綿野恵太「フォーク並びとポピュリズム」
文字数 2,217文字
町田康の小説「河原のアパラ」には、フライドチキン店でフォーク並びを勧める男が登場する。
それぞれのレジに並ぶと、レジごとに列が進むスピードに差が出る。まずは一列に並んで空いたレジに進んでいくフォーク並びであれば、待ち時間も短く済む。
しかし、客はレジの前で「もごもご蝟集するばかり」で、男は「狂人」と見なされ、「邪魔なんだよ、退けよ、馬鹿野郎」と突き飛ばされる。
「順序」へのこだわりは『告白』にも登場する。
やくざ者の熊太郎は知人から預かった牛をようじょこ(爪切り)に連れて行くが、狭いようじょこ場は「牛が犇いて、げしゃげしゃ」になっている。牛の扱いに慣れない熊太郎がようじょこ場を出ようとしたところ、橋の上で百姓と口論になる。ようじょこ場には牛が新しく入れるスペースの余裕はない。しかも、そこに行くには狭い橋を渡る必要がある。
だから、まず出る人間が橋を渡るのを待って、ようじょこ場に入らなければならない。熊太郎が主張するのは、よく知られる電車マナー「降りるひとが先」と同じである。しかし、そのような理屈を解することなく、百姓は橋のうえに突っ立ったままだ。
結局、熊太郎は無理やりすれ違おうとして失敗。牛を橋から落として殺してしまう。
「俺はなあ、もっと全体のこと考えとったんや、全体のこと。それをおまえあいつが後先考えんとぐんぐんようじょこ場入ってくるさかいこんなことなんにゃんけ」
町田の小説の登場人物は「げしゃげしゃ」にたいして、「全体」を考え、合理的な「順序」を主張するのだが、その主張はまったく相手にされず、数の力で押し切られてしまう。
最近、鉄道会社がエスカレーターの歩行禁止・両側立ちを推奨している。
たしかに歩くひとのために片側を空ける習慣のせいで、乗り口に長い行列ができている。両側に二人ずつ乗るほうが効率的だし、安全でもある。合理的だ。しかし、各社の啓発活動もむなしく、歩行禁止・両側立ちが定着しないのは、町田が小説に描いた現実を見落としているからである。
つまり、「全体」を見渡して「げしゃげしゃ」を「順序」付ける存在も、「げしゃげしゃ」のなかのひとりでしかなく、そのような存在は少数派であるために、「げしゃげしゃ」の怒りを買い、排除の対象となる、ということだ。
エスカレーターの両側に二人ずつ乗ることは、それほど労力が必要なことではない。いままで慣れ親しんだ習慣をかえることに抵抗を覚えるのだろう。しかし、新しい行動が多数派に認められ、一度習慣として定着すれば、なぜそこまで抵抗していたのか、と不思議に思うぐらい、簡単なことなのだ。
しかし、町田康が描くように、習慣をかえる最初のひとりは「馬鹿野郎」と罵られ、「狂人」と見なされてしまう。
政治学者の水島治郎によれば、ポピュリズムとは、エリートに対する民衆による民主主義的な運動であるとされる(『ポピュリズムとは何か』中公新書、2016年)。エリートにないがしろにされた「『サイレント・マジョリティ』に政治参加の機会を提供する」いっぽうで、「多数派原則を重視するあまり、弱者やマイノリティの権利が無視される」危険性があるという。意外な感じがした、というのは、エスカレーター少数派の知り合いがポピュリズムにコミットするとき、片側を空けて立ち続ける多数派の民衆と、どう折り合いをつけるのか、とまず思ったからだった。
が、こちらの勝手な連想を許してもらえれば、こう解釈できる。エスカレーターの歩行禁止・両側立ちを習慣化するためには、みずからが実践するほかない。
しかし、ひとりでは両側立ちはできないので、協力者が絶対に必要になる。だが、片側の空いたスペースに立ち止まるだけで、エスカレーターを歩く人間を押しとどめるバリケードを築くことができる。そのとき、片側にスペースを空けて立つ多数派は、歩行禁止・両側立ちの習慣化に抵抗する桎梏でありながら、習慣化をすすめる協力者となる。
とすれば、知り合いは少数派にとどまりながら、民衆の非合理性をもって、その非合理な習慣をかえようとしたのかもしれない。
ふたりの重度身体障害者が国会議員に選出されたことは、当事者の権利を考えるうえでのぞましい出来事だったが、これまでの慣習に反するという非合理な理由でバッシングを浴びたのだった。