はじめての春⑦

文字数 1,214文字

 よし、次の五回終わりの整備は、必ずや役に立ってやると、息せききってグラウンドに飛び出したはいいけれど……。
「全然、わからないよ……」
 しゃがみこんでグラウンドに目をこらすのだが、まったく勾配が見えない。目を細めたり、上半身を後ろに倒してみたりするけれど、ただの平らな空間が広がっているようにしか見えないのだ。ましてや、どこからどこへ土が移動しているのか、どこからどこへ土を戻せばいいのかも、まったくわからない。
 そりゃそうだ。すぐにわかるほどのあきらかな坂がグラウンドにできていたら、野球どころではなくなってしまう。ほんのわずかの勾配だからこそ、球場として成り立つのだ。
「三年の経験かぁ……」
 入社一ヵ月で、ようやくその年数の重みがわかった。とんでもない職場に来てしまったと、俺は外野スタンドを見つめた。
 向かって右側は阪神ファンの黄色、左側の一部は巨人ファンのオレンジ色に染まっている。ひらがな表記の選手名がならぶバックスクリーンの背後に、白い雲がぽっかり浮かんでいた。
「何をたそがれとんねん!」
 長谷さんに怒鳴られ、我に返った。グラウンドでは二台のバンカーが走りはじめた。土煙をあげながら、一気にグラウンドを平らに均していく。
 作業のテンポが速すぎて、ついていけない。職人の世界だからなのか、自分で仕事を見つけて動かないと、たちまち置いてきぼりにされてしまう。ふたたび手持ちぶさた地獄(じごく)におちいりかけたとき、甲斐さんに呼ばれた。
「おい、雨宮! ライン引き直すの手伝え!」
 飼い主に名前を呼ばれた犬さながら、よろこびいさんで、()けよった。
 甲斐さんから水糸を受け取り、フェアゾーンとファウルゾーンの境目(さかいめ)に真っ直ぐ張る。この糸の直線を頼りに、甲斐さんがライン引きを動かし、白い石灰(せっかい)を落としていく。俺はといえば、しゃがみこんで水糸を地面に固定するだけの補助的な作業に終始した。
 こんなの誰でもできる。悔しさがこみあげてくるのと同時に、広いグラウンドのなかで浮かずにすんで救われたと感じている。そんな自分が、どうしようもなく救いがたい。長谷さんは向上心のかたまりみたいな人で、入社二年目の今もどんどん新しい仕事を吸収していくのに、俺はこうして簡単な仕事に嬉々として飛びついている。
 トンボに三年、散水に三年、すべての仕事をマスターするのに十年──。
 このままじゃ、この道を(きわ)める前に、ただでさえトロい俺は、すっかりおじいさんになってしまうと、(あせ)りが(つの)っていく。


続きは『あめつちのうた』(講談社文庫)でお楽しみください!

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