い手帳を取り出した。
「これはあなたが持っているのが一番ふさわしいかもしれないね」
「……?」
やや強引に、長峰は手帳を押しつけて、そして抑え気味に、
「草魚さんの枕元にあった句帳だよ」
と言った。
死亡推定時刻は四月二日の未明。死因は熱性疾患による衰弱死と診断書には書かれた。三月の後半から四月の初頭にかけて、関東地方は断続的に寒波に見舞われている。遺体の肺の組織には、かなり広い範囲で炎症の痕跡が見られたそうだ。暖房設備ひとつない部屋で布団にくるまる以外になかった片岡は、熱病にうなされながら眠るように死んだにちがいない。
死因はそれだけではなかった。解剖にあたった医師が「これではどこも腐りようがない」と舌を巻いたほどに、その内臓には食物の
特に犯罪の匂いのない状況のもと、彼の遺体はすぐにでも血縁者の所に帰るかと思われた。
問題はそこで起こった。片岡草魚の身元、血縁を示すものが、何ひとつ発見されなかったのだ。新座市の住民票には彼の記録はいっさいなかった。不動産屋の記録によれば、片岡の入居は五年前。本来移されるべき住民票が空白のまま、片岡草魚は五年間も幻の住人であったことになる。
「もしこれが病死ではなく事故死であったら、遺族はすぐに出てくるものなのですよ。補償の問題がありますからね」
部屋から見つかった『紫雲律』の発行誌をつてに、長峰の所にやって来た警察官が言ったそうだ。だが、グループの仲間をあたってみても、誰も片岡草魚の本籍地を知る者はいなかった。彼が生活の
このままでは片岡は無縁仏として葬られることになる。特に犯罪に関係がないようであれば、結社の手で葬儀をあげたいのだが、という長峰の申し出は、すぐに警察に認められた。面倒な事務手続き、必要書類について地元の新座署は極めて協力的に対応してくれた。
「彼らにとっても渡りに舟の申し出だったのだろう」
これもまた、後に長峰が言った言葉である。
飯島七緒は、同人の連絡によって片岡草魚の死を知った。その知らせに驚かなかったと言えば噓になるが、冷静に事を見守る自分がいたこともまちがいない。あきらかに六十の峠をいくつか越していたであろう彼の年齢を考えれば、死はさほど遠くない所で足踏みをしていただろう。ある日突然に「そろそろいいかね」としたり顔でやって来たとしても、
──なんの不思議もない。
ことである。幼い時分に両親を失い、ごく限られた親族以外のつき合いを意図的に避け続けてきた七緒には、死は決して見知らぬ他人ではなかった。自分にとっても、第三者にとっても、である。
斎場から最寄りの駅へと向かう帰りの車中で、長峰がダッシュボードから黒い手帳を取り出した。
「これはあなたが持っているのが一番ふさわしいかもしれないね」
「……?」
やや強引に、長峰は手帳を押しつけて、そして抑え気味に、
「草魚さんの枕元にあった句帳だよ」
と言った。