軍隊ごっこで美女を拉致。中二病こじらせた「死の尻バット暴君」

文字数 2,982文字

暴れすぎ将軍、舟遊びに死す。

《明》正徳帝(1491~1521) 

正徳帝(朱厚㷖)は明の11代皇帝。廟号は武宗である。


正徳帝は幼少のころから頭脳明晰。仏教梵語に通じ「天資聡明」とうたわれた。武芸も好きで特に騎射に優れていた。将来を期待された皇太子であった。


しかし、父の弘治帝が崩じ15歳で即位すると、正徳帝は政務の一切を宦官に任せ、遊びまくる。即位直後からチベット仏教に傾倒し「大慶法王」を自称。皇城の西苑に「豹房」という怪しげな寺院を立てさせ、そこに閉じこもった。


しかし、宗教的な禁欲とは無縁であった。寺院と言ってもその周辺には多くの建物が建てられ、そこにお気に入りの宦官や僧侶、そして美女を集めた。珍獣も飼われていた。大道芸人や芝居の一座も度々招かれた。正徳帝はこの豹房であらゆる遊興淫楽に耽ったのである


中でもお芝居に夢中になった正徳帝は、自らが脚本・主演したお芝居を披露して悦に入っていた。お気に入りの役者に高い官職を与えたりもしている。


正徳帝は「お店ごっこ」も好きだった。豹房内に仮想の市場を作り、宦官や妃たちに商店主を演じさせ、売り声を上げさせる。正徳帝自身も商店主になったり、妓楼を訪れた富豪の役をしたりして楽しんだそうだ。


本邦でも江戸時代、尾張藩の広壮な下屋敷(現在の新宿区・都立戸山公園の周囲)に、小田原の宿場町を模したという「御町屋」なるものがあった。小規模だが、実物大で宿場の街並みが再現され、雇われた近隣住民が商店主などを演じた。


貴人専用の「〇〇江戸村」とか「〇〇映画村」みたいなものである。徳川第11代将軍・家斉もこの御町屋がお気に入りで、たびたび御成りになっては植木屋で花を買ってお土産にしたりしている。暢気な話であるが、籠の鳥であったろう将軍様が、少々哀れにも思えてくる。


しかし、正徳帝は皇太子の頃から市街を微行(庶民に身をやつして城外に出て、お忍びで街を歩くこと)することがしばしばであった。家斉とは違って、本当の市場も歩いていたはずだ。部下とともに遠出して美女を拉致してくることもあったともいう。全然哀れではない。


「徳川将軍」で思い出した正徳帝の逸話をもう一つ。


正徳帝はある日、国民に豚肉を食べることを禁じるお触れを出した。その理由と言えば「自分の干支は『猪』(中国では豚を指す)であり、姓の『朱』は『猪』と同じ発音である。だから豚を殺しても食べてもいけない」というものであった。


幸い、家臣らの必死の諫言もあって、この命令は沙汰やみとなった。正徳帝に仕えるイスラム教徒が、干支に絡めて豚肉食の禁忌をすすめたことが発端とも言われる。ちなみに、宋の徽宗(徽宗の回を参照)も、自分が戌年なので、犬肉食を禁じるお触れを出している。


正徳帝が遊んでいる間、宮廷や朝政を牛耳ったのは宦官たちであった。そもそも、皇太子時代の正徳帝に悪い遊びを教え、甘やかしたのは宦官たちであった。政務に熱心な名君の下では、宦官は後宮の召使いに過ぎない。暗君は大歓迎なのである。


中でも劉瑾という宦官の専横はすさまじかった。皇帝のお気に入りという立場を濫用して賄賂政治を行ったため、国は乱れに乱れた。当然、多くの反発を買ったが、スパイを使って官僚たちを監視、弾圧を行うことで、自分の権力をさらに強めていく。


ついには劉瑾は帝位簒奪を企むようになる。しかし、この企みは密告によって発覚し、劉瑾は凌遅刑に処された。凌遅刑については詳述を避けるが、劉瑾は3357刀で息絶えたと記録されている。


死後、没収された劉瑾の資産は、明の年間国家予算の10倍に及んだという。「劉瑾に簒奪の企みあり」という報告を受けた際、正徳帝はいつものように酒に酔っていた。そして「そんなに皇帝になりたいのなら代わってやろうか」と言ったという。刹那主義的な人だったのかもしれない。


これくらいの頃から、正徳帝は「軍隊ごっこ」にハマり始めた。正徳帝は「総督軍務威武大将軍総兵官・朱寿」と自称して、宮城内で軍事演習などをして楽しんだ。「朱寿」は自分でつけた将軍ネーム?である。


しかし、次第に演習をするだけでは飽き足らなくなってきた。そこで、家臣たちの制止も効かず、大軍を揃えて実際に北方に「親征」してしまった。


しかし、「親征」と言ってもそこに大した敵はいないのである。小競り合い程度しか起こらなかったようだが、正徳帝は大まじめに「陣地を構築する必要がある。至急カネを送れ」と北京に使者を出している。


そして、正徳帝は戦争のもっとも唾棄すべき部分まで模倣した。軍とともに村々を襲い、美女がいればこれを誘拐、陣中で犯したのである。


「凱旋」した正徳帝は、「朕も敵を一人斬り殺したぞ」と上機嫌だったという。そして、「総督軍務威武大将軍総兵官・朱寿は北方の異民族を追い払った。その功績は大きいので、新たに『鎮国公』に封じ、給料を上げるべし」という内容の勅書を出した。


こんな状態だから、各地で反乱が起こるようになる。中でも皇族の朱宸濠が起こした「寧王の乱」は南昌(現在の江西省にある都市)を本拠地とし大規模であったが、有名な王陽明(王守仁)の活躍によって鎮圧された。


「反乱は鎮圧された」という報告が朝廷にも届き、ホッと一安心、となるはずだったが、なぜか正徳帝はここからイキリ立つ「朕が親征して反乱を鎮めるぞ」と言い出したのである。


家臣たちは懸命に制止した。当たり前である。すでに反乱を鎮圧され、朱宸濠は捕縛されている。


以前から正徳帝は南方への行幸を希望していたが、家臣たちの反対を受けて実現していなかった。そのため、この反乱を南方行きの好機と考えたのだろう。正徳帝は諌止する家臣たち146名に「廷杖」の罰を与え「親征」を強行した。


「廷杖」とは咎を受けた人のお尻をむき出しにし、こん棒で叩くという刑。「悪戯するとお尻ペンペンだよ」というような生易しいものではなく、10回も叩かれれば尻は血みどろ。30回も叩かれれば死ぬ者も出るという過酷なものであった。事実、この146人のうち11人が死んだ。


今度は「鎮国公奉天征討威張武大将軍」と称した正徳帝は、2万の兵を率いて南京に親征。謀反人逮捕の式典(?)を行ってご満悦であった。


これは朱宸濠をいったん釈放し、これを正徳帝が改めて捕縛するというもの。まあ茶番である。朱宸濠もオーディエンスも表情の選択に困っただろう。


1520年、正徳帝が小舟に乗って遊んでいると、この船が転覆。この時は救助されたが、息も絶え絶えの状態。さらに、これがもとで肺を患って病臥。翌年、豹房で亡くなっている。「鎮国公(以下略)」の、いささか尻すぼみな最期であった。31歳。


「暗君あるある」だが、正徳帝は、崩御の直前に「罪己詔」(徽宗の回を参照)を出している。その内容といえば「朕のやってきたことは全部間違いであった。朕も心を改めるからみんなも頼むよ」というようなもの。手前勝手だし、手遅れである。


意外なことに、正徳帝は、後世に作られたのお芝居や物語の中では人気者である。江南に微行して旅館の娘に一目ぼれしたり、「ドジョウ豆腐」なる料理に舌鼓を打ったりするなど、大活躍だ。芝居好きだった正徳帝には、まず本望なことだろう。

『中国史談集』澤田瑞穂/著(ちくま学芸文庫)

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