『見習医ワトソンの追究』大ボリューム試し読み③

文字数 12,853文字



 有佳子は家入からの電話を切ると、四つん這いになって現場の床を調べている警部補、豊丘怜次に報告した。「被害者、五十嵐夏帆の処置が済んだそうです。命は取り留めたようですね」

「話はできるのか」豊丘はスポーツ刈りの猪首を反らせてこちらを見た。

 盛り上がった背中の肉が邪魔で、窮屈そうに見える。刑事ドラマではしつこい人間にスッポンの何々とあだ名を付けるが、豊丘は「カメ」のほうがぴったりとくる。若いときは柔道の猛者で警察官の大会でその名を轟かせていたと、先輩から聞いた。いまはメタボの五三歳、後進の指導だけでも一苦労だ、と愚痴をこぼしている。ことあるごとに二〇歳違いの有佳子の若さを羨んでいた。

 そのお陰だろうか、豊丘と組んでから三十路の自分を気にしなくなった。たまに子供扱いされることもあるけれど、それは豊丘の娘が昨年嫁ぎ寂しいせいだ、と理解している。ともかく彼は温かく信頼できる上司だ。

「助かったとは言え、まだ意識が戻ってはいないそうです」有佳子は、そう答えながら、ついさっき終わった鑑識作業の痕跡が残っているデスクに腰掛けた。

 机上にはデスクライト、回転式の名刺ホルダー、そして幾つもの化粧品とおぼしき円筒形の容器が並んでいる。有佳子が知っているメーカーの化粧水もあったが、多くは聞いたこともない会社のものか、ラベルに数字しか記されていないものだった。

 手袋の裾を引っ張り整え、数字のみの容器を手にして、蓋を開ける。恐る恐る顔を近づけると、ほのかに植物、有佳子が育てているアロエに似た匂いがした。

「気ぃつけや。鑑識さんの分析を待ってからにしたほうがええ」豊丘が、太った体を左右に揺らし、床に散乱したガラスを踏まないようにして近づいてきた。「ここ、ちょっと変や。妙なもんばっかりあるさかい」と周りを見回す。彼の横幅は有佳子の倍ほどあったが、上背は三、四センチしか変わらない。

「危険な匂いはしませんけど、土の匂いが強くて」顔をそむけ、蓋を閉め容器を元に戻す。「そもそもここは被害者の自宅じゃなくて、仕事場だったようですね」

 夏帆から元夫によるストーカー行為で相談を受けていた大阪府警生活安全部人身安全対策課の担当者に、和歌山に住む父親、五十嵐敏夫から、いま娘が襲われたから助けてくれという通報が入ったのが午後八時五四分だった。

 担当者からの連絡で、すぐ第二方面機動警ら隊が天王寺にある自宅マンションへ向かった。管理人を伴い、解錠して自宅へ入ったが無人で、争った形跡がなかった。その旨を報告すると、もう一つ仕事場として借りている部屋が近鉄上本町駅付近のオフィスビル『丸松ビル』二階にあることが判明し、ここで血まみれで倒れている夏帆を発見したのだった。回り道をしたが、三品病院まで車で数分の距離だったため救急搬送の遅れが致命的にはならなかったようだ。

「父親の話やと商品開発をしてたんやそうや。成山は知らんのか、被害者。美容関係では有名みたいなこと合原さんが言うてた」

 合原京子は、現場や証拠写真の撮影を任されている四〇代の女性鑑識係官だ。有佳子とも親しく、よき相談相手でもあった。

「京子さんはおしゃれだから」有佳子は、デスクの右側にあるサイドテーブルに積んであるパンフレットに目を移す。「あっ」と声を漏らした。

「やっぱり見覚えあるんやろ?」

「雰囲気がぜんぜん違ってました」

 パンフレットに写っている写真は、確かにテレビCMで見たことのある女性だ。アップにした髪形で、透き通るような肌の色、半開きの健康的な唇は、失血して土気色の被害者とは似ても似つかない。彼女の顔のアップに付せられた「美肌のプロKAHOが開発した化粧クリーム『BCホワイト』で、艶色透明肌を手に入れませんか」というコピーも聞き覚えがある。開発者自らがモデルとなって顔を露出し宣伝していたのだ。肌トラブルが気になる同年代の有佳子には、パンフレットの夏帆の肌は眩しかった。

「俺は見てないけど、成山は瀕死の顔見てるから、えらい違いやったんやろ。ピンとこんのも無理ない。名前も小洒落たローマ字表記やしな」

「こんなんじゃ、見当たり捜査班には、絶対入れてもらえないですね」

「見当たり班なんかに入る気ないやろ。それにしてもこの水槽には何を飼ってたんや。ほんまにメダカ一匹おらへん」豊丘がまた床にしゃがみ込む。「これ何や言うてたな、鑑識さん」黒く変色した植物片を手で掬って、こっちに見せる。

 砂利とガラス片、濁った水と被害者の血液が混じった床は、靴カバーを付けていてもつま先立ちしたくなる。

「何かを飼ってたのではなく、その変色した植物を育てていたようです」

「こっちが目的か」豊丘が白い手袋の上の黒い草を凝視する。

「警部補、気をつけてください。シャツに付いたらシミになるかもしれません」

「そやな。意外に匂いはエグくないけど」

「それを濃縮したら江戸時代の既婚女性が付けていたお歯黒になる成分だそうですよ。黒穂菌というのが寄生してできる色のようです」

「寄生してる菌やて」豊丘は、反射的に手から植物片を払い落とした。

「菌といっても害はありません。真菰はイネ科の植物で、その菌のお陰で茎が大きく成長するんだそうです。そこをマコモダケと呼んで食用にしている地域もあるくらいです。そう鑑識係官が言ってました。奥のバケツにも巨大なイネみたいなのがあったでしょう? それが真菰本体なんですって」と有佳子は奥のほうに目をやる。

 二階にあるこの部屋の玄関ドアには株式会社『KAHO』美顔研究所というプレートが掲げてあり、室内の右側に応接セットと大きなデスク、左側のパーティションカーテンの奥、壁際に長テーブルがあってその上に顕微鏡やフラスコ、シャーレ、さらにその奥には植物の植木鉢と小振りの水槽が四つ並べてあった。水槽には水が張られ、やはり真菰と思われる植物が認められた。

「どうせぶちまけるんやったら、奥の多少でもきれいなほうにしてくれよ」有佳子の視線の行方を察し、豊丘が言った。確かにそこの水槽の水は黒くは変色していないようだ。

 夏帆が俯せで倒れていたのは、応接セットと開け放たれたパーティションカーテンの境目だった。おそらく部屋の中央に水槽があり、それに夏帆か犯人が触れて倒したものと思われる。

「あれが、これになるんか。菌いうんは不思議なもんや」感心しながら立ち上がり、鑑識が記した被害者をかたどったテープを見下ろす。頭は水槽のあったほうに向いていた。

「真菰から新しい化粧品を作ろうとしていたんですね」

「水槽の横幅が九〇センチ、奥行き四五センチ、高さが三六センチ、結構大きいな」フレームだけになった水槽を豊丘は見た。「それが七〇センチほどの高さの台に乗ってて、ここに倒れた。そやからそこらじゅう水浸しや。被害者かて相当水を被ってたで」

「それだけじゃなくて、フレームだけになってるのがあと二つありますよ」

「ドカン、ガラガラって感じやな」豊丘は、奥にあるものと同じような大きさの水槽の残骸を、靴カバーの先で小突いた。

「ガラスの厚みが八ミリもあるのに、この有様になるくらいですし、他の小振りな水槽も一緒に粉々ですから、もの凄い音がしたみたいですよ」

「そらそうやろ」

「五階、最上階の事務所の人間がその音を聞いてます。車の事故かと思ったそうで、窓から覗いたんですが、何もなかったと言ってます」

「他は誰も?」

「ええ。オフィスビルですから住んでいる人はいないようです。証言者は残業でたまたまいて、蒸し暑さに窓を開けていたので聞こえたんでしょう」

「お母ちゃんと電話中やなかったら、朝に誰か来るまで分からずじまいか。こんだけの出血や、手遅れになってたな」

「出血は凄いですね。でも、発見は朝までかからなかったと思います。仕事のことで、午後一〇時に弁護士と約束があったようです」有佳子は手帳を開いた。「午後一〇時少し前に弁護士がここに来ました。名前は鍛冶透、民事専門なんだそうです」鍛冶への簡単な事情聴取は、初動捜査班が終えていた。普段は特許侵害など仕事に関する案件だったが、今夜は元夫からの付きまといの相談だったのだそうだ。

「ほう、どっちみち訪ねてきた弁護士さんが、救急車を呼ぶってことか」豊丘はソファーに腰を下ろし、テーブルの上をじっと見る。

「どうしたんです。お疲れですか」顔が近くなった彼に、有佳子が声をかけた。

「雨が降ると腰がな。古傷が痛むんや。これ梅酒やな」飲みかけのグラスを嗅ぐ。

「今夜遅くにはやむって天気予報では言ってましたよ」

「そうか、助かるわ。ここにある容器は化粧品か。けど鏡がない」豊丘はテーブル上を探す。

「サンプルを試してたんじゃないですか。顔ではなく手の甲とかに塗って試すことがありますから」

「さよか。で、これは生姜漬けやな。これを肴に梅酒を飲みながら仕事してたいうことか。えらいリラックスしてたんやな。そこにお母ちゃんから電話をもろた。で、話している最中に賊が入ってきたということか。戸締まりがしてなかったのは、もうちょっとしたら弁護士さんがくるさかいか。もう一時間、約束が早かったら犯人と鉢合わせしとった」弁護士と依頼人が相談する時間としては遅い、と豊丘がじとっとした目で有佳子を見た。

「警部補が考えていることは分かります。他に荒らされた形跡もありませんし、怨恨の線が濃厚。元夫の八杉が、弁護士と夏帆さんとの仲を疑い、犯行に及んだ。約束の時間直前に犯行に及んだのは、変わり果てた夏帆さんの姿を見せたいか、罪を被せる目的があった。そうじゃないですか」

「ドンピシャや。いいデカに成長してきたなぁ」と豊丘が、背広の袖で涙を拭く真似をした。

「褒め過ぎですよ。すでに、神路さんと井上さんが八杉に事情を聞きに行ってます」有佳子はベテラン刑事の名を出した。八杉は名古屋市内に本社がある理美容用品販売会社の営業マンだ。夏帆とも名古屋市内のマンションで暮らしていた。離婚後、夏帆は大阪に転居、その後後を追うように八杉も大阪府高槻市のアパートに引っ越してきたという。

「神さんなら間違いない。八杉を叩いてきっちり供述を引き出したら、このヤマ、ジ・エンドや」あの二人なら、被害者のスマホと凶器を押収して署に戻ってくる、と豊丘が笑った。

「だといいですね。夏帆さんからも話を聞ければ、言い逃れもできませんし」有佳子は、電話をくれた家入の番号にリダイヤルした。

「刑事さん、いま連絡しようと思っていたんです」家入はすぐに出て、緊張した声で言った。「患者の意識は戻ったんですが、容態が安定しません。ですから今夜、話を聞くのは無理だと思います」

「意思の疎通ができないということですか」

「いえ、混濁していて……」断言しなかったところに彼の正直さを感じ、育ちがよさそうな顔が浮かんだ。

「意思の疎通を図る方法はありませんか」有佳子は食い下がった。「こちらの話は分かるんですよね」

「反応はありますので」

「先生、一点だけ確かめたいことがあるんです。三分、いえ一分で済みます」有佳子は短時間を強調した。

「一分、ですか。担当医に相談してみます。許可が下りれば連絡しますので、それまで待ってください」

「お願いします」

 豊丘が、スマホをスーツのポケットにしまう有佳子に話しかけてきた。「だいぶん悪いようやな。署にある八杉の顔写真と適当な男性の顔写真を二つ、写メしてもろたさかい。意識があるんやったらそれ見せて、顎ででも瞼ででも、うなずいてもらえば立派な証言になる。元夫婦や言うても、念を押しとかなあかん。写真で面通しをしといてくれ。それだけやったら数秒で済むぞ」彼はスマホを出し有佳子に写真を転送した。「朝まで張りついてたら、それくらいの時間、お許しが出るやろ。俺はもうちょっとここを調べてから、鍛冶弁護士と話してみる」

「そうですね、じゃあ病院に行きます。重要な証言がとれ次第、連絡します」写真を確認した有佳子は、小振りのショルダーバッグを持って現場を後にした。

 歩いても三〇分とかからない距離だ。玄関には何人かのブンヤが、警察関係者の出待ちをしているのを見て、非常口を利用した。寂しい路地に出て、折りたたみ傘を開く。日傘兼用を常に持ち歩いていた。いまは面体を隠すためにも都合がいい。大通りに出てからは、傘で顔を隠すようにして三品病院へと急いだ。

 豊丘のように神経痛はないが、有佳子も雨は好きではない。子供の頃から遠足とか運動会になるとよく雨に降られた。友達同士で出かけるときも雨だった確率が高い。そのうち有佳子は雨女だと言われるようになった。もちろん友達は冗談で言っただけだ。しかし何度か続くと気になりだし、長かった髪をバッサリ切った。気分転換のつもりだった。それから不思議に雨の日に当たらなくなったのだ。

 有佳子は恨めしそうに雨が打つ傘を見上げる。豊丘の言うようにサクッと解決するのだろうか。

 課長の加納は、常にスピード解決を口にする実績主義だった。重大事件はもちろん、傷害事件などでも一分、一秒でも早く終結させよ、と捜査員に発破をかけるのだ。今夜の内に、八杉の犯行であることが確定できれば、府警との合同捜査本部を設置せずに済む。府警一課の捜査官と組まされれば、実績のない女性の意見など、ほとんど受け入れてはもらえない。ともかくいまは、実績を積むことが有佳子には重要なのだ。二八歳の終わりに、やっとのことで念願の刑事課に配属されて四年目、ここが正念場だ、と毎日自分に言い聞かせている。

 祖父は大阪府警の刑事だった。それを嫌って有佳子の父は、大学進学を機に上京して八王子市の役人になった。母は役所の同僚だ。小学生の頃、ふらっとやってくる祖父の体験談を二つ違いの姉の育美と聞くのが楽しみだった。姉との遊びはいつも婦人警官ごっこで、父にバレると叱られるから常に潜入捜査のように緊迫感があった。それがむしろ楽しくて、二人はのめり込んだ。

 育美が剣道を習い始めると、有佳子も付いていく。高校時代は二人とも三段を取得するまでになり、剣道の成山姉妹は専門誌に取り上げられたこともある。

 そして姉は京都の四年制大学、有佳子は大阪の短大に進学して、それぞれ両親の猛反対を押し切り警察官となった。京都府警の育美は、刑事課勤務で実績を積み、すでに警部に昇進している。結婚して男の子にも恵まれ、公私ともに充実した人生だ。

 負けたままでは嫌だ。

 そう思うと自然に歩く速度が上がる。本降りの雨も苦には感じなかった。

 やがて三品病院の白い建物が見えてきた。L字型の病院の、今度は正面玄関から入る。

 省エネのためかロビーは薄暗く、受付には警備員しかいない。有佳子は警備員に身分を明かしバッジを見せ、今夜搬送された五十嵐夏帆の主治医に会いにきたと告げた。

 彼が院内電話をかけてから二、三分して、家入が白衣をなびかせ駆けてきた。「刑事さん、連絡を待ってほしいと申し上げたはずです」と赤らめた顔で文句を言った。

「一刻でも早く、確認したいんです。話せる状態になるまで待合室で待たせてもらいますから」逸る気持ちを抑えて頼む。

「そんなこと言われても、いつになるか分かりませんよ」家入は迷惑そうな声を出した。

「いえ、とにかく待ちます」

「それなら、好きにしてください」疲れた目を伏せながら、家入がさらに暗い廊下へ向かって歩き出す。有佳子もそれに続いた。外来患者の待合椅子が並んだ場所を抜け、五つの診察室を通過する。渡り廊下に達すると中庭が見える。外灯の光に見える雨粒は一段と激しさを増していた。

「先生は被害者の主治医ではないとおっしゃいましたね」警備員には主治医に会いたいと言ったはずだ。

「僕は、連絡係みたいなものです」

「……一分もかかりません。被害者を襲った可能性がある人物の写真を見てもらうだけです」

「とんでもない。精神的な負担は、患者さんの容態を悪化させるかもしれない」家入は立ち止まった。

「その者が刺したのかどうかさえ分かればいいんです。主治医に掛け合ってもらえないですか。確認が取れ次第逮捕状が請求できるんです」

 家入は返事をせず、大きく息を吸って再び歩き出した。

 有佳子も黙って彼についていく。廊下のさらに奥へ行くとER、その隣がECUだ。

「この先を左に折れたところに椅子がありますので、そこでお待ちください」ECUの前で家入はそう言って、自分は入室していった。

「では後ほど」と有佳子は角を曲がった。

 誰もいない待合の長椅子に有佳子は座る。しばらくすると廊下に響き渡る男性の声が近づいてきた。電話のようだ。

「すべては勉強だ、礼はいらん。そっちの件は分かった。どうしたお前。珍しく熱心じゃないか」オールバックの髪形、細身で五〇がらみ、鼻の下のちょび髭は、チャップリンに似ていなくもない。身なりはきちんとしたスーツ姿で、椅子に音を立てて腰掛け、足を組むと手にしたタブレットに目を落とす。夏帆の親戚縁者にしては、言葉が高圧的で悲しんでいるようには見えない。

「五十嵐さんの関係者ですか」小さく咳払いをしてから、有佳子は声をかけた。

「ああ」男性はチラッと有佳子を見た。

「私は警察の者です。どういった関係なのか伺いたいのですが」有佳子は対面に腰を下ろし、手帳を取り出す。

「相当な血の量だったろうな、犯行現場は」と男性は質問に答えず、ひょうひょうとした表情で言った。

「五十嵐さんとのご関係は?」有佳子は語気を強め、もう一度尋ねる。

「直接的でなく間接的には、大いに関係している者だ。彼女、ずぶ濡れだった。しかも田んぼにでもはまったのかと思うほど土臭かった。だから破傷風予防はしておいた。あの水の正体は何なのか、ご存じなら教えてほしい」

「失礼ですが、あなたはドクター、ですか」風体を見直す。

「白衣を着てないと医者に見えんか」

「という訳ではないんですが」

「この病院の院長、三品元彦だ」三品は右手を出した。

 人定前に握手はできない。有佳子は彼の手を見ないふりをして「院長直々、被害者の主治医を?」と質問した。

「いや、私は救急救命医でも外科医でもないから、外傷患者は優秀なドクターに任せている。ついさっきその主治医から呼び出されてね」

「被害者、悪化したんですか」院長を呼び出したとなると覚悟がいる。

「処置はすべて巧くいった。しかし」意識の混濁が激しく、まだ容態が安定していないのだ、と三品は補足した。

「家入先生にも言ったんですが、写真を見せて確認したいことがあるんです。彼女を刺した犯人か否かを問うだけですから、ほんの一瞬で済むんですが、それでも難しいでしょうか」有佳子は食らいついた。

「家入先生が警察に協力しろとうるさかったんだが、そうか、そういうことか」三品は有佳子の顔をじっと見る。「まあ、いいだろう。今のうちに訊いたほうがいいかもしれんな」そう三品はつぶやくと、すっくと立ち上がって「どうぞ」と促した。

 三品が、先ほど家入が入って行った部屋のドアを開けると、また透明の扉があり、その中はエアシャワーになっていた。

 上から、そして左右から勢いよく空気が有佳子に降り注ぐ。微かだけれど塩素系洗剤の匂いがした。そこを出ると、事件現場で装着するような靴カバーと頭に透明のキャップ、それにマスクを着け、白衣を着る。白衣は紙製なのか、ごわついて着づらかった。

「普通、無菌室でない限り、ここまで厳重にはしない。それだけじゃない、私は細菌に対して臆病なんでね、患者を処置するところはすべて陰圧して細菌やウイルスを外に放出させないようにしてある」三品は有佳子の服装がきちんとできているか確認するような視線を投げてきた。「要するに細菌だらけの部屋に案内するってことだ」

「そうなんですか」有佳子はマスクの隙間がないか確かめた。

 次のガラスドアを開くと、ようやくECUの廊下に出た。左右に三床ずつ、ベッド間の仕切りはあるものの、患者が見えるようになっている。一番手前の右のベッドを残して、満床だ。

「左のベッドにいるのが五十嵐さんだ」三品が振り返った。

 こちらに足を向けた被害者は、様々な管でつながれていた。傍らに白ずくめの家入ともう一人、中年の医師がこちらを見た。

「先生」年かさのほうの医師が三品に近寄ってきた。「何度もすみません」

「こちら、五十嵐さんの主治医、田代先生」三品がマスク越しに田代を紹介した。そしてそのまま「こちらは警察の方です。家入君は知ってるな」と、田代の後ろに立つ家入に訊く。

「はい、成山さんです。患者さんに確かめたいことがあるとおっしゃって、その件で田代先生に相談してたんですが、容態に変化がありまして」と家入がうつむいた。

 家入の口調は上司への報告といった感じだ。マスクを通しても緊張感が伝わってくる。ほとんど同時に廊下から看護師がやってきた。彼女は有佳子よりも背が高い。

「いいところにきた。搬送からすべての処置に立ち会った看護師長の室田さんだ」三品が紹介すると、室田が丁寧にお辞儀をした。

 それに有佳子も返礼して自己紹介する。

 書類を手にしていた室田が三品に、「先ほど先生に診ていただいてから、また熱が上がりまして、三八度七分です」

「術後不明熱か」

「酸素飽和度が九七まで上昇したんで、自発呼吸に問題はないんですが、おかしなことを叫び出してます」と告げた。

「おかしい?」

「明瞭ではありません。よく分からないんですが、たぶん黒い、黒いと言っているように聞こえます。それで何が黒いんですか、と訊いたんです。ですが、それについては答えません」

「暗いではなく、黒い……?」

「それにこれも推測の域を出ないんですけれど、おうな、と」追っかけるなという意味なのか、それとも背負うな、なのか分からないと室田は言った。

「おうな、か。翁と媼の『おうな』かもしれんしな。それより黒いというほうが具体性がある……ずぶ濡れだった服はどうした?」

「滅菌ゴミと一緒に」室田が言った。皆マスクのせいで声がくぐもって、聞き取りにくかった。そのためか一言一言をはっきりと発音しているようだ。

「そうか……刑事さん、さっきも訊いたが、その水のことだ。ありゃ何だ?」三品が有佳子のほうを向く。

「被害者は真菰を水槽で栽培していました。その水槽の水です」蚊帳の外に置かれていた有佳子がようやく言葉を発した。

「そうか、マコモダケか」三品が大きくうなずいた。「あれなら黒穂菌で黒くなる」

「ご存じですか」

「菌と名のつくものは、私の長い友人だからな。黒穂菌なら無害だ。ただ濡れ鼠とは面妖、患者が発見されたときの様子を知りたいんだが?」三品が言った。

「彼女は美容研究家です。新しい美容法を考えていたようで、その一環だと思われるんですが、仕事場には水栽培の植物がたくさんありました。中でも大きな水槽の中にその水が入っていたようです。で、床に水槽のガラス片とマコモダケを切ったものなどが散乱していたところから、犯人に襲われたとき水槽と接触し、一緒に倒れたと考えられます」有佳子も言葉に力を込めて話す。

「水が古くなっていたのかも」田代がかなり土臭かったと言った。

「抗破傷風ヒト免疫グロブリン療法を始めているし、むしろ発熱しているから破傷風ではない。血算、生化学検査は? とくにフェリチン、血沈、尿沈はどうだった」

「フェリチン、白血球数は正常です。CRPの値は〇・七と僅かに高いくらいです」

「刺された時間が問題だな。刑事さん、一一九番通報は誰が?」三品が有佳子に訊いてきた。

「少しややこしいんですが」と前置きして、「和歌山にいる母親が電話で通話中に娘の異変に気づき、家族から直接天王寺署の生活安全課に連絡が入ったんです。で、救急車と共に機動捜査隊が現場に急行しました」

「通話中に? 母親はびっくりしただろうな。ただし刺された時間がはっきりしているということだ」

「ご家族からの通報は、午後八時五四分です」

「なら創傷を負わされてから五時間ほどか」三品は腕時計を見た。

 つられて有佳子も時間を確かめる。午前一時五〇分だった。

「血液に反応が出るとしても、もう少し時間がかかるな」三品の視線は田代に向けられた。

「ええ、時間をおいて検査したほうがいいと思います。頭部、胸部、腹部の単純X線検査では異常はありませんでした」

「頭部をさらに詳しく調べる必要があるな。首の硬直は?」

「この状態ですから判然としませんが」

 三品が夏帆を一瞥し、首の下に手を差し入れた。

 夏帆の顔が苦痛に歪み、歯の音が聞こえそうに震え、しきりに何かをつぶやく声が聞こえてきた。「黒い」と言っているといわれれば、そう聞こえてくる。

「髄膜炎かもしれん」

「造影CTをオーダーしています」田代も夏帆を見詰める。

「うん、温存したとはいえ、脾臓の損傷は重篤だったはずだ」三品が横目で有佳子を見た。

 医師同士の話にはついていけず、「で、話をしても?」と有佳子は強めに訊いた。

「そうだな、いまのうちに話したほうがいい」

「いまのうち?」田代が三品に目をやる。

 三品は田代の問いには答えず、「志原先生のオペに問題はなかったんだな?」と家入に鋭い視線を投げた。

「それはもう、凄いとしか言いようがないくらい完璧だったと思います」家入のキャップとマスクの間から覗いている目だけからでも、彼の緊張が分かる。三品と話すときだけ特別なように思えた。

「オペに完璧などない。凄いなどという言葉も軽々しく使わないほうがいい」

「すみません」間髪を容れずに家入が頭を下げる。

「まあ、一旦バイタルも安定したし、意識レベルもまずまずの状態まで回復している。自発呼吸も問題ない。だが、患者の身体が小刻みに震えているし、全身に痛みもあるようだ。免疫システムが正常に働いているとは思えん」

「この一五分ほどで症状が悪化していることは確かです」田代がため息交じりに言った。

「さっき見たときも気になっていたんだが、左の肘を見てみろ、陽太郎」三品が、今度は家入を下の名で呼んだようだ。

 三品院長と家入は師弟関係なのか、弟子をテストするような口調だ。

 家入は、慌てて夏帆に近づき掛け布団から左腕を出して観察しようとした。すると夏帆はそれを嫌がるように手首を内側に曲げ、首を反らせて、また「黒い」と唸り声を上げた。

「打撲痕でしょうか。肘を中心に円形に赤みを帯びています」

「さらに顕著になっているな」

「私にも見せてください」打ち身なら見慣れていると、有佳子も夏帆の白い腕を凝視した。だが、いま彼女がいる位置からではよく見えず二、三歩前に出た。「打ち身には見えない」とつぶやく。

「刑事さん、いい目をしてるな」三品が家入を押しのけ、夏帆の腕をとって有佳子によく見えるように捻る。夏帆が悲鳴を上げたのを無視して有佳子に訊く。「何に見える?」

「笑わずに聞いてください。ブユに刺されて、搔いてしまったみたいな腫れ方だと思います」

「刑事にしておくには惜しい観察眼だ。いや、失敬、刑事にも必要な能力だな。これはおそらく軽度の蜂窩織炎だろう」

 家入、田代、そして看護師長の室田も小さく驚きの声を発した。

「それはなんですか。素人にも分かるようにお願いします」有佳子は大き過ぎるマスクをずれないように押さえながら言った。

「意外かもしれんが、人間の皮膚は薄いが強い。人体は、皮膚という鎧のお陰で、細菌という外敵から守られているものだ。脆弱な組織への侵入を食い止めている。だがバリア自体は、微生物でひしめき合っている状態と言ってもいい。刑事さんも経験しているだろう、顔へのちょっとした刺激でできものができるのを。それは表皮にいる細菌のせいだ。しかし敵の侵入は表面までだから、肌トラブルだと暢気なことを言ってられる」三品は言葉を切り、夏帆の腕をさらに持ち上げて続ける。「しかしこの赤みは、表皮じゃなく、その下の真皮、すなわち血管、神経、筋肉がまじった組織にまで細菌が到達したときに見られるんだ。細菌に感染してるってことだ」

「凶器で刺されたことで、何かの細菌に?」

「どの時点で感染したかは分からない。刺された後だと蜂窩織炎の症状が現れるのが早い気もする」

「先生、では黄色ブドウ球菌?」家入が口を挟んだ。

「よく見ると陽太郎が言ったように打撲痕はある。皮膚が裂けそこから黄色ブドウ球菌に感染した。ただ奇妙なのは刺された刺創付近に蜂窩織炎は見られないのに、上肢に現れたことだ。免疫システムが機能していない可能性がある。熱はトキシックショック症候群によるものかもしれん」

「ではすぐ、抗菌薬を」

「リンコサミド系抗菌薬を投与しつつ、造影CTで脳を診るんだ。その後すぐに腰椎穿刺で髄液検査も。さっきはなかった白血球数やCRPの値の変化も出てくるだろう」

 専門用語のやり取りは、また有佳子を置いてけぼりにした。

「ちょっと待て」三品の指示で動こうとした医師と看護師を制止した。「その前に刑事さんと患者のご対面だ」と言うと三品は、夏帆の目にペンライトを当てながら光源を左右に動かす。「反応は鈍いが、大丈夫そうだ。口を開けてみてくれ」

 夏帆の唇は微かに動いたが、口は開かない。

「動かそうとはしている。言葉も理解できているな。一分以内で頼む。ストレスをかけたくないんでね」

「ありがとうございます」有佳子は夏帆の顔に近づき、「私は警察の者です。あなたをこんな目に遭わせた犯人を捕まえたいんです。辛いでしょうが」

 夏帆の顔面が激しく揺れ、息づかいが荒くなる。

「話さなくてもいい。瞼で答えて。イエスなら一度、ノーなら二度瞬きをしてください。いいですか」

 唸り声と共に夏帆が目を見開き、一度瞼を閉じた。

「ありがとうございます。あなたは犯人を見ましたか」

 夏帆は瞼を閉じた。恐怖が蘇ったのだろう、眉間に深い皺が出た。

「では見てほしいものがあります」有佳子は防護衣の下からスマホを取り出した。

「ちょっと、待った」三品の声で手が止まる。

「何でしょう?」有佳子が三品のほうを振り返る。

「室田君、彼女のスマホを滅菌袋に」三品が看護師長に指示し、有佳子を見た。「言っただろう、私は臆病なんだと」

 室田が持ってきた透明の袋を受け取り、有佳子はそれにスマホを入れた。そして彼女の元夫、八杉弘文を含めた三名の写真を画面に表示する。顔は袋を透してもはっきりと見えた。

「この中に犯人はいますか」とスマホを夏帆に見せる。

 瞬きでノーと言った。

「よく見てください。ここにあなたの元夫、八杉弘文さんもいますね」

 瞬きを一度した。

 これで夏帆の人定能力は確かであることが判明した。加納課長は、とくに傷を負わされた被害者の動揺に乗じて、捜査官の筋読みの押しつけや誘導などがないようにとうるさい。過去に、被害者が気の動転を理由に、証言をひっくり返したことで捜査が振り出しに戻った経験があるのだそうだ。

「再度伺います。昨夜、あなたを刺した人はいますか」有佳子は夏帆の目の動きに神経を注ぐ。

 確かに二回、目を閉じた。

「本当に、ここにはいないんですね」有佳子は一言一句しっかり伝えるように尋ねた。

 夏帆は瞬きを一回して首を振った。それが否定なのか痙攣なのか分からない。

「患者は、明らかにその写真の中に犯人はいない、と言っている」三品の声が背後からした。「残念だな」表情が見えないにもかかわらず、彼は有佳子の背中で心情を察知したようだ。

「五十嵐さん、もう一度、もう一度だけ。ここにあなたを刺した男がいるはずなんです」

「もう、無理だ。勘弁してやれ」

「でも……」八杉だと夏帆が認めてくれさえすれば、すぐにでも逮捕状を請求できる。こんな目に遭わせた人間を逮捕できるのだ。

「容態が芳しくない。ここから出て行ってほしい」三品は穏やかな口調で言った。

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