第10話

文字数 9,853文字

 14 ヒロインの座(承前)

 玄関を入って、亜矢子(あやこ)はギョッとした。
「お帰りなさい」
 パジャマ姿の今日(きょう)()が立っていた。
 そうだった! 落合(おちあい)今日子を泊めていることを忘れていた。
「遅くなってごめんね」
 と、亜矢子は言った。「晩ご飯は……」
「冷凍庫に入ってたピラフを電子レンジでチンして食べた」
「良かった。お弁当でも買って帰んなきゃと思ってたのよ」
「私、大夫丈。もう――」
「大人だから、ね。本当だ、お姉ちゃんの方がだめね。今日子ちゃんのこと、すっかり忘れてた」
「本当? トシのせい?」
「まだそんなじゃないわよ! ただ、ちょっと考えごとしててね」
 と、亜矢子は服を脱いで着替えると、「お風呂は?」
「入った。まだ少し追い焚きしたら入れるよ」
 何も教えなくても、ちゃんとやれるんだ、と感心した。
 しかし、確かに母親を失くして、おじいちゃんと二人、家事もこなして来たのだろう。
「じゃ、お姉ちゃんもお風呂に入るかな」
 と、亜矢子は言って、「今日子ちゃん、ベッドの方が良かったら、使っていいわよ。私は布団でも何でも眠れるから」
「私、お布団の方が慣れてるから」
「そうか」
 今日子はTVを点けて見ていた。亜矢子はお風呂に入って、ホッと息をついたが――。
 今日子がお風呂をきれいに使っていることに感心した。使ったタオルはきちんとたたんであるし、蛇口もちゃんと拭いてある。
 母が見たら、きっと、
「あんたよりよほどしっかりしてる」
 と言うだろう。
 少し焚いて、ちょうどいい湯加減になった。
「ああ……」
 お湯にゆっくり体を沈めて、「疲れた……」
 いつも、そう呟くのだが、それは半ば習慣になっていて、本当に疲れているかどうかは関係ない。しかし、今夜ばかりは……。
「参った!」
 と、口に出して、「どうしよう?」
 頭を抱えたのは、もちろん今度の映画のヒロインの問題である。
 製作費を全額出資してくれる(ほん)()ルミが当然のように、「自分がヒロインを演じる」と思い込んでいるのだ!
 (まさ)()も、本間ルミに出演してもらうことは承知していた。しかし、彼女は素人(しろうと)なのだ。
 もともとシナリオになかった役を何か一つこしらえて、たとえばヒロインの友人役などで、ワンシーンだけ出てもらうとか……。その程度のことと考えていた。
 それが……。
 ヒロインといっても、今度の映画はただの「すれ違い」メロドラマではない。あくまで現実に生きて働いて苦労している女性でなくてはならない。
 学生時代に演劇をやっていたというだけでは、とてもこなせる役ではないのだ。
 だが――どうやって本間ルミにそのことを伝えるのか。
「それならいいわ。お金は出さない」
 と、ひと言言われてしまったら、すべては水の泡と消える。
 正木の古い友人なのだから、説得する役は当然正木がやるべきだ。しかし、
「亜矢子!」
 と、正木は亜矢子の手をしっかり握りしめて、「これはスクリプターの仕事ではない。それは俺も分っている。だが、お前は一映画人として、今年の日本映画を代表する傑作を作るためなら、たとえ火の中、水の中、命をかけてくれる女だ! 俺にはよく分ってる。お前のこれまでの献身的な働きは、俺がどれだけ感謝しているか――」
「手、離して下さいよ!」
 と、亜矢子は言った。
 正木の手は、亜矢子を大事に思っているというより、「逃げないように捕まえておこう」という感じだったのである。
「な、亜矢子、俺はお前のためにも、今度の映画を生涯の代表作にしたい。そのためには精神を統一し、雑念を振り払って――」
「雑念だらけでしょ、今の監督の心の中は」
 と、亜矢子は言った。「分りました! 私が本間ルミさんに恨まれに行けばいいんですね」
 しかし、

はそう単純ではない。本間ルミが「お金は出すけど、私の役は小さくていい」と思ってくれなくては何にもならない。
 そんなうまい具合に話が進むだろうか? どう切り出して、どう納得してもらうか……。
 あれこれ考えている内、亜矢子はいい加減のぼせてしまった。
 少しふらつきながら風呂を出ると、明りは点いていたが、今日子はもう布団に入って、静かな寝息をたてていた。
「――いいわね、罪がなくて」
 と、亜矢子は呟いて、裸のまま少し涼んでいた。
 すると――。
「ふふ……」
 と、声がして、びっくりした亜矢子が見ると、布団から今日子が目を開けてじっと見つめていた。
「寝てなかったの?」
 と、あわててバスタオルを胸に当てた。
「見せて」
 と、今日子が言った。
「え?」
「裸、見たい。お母さん、いなくなって、もう五年たつから、ずっと大人の女の人の裸、見てない」
 真直ぐにそう言われると、亜矢子も恥ずかしい気持もなく、
「いいけど、お見せするほどのもんでもないわよ」
 と、バスタオルを膝に下ろした。
 今日子は布団に起き上って、じっと亜矢子を眺めていたが、
「――きれいだなあ」
 と、ため息と共に言った。
「そう?」
「すべすべして、肩とかつやがあって光ってる。お母さん、もっと太ってた」
「今日子ちゃん……お母さんに抱きしめられたこと、ある?」
「うん。ときどき、お母さんの胸に思い切り顔を押し付けたくなるの。お母さんの匂いがして、とってもいい気持」
「そうか。ごめんね、お母さんじゃなくて」
 と、亜矢子は微笑(ほほえ)んだ。
「そんなこと……」
 今日子は、ちょっと間を置いて、「亜矢子さん。抱きしめてもらってもいい?」
 今日子の目がせつなかった。
「いいわよ。来て」
 亜矢子が両手を差し出すと、今日子は布団をはねのけて、亜矢子の腕に飛び込んで来た。
 そして、亜矢子の乳房の間に顔を埋めて、しばらく動かなかった……。
 くすぐったいような、それでも何か熱いものが胸の奥からこみ上げて来て、亜矢子は両腕でそっと今日子の体を抱きしめた。
 ――どれくらいそうしていただろう。
「ごめん」
 と、今日子は顔を上げて、「風邪ひくね、ずっと裸じゃ」
「大丈夫。スクリプターは丈夫にできてるの」
 亜矢子もパジャマを着て、お茶を飲んだ。今日子も付合って、
「何だか心配ごと?」
「え? どうして?」
「お風呂で、『参った』って言ってたでしょ」
「聞こえた? いつも大声出してるからかな」
 と、亜矢子は苦笑した。
「何かあったの?」
「うん、実はね……」
 今日子に話してどうなるものでもないだろうが、訊かれるままに、亜矢子は本間ルミについての悩みを語った。
「――大変なのね、映画作りって」
「そうなの。ともかくお金がかかるでしょ。どんなにすばらしい脚本があっても、お金を出してくれる人がいなかったら、映画は作れない」
「私がアラブの石油王とでも結婚したら、それぐらいのお金、ポンと出してあげるけどな」
「ありがとう。現実は厳しいわ」
「でも、仕方ないよね。ちゃんと説明しなかったのも良くないけど、勝手に思い込んでた向うも悪いよ」
「そう言ってくれると……」
 亜矢子は今日子の頭を撫でて、「さ、もう寝よう」
「うん」
 ――その夜、亜矢子と今日子は、ベッドで寄り添って寝た。
 誰かの体温を感じながら眠るなんて、めったにないことだ。――亜矢子は今日子の寝息を首筋にくすぐったく感じながら、幸せな気持で眠った……。

 15 生きるか死ぬか

 オフィスビルのロビーで、亜矢子はじっと立っていた。
 本間ルミを正木と一緒に訪ねる時刻まではまだ三十分以上あった。一足先にやって来たのは、もちろん亜矢子一人でルミに面会して、事情を説明するためである。
 ただ、本間ルミはともかく忙しいようで、
「少しお待ち下さい」
 と、秘書に言われたまま、こうして立っていたのである。
 しかし――ゆうべ、あれこれ悩んでいたときのように、困ってはいなかった。
 それは、今日子のおかげだった。今日子が素直な気持で、亜矢子の裸の胸に顔を埋めて来た、あのひとときが、亜矢子を落ちつかせたのだ。
 妙な言いわけをしない。正面から、事情を話して、詫びる。それ以外、できることはない。
 本間ルミが、怒って資金を出さないと言うのなら仕方ない。――亜矢子は何とかして……。いや、母に頼むか、あらゆる知り合いと

を頼って、製作費を調達しよう、と思っていた。
「――お待たせいたしました」
 と、秘書の女性がやって来た。「社長が上で」
「ありがとうございます」
 亜矢子は、胸を張って、秘書について行った。
〈社長室〉と金の文字の入ったドアを秘書がノックすると、
「どうぞ」
 と、ルミの声がした。
「失礼します」
 と、深々と頭を下げた亜矢子は、社長室に入ってびっくりした。
「やあ、待ったか」
 ソファに、ルミと向い合って、正木が座っていたのだ!
「監督……。どうして先に……」
「いいから座れ」
 言われるままに、正木の隣に腰をおろした。
「話は聞いたわ、正木君から」
 と、ルミが言った。「私も早とちりだったわね。はっきりしたことを聞かないで、勝手に思い込んでいて」
「それは私の責任です」
 と、亜矢子が言うと、正木が、
「いや、責任は俺にある」
 と言った。「本間君に甘えてしまっていた。反省してるよ」
「でもね、考えてみると、私が主役を演るなんて、とても無理ね」
 と、ルミは言った。「演技ができないんじゃないのよ。経営者として、ひと月も休んでいられない」
 そう言って、ルミはちょっと笑うと、
「実は映画に出るの、って、うちの重役たちに話したのね。そしたらみんな微妙な顔して、『それはすばらしいですね』って、ちっともすばらしくなさそうな顔で言うのよ。今思うと、『経営の方は大丈夫なのか』って、みんな考えてたのね」
「はあ……」
「でも、この一件で、うちの経営は私がいないとやっていけないってことが分った。これから、私がもし病気でもしたときでも、ちゃんとやっていけるように、教育しなきゃいけないって思ったの。良かったわ、気が付いて」
「本間さんにも、必ずいい役を考えますから」
 と、亜矢子は言った。
「それはどうでもいいの。〈通行人その1〉でも構わない。ただ、主役をやる女優さん、正木君もあなたも惚れ込んでるようだけど、私も一度その人のお芝居を見たいわ」
「分りました。ただ――舞台はもうないと思いますが……」
 亜矢子はそう言いかけて、「そういえば、ほとんどボランティアで、朗読の仕事があると言ってたような。それでもよろしいですか?」
「もちろんよ。朗読はごまかしがきかないから、ぜひ聞いてみたいわ」
「早速スケジュールを訊いて、ご連絡します」
 亜矢子はともかく安堵した。
 シナリオの()(ばた)弥生(やよい)と娘の佳世子(やよい)をルミに紹介するのは別の日になったので、ともかくその後十分ほど相談して、正木と亜矢子は社長室を出た。
 エレベーターで、一階へ下りながら、
「監督、どうして気が変ったんですか?」
 と、亜矢子が訊くと、
「今朝、ケータイに電話があってな」
「電話? 誰からですか?」
「今日子といったか。お前の所にいる女の子だ」
 亜矢子はびっくりして、
「今日子ちゃんが?」
「お前が寝てる間に、お前のケータイを見て、俺の番号を知ったんだろう。『亜矢子さんに土下座させるようなことはしないで下さい』って言った。『あんなにいい人なのに、ちっとも偉そうにしてない。監督さんは偉い人なんでしょ? 間違ったとき素直に謝れるのが偉い人だと思います』――そう言われた。やられた、と思った」
「今日子ちゃんが……。そうですか」
「考えてみれば、俺が詫びに行かなかったら、ルミは怒ったかもしれないな。いい忠告だった」
「監督、ゆうべ今日子ちゃんにおっぱい触らせたんです」
「お前が? 俺も触ったことがないぞ」
「当り前でしょ!」
 と、正木をにらんで、「昼ご飯、おごって下さい!」
「どうしてそういうことになるんだ?」
 ――ともかく、近くの中華料理の店でランチを食べることになった。
 亜矢子がゆうべのことを話すと、正木は肯いて、
「お前も子供が欲しくなったのか」
 と言った。
「今日子ちゃんみたいな子なら。――でも、そううまくは行きませんよね」
「その心配の前に、男を見付けろ」
「それが、もっと問題ですね」
「俺もその子に会ってみたい」
 と、正木が言った。
「ええ、ぜひ。今日子ちゃんのお母さんが殺された事件を、もう一度調べ直さないといけないですし」
 シナリオに、今刑務所にいる()(さき)(おさむ)のことを入れようと思えば、時間がない。
 そうだ。まず五十嵐(いがらし)真愛(まな)に会って、朗読のスケジュールを訊き、三崎とのいきさつも確かめなくては。
 三崎の裁判で弁護を担当した弁護士にも話を聞きたい。三崎と面会できればいいが、それはかなり難しいはずだ……。
 何から先にやったらいいか、あれこれ考えていた亜矢子は、食べ終って、店の人に、
「じゃ、これで」
 と、つい自分のカードを渡してしまった。
「おい、俺がおごるんじゃなかったのか?」
「あ、いけない! ――じゃ、この次に」
 スクリプターが、身にしみついてしまっている亜矢子だった……。

 このままでいいのか……。
 悩んだところで、仕方ない。――答えは分っているのだから。
 このままでいいわけがない。
 だからといって、今の自分に何ができるのか……。
 戸畑(しん)()は、大山(おおやま)(けい)()のアパートで、昼近くになってやっと起き出していた。
 啓子はもちろん出勤している。――アパートの他の住人には、
「田舎から伯父が出て来て」
 と話していた。
 しかし、伯父と、そうでない「男」との違いなど、いずれ分るものだ。
 実際、たまたま近くへ出かけて、このアパートの奥さんと会うと、明らかにそういう目で戸畑を見ている。
 戸畑も、仕事を捜してはいたのだが、この不況の中で、五十五歳の男に仕事はほとんどない。
 啓子が、「何もしないでいいですから」と言ってくれるのを、真に受けて……。いや、啓子はそう思ってくれていよう。しかし、いつまでも、というわけにはいかない。
 戸畑は、やっと起きて顔を洗うと、アパートを出て、すぐ近くの喫茶店に入った。持っているのは財布とケータイだけだ。
「トーストとコーヒー」
 一番安上りなものを注文する。啓子に少しでも負担をかけたくない。
 たいていこの店で、午後の一、二時間を過していた。どんなことも毎日の習慣になれば、それなりに居心地が良くなるものだ。
 コーヒーが来て、一口二口飲んだところで、メールの着信があった。戸畑は一瞬、胸を突かれた。――佳世子からだったのだ。
〈お父さん。元気にしてる?
 たまにはお母さんに連絡しなよ。何も言わないけど、一応心配してるよ。私もね。
 お母さんは今、映画のシナリオに取り組んでる。正木悠介監督で、もう準備に入ってるんだよ。
 実は、私もその映画で、新人デビューすることになったの! スクリーンテストってやつを受けたら、これが結構いけるんだよね!
 映画公開を楽しみにしててね。
 でも、ともかく、生きてるってことだけでも、連絡して。お願いね。   佳世子〉
「佳世子……」
 恨んで、怒っていても当り前なのに、少しもそんなことを言って来ない。戸畑はそのメールをくり返し読んだ。
 メールの一つぐらい、送らなければ、と思ってはいる。しかし、今の状態をどう説明したらいいのか。
 今さら言いわけしても仕方ないということは分っているが、娘のように若い女の子の世話になっているとは言えなかった。
「――そうだ」
 トーストを食べながら、思った。「一度帰ろう……。啓子に話をして……」
 そのとき、目の前の席に誰かが座った。
 顔を上げて、びっくりした。
「あかり……」
 (くろ)()あかりが座っていたのだ。
「楽してるの? 呑気そうじゃない」
 と、あかりは言った。
「お前……よくここが……」
「彼女と一緒のとこ、見かけたのよ、会社の近くで。色々訊いてみて分ったわ。大山啓子っていうんですってね。あなたもついに

になったってわけ?」
 あかりはコーヒーを頼むと、「いいわね、あなたを養ってくれるなんて。私ならごめんだわ」
「いやみを言いに来たのか?」
 と、戸畑は苦笑した。「まあ、どう言われても仕方ないがな」
「いつまでもこうしてるつもり?」
「いや……。何とかしなきゃ、とは思ってる。――それより、どうして俺に会いに来たんだ? 結婚するんだろ?」
「ええ、着々と話は進んでる」
「それなら結構じゃないか」
「そうね。でも……」
 と、あかりは少しためらって、「先方のね、母親が私のこと、嫌ってるの」
「ふーん。まあ、息子の相手のことを面白く思わない母親は珍しくないだろ?」
「まあね。――ただ、それを『気にするなよ』としか言わない彼にも、ちょっと腹が立ってるんだけど」
「なるほど」
 他人のことをとやかく言える立場ではないのは承知だが、年上の人間として、「結婚してから大丈夫か? よく確かめた方がいいぞ」
 あかりが何か言い返して来るかと思っていると、そんな風でもなく、
「そうね」
 と、素直に肯いたので、戸畑はちょっと面食らった。
「その母親が、何か調べてるのか? 万一、俺に何か訊きに来る奴がいても、絶対にしゃべらない。心配するな」
「そうね。あなたはそういう人だわ」
 と、あかりは言った。
 それきり、結婚の話は出なかった。
 あかりがどうしてわざわざこんな所にやって来たのか、戸畑はふしぎだった。
「――ここは払うよ」
 コーヒー一杯だ。戸畑はレジで支払いをすませて、表に出た。
「一度家に帰ろうと思ってる」
 と、戸畑は言った。「啓子に申し訳ないしな」
「それがいいわね。――アパート、それでしょ?」
「ああ、そうだよ」
「ね、部屋を見せて」
「どうしてだ? 普通のアパートだよ」
「でも、ちょっと見てみたいの」
 と、あかりは言い張った。
 啓子は夜まで帰って来ない。戸畑は肩をすくめて、
「いいよ。じゃ、ちょっと見るだけだぞ」
「ええ、もちろんよ」
 戸畑は、部屋のドアを開けて、あかりを中へ入れた。
 あかりはゆっくり中を歩き回った。といっても、狭い部屋だ。
「――台所、きれいにしてるわね」
 と、あかりは言った。「きれい好きな子なのね」
「そうだな。一人住いに慣れてるから、何でもこまめにやるよ」
「私、そういうの、だめなの。分ってるでしょうけど」
「そんな細かいことまで知らないよ」
 と、戸畑は言った。
 あかりは台所の流しの前に立つと、じっとして、しばらく動かなかった。
 戸畑が当惑していると、あかりがパッと振り向いて、
「それじゃ! 元気でね」
 と言うと、アッという間に部屋から出て行ってしまった。
 戸畑は面食らって、
「どうなってるんだ?」
 と呟いた。
 すると――またドアが開いて、あかりが入って来た。
「トイレ、貸して」
「ああ……。いいよ」
 あかりは、またすぐに用を足して、出て行った。
 戸畑はただ呆気に取られているばかりだった……。

「まあ、私の朗読を?」
 と、五十嵐真愛は、亜矢子の話を聞いて、
「もちろん、そんなことなら、喜んで」
 と言った。
「お願いします」
 と、亜矢子は言った。「今度の映画に出資して下さる本間ルミさんが、ぜひ聞いてみたいと」
 真愛のアパートを訪ねて、まず朗読の件を頼んだ。
 もちろん、本題はシナリオの内容である。服役している三崎治のことを、シナリオに思い切って取り入れるかどうか。
 それは、真愛と三崎との係りの初めから聞かなければ分らない。いや、たとえ、亜矢子が、
「それなら大丈夫」
 と思っても、真愛は娘の(れい)()に、三崎のことを知られたくないのだ。
 その真愛の気持を変えるのは容易ではあるまい……。
「でも、朗読の会はボランティアで、こちらから施設に出向いて行うんです」
 と、真愛は言った。「本間さんはお忙しいのでしょう? そこへ来ていただくわけには……。もし、よろしければ、私がどこかへ出向いて、聞いていただいてもいいですが」
「そうしていただけたら……。ぜひ、お願いします。早速今日中に本間さんのご都合を伺ってみます」
「お願いします。喜んで下さるといいのですけど」
 少し間があった。――亜矢子は、ちょっと咳払いして、
「あの……今度朗読されるのは、どういうものなんですか?」
 シナリオのことを話すつもりだったのだが、つい先へ延ばしてしまった。
「童話のようなものです。でも、中身はちょっと悲しいお話で……。雪深い谷に住む一人の若い娘が赤ん坊を産みます。――その夜は月が冷たく光って、刃物のように青白い光が農家の窓から中へ差し込んでいました。お産は辛く、長くかかりました。娘は、たった一人で、赤ん坊を産まなければならなかったんです……」
 お話の筋を訊いた亜矢子だったが、真愛の言葉はやがて「語り」となって、読む本も手元にないのに、語り進められて行った。
 亜矢子はいつしかその物語の中に引き込まれ、ほとんど息づかいさえ抑えながら、聞き入った……。
 小さなアパートの部屋は消え、雪深い夜の冷え冷えとした空気が、亜矢子を包んだ。
 そして――それは何分続いただろうか。
 真愛が、静かに頭を下げて、
「失礼しました」
 と言った。
 ホッと息をついて、
「――すばらしかった。ありがとうございました」
 と、亜矢子は言った。
「いいえ、これはお詫びです」
「お詫び?」
「シナリオのことでいらしたのでしょう。私が主演することが、とても大切だということはよく分ります。シナリオを読んで、ああ、こんな役ができたら、どんなにいいだろうと心から思いました。でも――」
「真愛さん……」
「分って下さい。私にとって、礼子は生きがいです。あの子を守ってやらなくてはならないのです」
「それは……」
「悩みました。ハムレット並みに。『生きるべきか死ぬべきか』っていうくらいに。でも、私も礼子も、生きて行かなくてはなりません。あの子に辛い思いをさせることは――」
 突然、真愛の言葉が途切れた。
 いつの間にか、礼子がランドセルを背負ったまま、立っていたのだ。
「――礼子。いつ帰ったの?」
「さっき」
 と、礼子は言った。「お母さんがお話ししてたから、そっと入って、聞いてた」
「そうだったの。お母さん、気が付かなかったわ」
 と、真愛は笑顔になって言った。
「こんにちは」
 と、亜矢子が言うと、
「こんにちは」
 と、礼子はランドセルを下ろして、「お母さん、映画に出るんだよね」
「え……」
「でもね、礼子――」
「お母さん、私、大丈夫。知ってるもの」
「知ってる、って?」
「お父さんが仕事で遠くに行ったりしてないってこと。刑務所にいるんだよね」
「どうしてそれを……」
「お父さんからの手紙、見付けたことあるの。引出しの奥に入ってた。手紙に、〈検閲済〉ってハンコが押してあった」
「礼子……」
「どういう意味なのか、先生に訊いた。だから、隠さないでいいよ。お父さんがちゃんと生きてるっていうだけで。私、本当は死んでるんじゃないかって、ずっと思ってた」
「ごめんね……。いつか話そうと……」
「ちゃんと話して。私、もう分るから。お母さんの話してくれることなら」
 真愛が、礼子へと駆け寄って、しっかりと抱きしめた。
 亜矢子は、真愛の話してくれた物語で、すでに涙目になっていたのに、もうとても我慢できずに大粒の涙をポロポロとこぼした。
「お母さん」
 と、礼子が言った。「あの人、どうして泣いてるの?」

(つづく)

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