第11回 薩摩藩の琉球侵攻ルートに重なる鹿児島と那覇を結ぶ海古道

文字数 1,291文字

 沖縄古道の旅への道筋には、東南アジアでの琉球王朝、そして那覇の遺跡歩きという伏線があった。日本から沖縄に向かうのではなく、東南アジアから北進するというコース。東南アジアをフィールドに旅をする機会が多い僕にしたら平坦な道筋だったが、日本と沖縄の間が空白だった。現実的なコースは、鹿児島と那覇を結ぶ海の古道である。

 当然、フェリーということになる。「日本」「フェリー」といった言葉をインターネットで検索すると、日本長距離フェリー協会のホームページがあった。しかし、そこには鹿児島と那覇を結ぶフェリーがない。同協会に訊いてみた。

「距離が800キロ以上で、道路のバイパス的意味合いをもつ航路がうちの協会の対象なんです」

 調べると鹿児島から那覇までの航路は735キロ。途中にあるのは島ばかりで道はない。

 長距離フェリーという枠組みには入らないが、「マルエーフェリー」という船会社が、鹿児島と那覇を結ぶフェリーを運航していた。その航路を見てみた。奄美大島、徳之島、沖永良部島……。歴史書で目にした航路と重なった。1609年の薩摩藩による琉球侵攻である。

 薩摩藩の船団が琉球に侵攻したルートをなぞるように、いまのフェリーも航行していたのだ。

 しかし琉球侵攻は、侵攻と呼べるほどのものではなかった。戦闘らしい戦いはほとんどなく、薩摩藩は首里城に辿り着いている。

 それは、戦国時代という長くつづいた戦乱の時代の戦後処理のような侵攻だった。

 戦国時代が終わった。そこに残ったのは膨大な戦力と疲弊した経済だった。それを打破するために、薩摩藩は琉球に向かう。後ろに控えていたのは江戸幕府だった。

 長くつづいた戦争が終わると、こんな状況が起きることは珍しくない。


 しかしそこで浮きあがってくるのは、琉球の不運だった。琉球王国は、戦国時代、蚊帳の外に置かれていた。領土紛争もないのだから、戦力を増強する必要もなかった。

 薩摩藩は多くの銃器を備えていた。大砲と呼べる武器まで手にしていたという。それに対して、琉球王国は弓が主体だった。そして琉球王朝の兵士のほとんどは、実戦経験がなかったという。記録によると、徳之島では竹やりや丸太で薩摩軍に応戦したらしい。勝てるわけがなかった。

 琉球王国はあっという間に薩摩藩に制圧されてしまう。

 沖縄から東南アジアへつづく一帯の貿易で琉球王国は栄える。そこには商売の丁々発止はあったが、戦闘はなかった。

 本土とかかわった途端に、沖縄は戦火に巻き込まれていく。それはやがて太平洋戦争につながっていく。そのスタートが琉球侵攻だった。

下川裕治(しもかわ ゆうじ)

1954年、長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『シニアひとり旅 ロシアから東欧・南欧へ』(平凡社新書)、『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)など著書多数。


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