『だいたい本当の奇妙な話』試し読み!①
文字数 7,015文字

はじめに
私の名は進木独行。五年以上前に文芸新人賞を受賞して作家デビューした。私の作品はホラー色が強いと言われる。不思議なもので、そのような作品を書いていると現実世界と作品世界がシンクロすることがある。奇妙な話を書く人には、奇妙な出来事が寄ってくるらしい。本書では、私自身がこれまで体験してきた奇妙な出来事を元にして、つらつらと話を綴っている。もちろん見聞きしたことも含まれる。──さて最初は「ざしきわらし」の話。まだ私が会社員だったころ、友人から宿の予約を譲られた。それは、ざしきわらしが棲むことで有名な岩手県二戸の宿のものだった……。
進木独行
ざしきわらしの足音
会社員だった頃の話。
辛い時期だったが、このエピソードはいまでも生々しく記憶に刻まれている。
─── ◇ ◇ ◇ ───
知己、藤ノ宮鷹彦の声が電話口から聞こえてきた。
「凹んでるんだって?」
妙に明るい。まるで楽しんでいるようだ。こちらは会社から病休を一方的に言い渡されたところだというのに。
健康管理センターから診断書を伴う指示が出た場合、現場管理者は対抗できない。それは業務命令に等しい。私はうつ病と診断され、今日から病休の身だった。外を歩けば、身体にあたる師走の木枯らしが肌を刺すように痛むので自宅で惚けている。
自覚はあった。四六時中焦燥感に苛まれ、どうにも頭が回らない。パソコンで言えば、128ビット処理のCPUが8ビット処理になったような感覚だ。
『飲みに行かないか』──友人から送られたこんなメールの意味を理解するのに数十秒かかり、身体が固まってしまう始末だ。周囲の目にはさぞかし奇異に映ったに違いない。気遣ってくれた友人にも申し訳ない。
病休、しかもうつとなれば精神疾患の範疇となる。社内の人事規定では今後の昇格は望めない。退職まで伸びる芽がないとなれば、モチベーションどころではない。せめてライフプラン休暇の扱いにできないものかと掛けあったが、休暇目的が異なるため今回のケースにはそぐわないと突っ返された。
こちらの気も知らないで──。
内心穏やかではなかったが、藤ノ宮は続けた。
「ちょうどいいや。実はさ、行く予定だったけど急な仕事が入っていけなくなった宿があるんだ。滅多に予約をとれない宿でさ、キャンセルするには勿体ないから、どうしようかと思ってたところだ。お前も聞いたことないか、宿の名前は──」
ざしきわらしが棲む、有名な宿だった。
元総理大臣や高名な実業家が宿泊して、ざしきわらしと出会った宿だ。ホラージャンルの漫画家も利用している。しかし人気がありすぎて、数年先まで予約でいっぱいだという。
「一泊だけだが、保養にはなる。心を休めるにはもってこいだ。こんな時期だから冷えるのは仕方ないけどな。出歩かずに風呂に浸かっていればいいさ」
心惹かれる提案だった。うつには、リラックスして好きなことをすればいいと聞いている。
興味が湧いてきた。こんな前向きな気分になったのはいつ以来だろう。
「……分かった。ありがとな……」
私は快諾した。
「なんもかんも忘れて、しっかり休めよ。あとでまた連絡する」
相変わらず鈍くさい応対だったはずだが、特に不満を表に出すことなく、藤ノ宮は私を励ました。
きびきびした行動は現在の自分には無理なので、余裕をもった行程を組んだ。
月曜日の午前中となれば、上野発新幹線の車内は出張のスーツ姿が目立つ。
目的地は岩手県の二戸。金田一温泉郷だ。ほぼ青森県との県境である。
最初は思わず『きんだいち』と読んでしまったが、濁音ではなく『きんたいち』だ。ミステリー好きなら半数以上は誤読するだろうなと、車窓を眺めながら含み笑いを漏らす。
たとえ数時間であっても、いまの自分には一時間程度。ぼーっと考えごとをしていたら、たぶん最初の目的地、盛岡に着いてしまうだろう。
私は熱いコーヒーカップに口を付けて、物思いに耽ることにした。
『ざしきわらし』について。
これから赴く二戸と、遠野が有名である。二箇所とも岩手県だ。
柳田国男氏の『遠野物語』で『座敷ワラシ』が登場する。『ザシキワラシ』、『座敷ボッコ』、『御蔵ボッコ』など呼び名は様々である。『座敷童衆』とも書くらしい。
つまり単体の妖怪ではなく、特異な力を持つ群れである。姿も男の子であったり、女の子だったりする。ときに複数現れることもある。
一度『座敷童衆』の集団を観てみたいものだ。さぞかし壮観だろう。
*
以前遠野に旅行した際、語り部の方から興味深い話を伺った。
語り部とは、民話などの口頭伝承文化を継ぐため、昔語りをする有志の方々である。高齢者が多く、普段は標準語だが、昔語りを演じる際には地元の言葉を遣うことが特徴である。
「二戸と遠野の座敷童衆では、どうも印象が違うのです」語り部は言った。
「二戸の座敷童衆は男の子が有名ですね。名前もある。家に棲み、その家や出会った人に幸運をもたらしてくれる、人にとって良い妖怪というイメージが強い」
私は頷いた。二戸の宿で座敷童衆に出会ってから、その後大成した人もいる。ぜひ肖りたいものだ。
「でもね、遠野では違うんです。むしろ逆。怖しい妖怪です」
「どういうことですか」
「遠野の座敷童衆は土地に憑きます。その土地の家に身を寄せることがしばしばありますが、たしかに座敷童衆が棲む家は裕福になります。しかしある日、ぷいっと出て行ってしまう。それからが怖しい」
「座敷童衆が出て行くと没落するという話は聞いたことがあります」
「一家離散なんてものじゃありませんよ。家族全員、死に絶えます。茸の毒にあたってみな死んだという話もあります。そのとき家を離れていて助かった子もいましたが、他の家に引き取られるも、ほどなく亡くなっています。座敷童衆が去った家にもたらされる厄災は容赦ありません」
ふう、と語り部は小さく肩を落とした。
「だから下手に手を出さず、放っておくのです。たとえ見かけることがあっても、あまり近づかない方がよろしい。懐かれたら大変なことになります」
「では座敷童衆を牢かなにかに繫いでおかなきゃなりませんね」
「そんなことをさせないために、ふだん座敷童衆は姿を見せないのです。しかも別れ際に家人へお別れを告げることもしません。座敷童衆が去った日、家人がその姿を見たという話はひとつもありません」
「……厄介な話ですね」
私は唸った。
裕福な生活は歓迎だが、極端な不幸が隣り合わせになっている。しかも予兆がないので対処することもできない。ある日突然、家族全員がこの世を去る。
「それでは、むしろ座敷童衆を家に寄せ付けない方が良いのでは。裕福な生活を求めることは無理からぬことですが、リスクが大きすぎる。座敷童衆に頼るというのは他力本願ですし、もしかして座敷童衆は『他人に頼らず、自分の力でなんとかしろ』という教訓を知らしめる妖怪なのでは」
「それは面白い解釈だ」
ほっほっ、と語り部は笑ったものである。

幸いにして、今回訪れる座敷童衆の地は二戸の方だ。座敷童衆は家や土地に憑く。特定の人に憑くなんて話は聞いたことがないので持ち帰ることもないだろう。
盛岡で新幹線からローカル線に乗り換える。車窓を流れていく厚い雪に覆われた田園風景を眺めながら、昼食として買った弁当を頰張った。
金田一温泉駅の改札は東側にある。改札を抜けると待合室があり、隅の本棚に寄贈された書籍が収められていた。見覚えがあるタイトルが並んでいたので興味を持った。
いずれも新人賞の受賞作だ。もしかしたら著者か担当編集者が願掛けに訪れたのかもしれない。
一冊を棚から抜き出して表紙を開くと。紙片が落ちた。
拾い上げてみたら『謹呈』の文字。寄贈本だ。
やはり著者が訪れていたらしい。作家としての新たなスタートに際し、座敷童衆がもたらすという幸せを乞う気持ちはよく分かる。
私は本を閉じ、書棚に戻した。
宿へ連絡して送迎をお願いしようかと携帯電話を取りだしてから、ふと思い直した。
地図を確認する限り、宿はそれほど遠くない。途中で勾配のある雪道になるが、ぶらぶら歩いても一時間はかからない。たまには都会では味わえない雪山の空気を味わってみたい。幸い雪は降っていないし、寂寥感が湧いてきたら、それを楽しむのもいい。
うつ状態になってから、服用している薬の効果かもしれないが、いつでも頭が凪いでいる。これが気分的に良くない。感情に起伏が起きるなら、むしろ歓迎だ。幸いにして周囲に人がいないので、迷惑をかけるようなこともない。
私は歩くことにした。健康のためには、一時的に身体へ負荷を掛けることも必要だ。
駅前広場を抜けて、左に折れる。通りには人も車の姿もない。
ほどなく馬淵川に架かる橋が見えてくる。橋を渡って右に折れると、ゆるやかな登り道になった。あとは一本道なので、右手に馬淵川の水面を望みながらのんびり歩く。
空気は冷たいが旨い。これだけでも、この地を訪れた甲斐があるというもの。夏場なら蛙の声が響いているのだろうか。
「……いいところだ」
思わず感嘆の溜め息を漏らしたときだった。
子どもの声が聞こえたような気がした。右手だ。眼下には馬淵川しかない。しかも雪が積もっている。足跡なんかどこにもない。
空耳かと訝しみつつ、耳を澄ます。
「きゃっ、きゃっ」「あー」「くすくす」
男の子なのか女の子なのかも分からない。しかし、たしかに聞こえる。
周囲を見渡したが、やはり子どもの姿はない。子どもが遊べる場所も見当たらない。川辺には手つかずの積雪しか見えない。ただ流れる川の水面が小さく躍っている。
二、三人だろうか。子どもたちの騒ぐ声が小さく耳に響く──。
そして気づいた。
声が小さすぎやしないか。
子どもたちがはしゃぐ声は、周囲に響くものだ。ただでさえ子どもの声は高いので、よく通る。男の子か女の子なのかも判別しづらいほどだ。
なのに、小さい。耳を澄ませなければならないくらいだ。
私は職場で体験した幻聴を思い出した。
仕事中に、同期の声を聴くことがあった。知った声なので、慌てて周囲を見渡す。しかしその姿はない。その後、家族の声を耳にするにあたって幻聴だと自覚した。職場に家族がいるわけがないからだ。
感覚ではなく、理屈で理解した。そのときの衝撃といったら──。
それだけではない。帰りの電車の中で、別の可能性があることにも気づいた。
はたして体感している幻覚は、幻聴だけか。自覚していないだけで、実は空耳だけでなく、空目も体験しているのではないか。
もし空目を経験していたとしても、それを自覚できないことが、ままある。
たとえば職場に同期の姿を見かける。同僚でもいい。けれど、その人が「いま職場にいないはずの人」だったとしたら。社員ではない知人を職場で見かけていたとしたら。しかも自分が「その人が職場にいるのはおかしい」と判断できない状態になっているとしたら──。
背中に怖気が奔る。
この考えは不幸にも的中していたらしい。私の奇行を問題視した上司が、健康管理センターへ連絡して、職員と面談させたのだ。
その後、強制的に病休を言い渡されたのは前述した通りである。
「あなたの笑った顔が嫌いなんですよ」
面と向かって言い放った上司は幕引きまで務めてくれた。
組合が調査に来ることもなかった。会社側の説明をそのまま吞んだとなれば一方的すぎやしないかと、あとから思った次第である。
まあ現実なんてこんなものだ。
我に返った私は、呆然として馬淵川を見下ろしていた。
子どもたちの声は聞こえない。
私はハンドタオルで顔の汗を拭い、再び宿への道を歩き出した。
チェックインが始まる十分前に宿へ着いた。駐車場にまだ車はない。
外の自販機で熱い缶コーヒーを飲んでいるところに声を掛けられ、「予約客です」と話したら、「どうぞ中へ」と促された。
手続きを済ませてから部屋で一服し、一番風呂を楽しむ。風呂あがりに近場の神社を詣でて、座敷童衆が出るという広間でごろごろする。まだ客は自分一人だけだ。
天井が高い。広間には子どもの玩具や着物などが飾られている。この宿に出るという座敷童衆は男の子なので、独楽や凧などが置かれている。
「こんなに玩具があっても、遊び相手がいなくちゃ寂しいよなあ」
誰もいない広間で零した。
ふと独り呟く自分の姿にばつが悪くなって、広間をあとにした。
驚いたのは、そのあとの夕食だった。
案内された場へ座ると、簾が下ろされて、卓に並んだ料理を前に一人きりになった。初めての経験だった。
──どこのお大尽だよ。皇かよ。こちとら下町生まれの庶民だぞ。小学生の頃は、生活費のために母が足踏みミシンで繕い物の内職をしていた。中学生時代は、学校では禁止されていたが、新聞配達のアルバイトで小遣いを賄ってきた身だ。こんな豪奢な扱いは一生に一度ではないか。藤ノ宮、あいつはいつもこんな宿に泊まっていたのか。
大きく深呼吸して、箸に手を伸ばす。並んだ料理と時間に舌鼓を打つ。
実に旨かった。これまでの人生で口にした料理の中で五本の指に入る。藤ノ宮から「仰天するほど旨い」と聞いていたが、まさかこれほどとは。
予想外の満足感とともに部屋へと戻った。
勾配のある雪道を歩いたので疲れていたらしい。布団の上で横になると、猛烈な睡魔がおそってきた。消灯して布団に潜り込んだら途端に意識がとんだ。
とた、とた、と誰かが走り回る足音で目が覚めた。
暗がりで枕元の腕時計に手を伸ばし、バックライトを点けて盤面に目を凝らす。
深夜零時。針がぴたりと揃っている。
上の方から足音がする。暗くてまったく見えないが、上の部屋で子どもが走り回っているようだ。
はて迷惑な、と思って掛け布団をたぐり寄せたときに、眠気が吹き飛んだ。
部屋に誰かいる。
強烈な気配だった。場所を探るために感覚を研ぎ澄ます。
上だ。まさに足音が聞こえているところだ。
とたとた、と足音がする。布団の上、天井のあたりを走り回っている。
なぜ最初に上の部屋だと思ったのか。
足音は畳を踏む音ではなかったからだ。この『ぼたん』の部屋は畳部屋だ。なのに足音は板敷きを裸足で歩いているような音なので、別の部屋だと思ったのだ。
……この部屋に二階部分はあっただろうか。
しかも、と思い出す。今夜の宿泊者に子どもはいなかった。夕食のときに周囲を見渡したが、談話室でも見かけなかった。一組だけ子ども連れがあったが、母親に抱っこひもで胸に吊られた当歳児が一人だけで歩けるはずもない。
今夜、この宿で歩き回るような子どもはいない。
途切れがちだが、足音は続く。とたとたと歩き、少し休む。
起きたかな、とまるでこちらの様子を窺っているようだ。
足音は軽い。大人ではない。足の動きも幼稚園児を想起させる。
まさか天井板を逆さに歩いているのかと考えて目を凝らすも、やはりなにも見えない。
足音の位置が妙だ、と気づく。
高さがおかしい。明らかに天井より下を歩いている。約四十センチ下方なのだ。もしその高さを歩いているならば、頭が天井を突き抜けてしまうではないか。
子どもなら、胸から上の部分が天井を突き抜けて消えている。あまり想像したくないが、がぜん興味が湧いた。
とた。とたとたとた。
立ち上がって手を伸ばせば届くような場に、誰かがいる。小さな子どもが歩き回って、こちらの様子を窺っている。
どうやら遊びに来てくれたようだ。
しかしどう対応したらいいやら分からない。
……立ち上がって足を摑もうとしたら嫌がるだろうな。では足の裏をくすぐるというのはどうだ。
見えないというのも困る。
やおら布団から抜け出して、脇の柱に沿って起き上がる。柱の横には室内灯のスイッチがある。
足音は途切れがちだが続いている。音が遠かったり、くぐもっていたりしたら別の部屋だと思えるのだが、こうも目の前ではっきり聞こえると疑いようがない。部屋の壁にしっかり反響しているらしく、音の場所まで推測できる。
そこにいるはずだと見当をつけて闇を見据える。スイッチに触れている指に力を籠める。
瞬間、闇が消えた。
蛍光灯に煌々と照らされた十二畳半の部屋で、私は一人立ち尽くした。
気配は無い。足音も聞こえなくなった。
子どもは帰ってしまったらしい。一緒に遊んでやれなかったことが返す返すも残念だ。
しかし、いったいどうすれば良かったのかわからない。
帰りに宝くじを買った。
幸せの時間は短い。私はよく知っている。有効期限はたぶん本日までだ。今日中に抽選されるものはないかと売り場で訊いたら、ミニロトがあると言われた。自分で数字を選ぶものだそうだが、私は運を天に任せてクイックピックという自動選択方式で二千円分を購入した。
このときの当選金額は、いまのところ私の人生で最大のものである。



嶺里俊介(みねさと・しゅんすけ)
1964年、東京都生まれ。学習院大学法学部法学科卒業。NTT(現NTT東日本)入社。退社後、執筆活動に入る。2015年、『星宿る虫』で第19回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、翌16年にデビュー。その他の著書に『走馬灯症候群』『地棲魚』『地霊都市 東京第24特別区』『霊能者たち』などがある。