第2回 再び熊野へ、地図を開き、道の長さにうなだれ歩く
文字数 1,200文字
熊野からいったん東京に戻った。頭から熊野が離れなくなった。3時間ほど熊野古道を歩いた。その程度では……という熊野古道マジックにからめとられた気分だった。
熊野古道を34回も歩いた後白河天皇が残した和歌のなかに、こんな文言がある。
馬にて参れば苦行にならず
空より参らむ羽を賜べ若王子
熊野は歩かなくてはいけなかった。現代風にいえば、フォークグループの「赤い鳥」が歌った『翼をください』の心境である。
たまたまNHKの大河ドラマ『光る君へ』を観た。熊野詣が盛んだった時代のドラマだ。京都に疫病が蔓延するシーンがあった。それを目にしながら、以前、熊野本宮大社があった大斎原の風景を思い出していた。浄土とは歩かなくては出合えないものなのか。
歩くか……。1ヵ月後、僕は再び、紀伊田辺駅前からバスに乗った。歩くのは中辺路(なかへち)である。2日間、歩きつづけなくてはならない。途中にある民宿を予約した。
長い尾根道歩きがつづいた。励みになるのは、500メートルおきに設置された番号道標と王子だった。王子というのは、熊野詣の道をつくった山伏たちが建てた施設だった。王子は神社ということになっているが、当時は神仏混淆である。人々はここで神に手を合わせ、仏教の経を唱えた。
山伏たちは、京都から熊野本宮大社までいくつもの王子をつくった。九十九王子といわれるが、実際はそれより多いという。最初の王子は窪津王子で大阪の天満橋近くにあった。京都を出発した天皇や貴族は船で淀川をくだり、この窪津王子から歩きはじめたのだ。
熊野古道歩きは、この王子を辿る旅でもある。大門王子、十丈王子跡……。僕はそこに着くたびに腰をおろし、水をぐびぐびと飲む。地図を開き、これからの道の長さに首うなだれることになる。
今年の2月に歩いたときに比べると、古道を歩く人が多かった。しかし日本人ではなかった。ほとんどが欧米人で、オーストラリア人が圧倒的だった。彼らと一緒に道を確認し、「あと8キロもある」などと言葉を交わしながら進むことになる。
8時間ほど歩きつづけ、なんとか民宿まで辿り着いた。宿泊客は僕を含めて4人だった。オーストラリア人ふたり、オランダ人ひとり。宿の主人からは、「久々の日本人客ですよ」といわれた。
なんとか1日目は歩くことができた。
2日目は10時間の道のりが待っていた。
下川裕治(しもかわ ゆうじ)
1954年、長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『シニアひとり旅 ロシアから東欧・南欧へ』(平凡社新書)、『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)など著書多数。