大坂冬の陣 完全ガイド④
文字数 1,602文字
日本の歴史に残る有名な合戦を活写&深堀りして大好評の矢野隆さんの「戦百景」シリーズ。
第7弾は、戦国時代の終焉を飾る大合戦を描いた『戦百景 大坂冬の陣』です!
「戦百景」シリーズとは…
第1弾『戦百景 長篠の戦い』は「細谷正充賞」を受賞!
第2弾『戦百景 桶狭間の戦い』
第3弾『関ヶ原の戦い』
第4弾『川中島の戦い』
第5弾『本能寺の変』
第6弾『山崎の戦い』
と、有名な合戦を深堀りしてリアルタイムで描く、矢野隆さんの人気シリーズ!
第7弾はついに大坂冬の陣!
今回から3回にわたって、大坂冬の陣トリビアコラムを掲載します。
これから読む方にも、読んだ方にもおすすめの、物語をより楽しむための作品ガイドです!
《直接的原因とされる「方広寺鍾銘事件」》
豊臣秀頼が手掛けた方広寺の大仏と大仏殿の再建に際して、同時に梵鐘を鋳造。その銘文に「国家安康」と「君臣豊楽」という文字があったため、徳川家を呪詛し豊臣家の繁栄を祈願するものとして家康が激怒。開眼供養は延期に追い込まれ、徳川と豊臣の間の亀裂が深まって開戦へつながったとされる。
これまでのほとんどの資料で、家康が怒ったことは「いちゃもん」と説明されていたが、最近の研究ではそうとも言い切れないらしい。
問題が発覚すると家康は京都五山(東福寺・天龍寺・南禅寺・相国寺・建仁寺)の僧と儒学者・林羅山に銘文の内容を諮問し、全員が「国家安康」で家康の諱(いみな=実名)を使用していることは不適切だという見解を示し、林羅山に至っては呪詛であると断じている。銘文を選定した南禅寺の高僧・文英清韓は諱を使ったことを認めつつも「祝意」であったと弁明している。つまり確信犯だったわけなので、むしろ豊臣家や開眼供養を仕切った片桐且元らの管理責任を問われてもおかしくない事態だったのだ。
平和を願う「開眼供養」が、関ヶ原以来の大戦に繋がったことは何とも皮肉である。
徳川vs豊臣、そして真田信繁、伊達政宗、上杉景勝、松平忠直らの戦場内外での陰謀や思惑を深掘り!
慶長16年(1611年)。関ヶ原の戦いから11年が経っていた。徳川家康は、後水尾天皇即位を口実に孫婿でもある豊臣秀頼を上洛させ二条城での会見を果たす。70歳になった家康は、19歳の秀頼に我が身の老いを思い知らされ、また世継ぎで二代将軍の秀忠との器を比較して心の闇に囚われてしまう。なんとしても豊臣家を滅ぼさねば。このときすでに、真の意味での大坂の陣ははじまっていたのだ。そして3年後の慶長19年(1614年)、豊臣家が家康を呪ったとされる「方広寺鍾銘事件」が起こる。なんとか東西の手切れを食い止めようとした、秀頼の傅役・片桐且元の奔走も空しく、徳川と豊臣の両勢力は戦への道を突き進んでいった。豊臣恩顧の武将たちも代替わりし、浅野や蜂須賀など豊臣のもとに参じる武将は皆無。他方、大坂城内は関ヶ原で敗れた西軍くずれの牢人たちで溢れていた。その中には真田信繁や後藤又兵衛の顔もあった。かくして天下の決着をつける大戦の火蓋は切られた……。
矢野隆(やの・たかし)
1976年福岡県生まれ。2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞。その後、『無頼無頼!』『兇』『勝負!』など、ニューウェーブ時代小説と呼ばれる作品を手がける。また、『戦国BASARA3 伊達政宗の章』『NARUTO-ナルト‐シカマル新伝』といった、ゲームやコミックのノベライズ作品も執筆して注目される。また2021年から始まった「戦百景」シリーズ(本書を含む)は、第4回細谷正充賞を受賞するなど高い評価を得ている。他の著書に『清正を破った男』『生きる故』『我が名は秀秋』『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』『大ぼら吹きの城』『朝嵐』『至誠の残滓』『源匣記 獲生伝』『とんちき 耕書堂青春譜』『さみだれ』『戦神の裔』『琉球建国記』などがある。