川上未映子×岸本佐知子 『掃除婦のための手引き書』刊行記念対談【後編】

文字数 7,135文字

死後10年を経て「再発見」された作家ルシア・ベルリン。

波瀾万丈の人生をもとに紡がれた作品には、不滅のエネルギーとポエジーがあった――。

稀代の作家と翻訳家がルシア・ベルリンの魅力に迫る。

川上 文章のきっぷのよさは誰に似ているだろうと考えて、一番近いのはフラナリー・オコナーなのかなと思いました。オコナーは社会学をやっていたしクリスチャンでもあるから、どこか個人ではない場所から書いている感じがする。感じたことより考えたことが軸になるというか。


 ルシアはそうではなかったかもしれないけれど、彼女の視線も相まって幼少期を過ごしたアイダホ、ケンタッキー、モンタナやテキサス州のエルパソの町の生活を描くことで、小説としてはおのずと社会性を帯びているんですよね。ある人間がどのような時期に、どのように生きたかをしっかり書けば、社会を照らす。その時の生の息づかいに触れることができるんです。


 でも、オコナーより私の頭から離れなかったのが、実は色川武大だったんです。『怪しい来客簿』を思い出しちゃって。『怪しい来客簿』は連作短篇集で、彼も自身の人生への感触をベースにずっと同じことを書いていきますよね。自分が出会った不思議な人のことをあたかも本当のことのように語っていくうちに、うそと本当の見分けがつかなくなって。


岸本 『怪しい来客簿』、私の座右の書です。


川上 文章のうまさ、対象との切り結び方ですよね。それに、ギャンブルだったりアルコールだったり、その時代の〝凄玉〟のことを書いている。


岸本 待って、スゴタマって何?


川上 えっ、凄玉って言いません? なんか、どこから見ても破格の感じを表す感じ(笑)。色川が見てきた凄玉の出来事、凄玉の人物がいて、それらとの関わりについて書きますよね。毎回同じようなことを書いているのに、でも全部違うんです。この感じがルシアに似ているのかもしれない。


 その他にも、「ドクターH.A.モイニハン」で、歯医者である祖父の歯を「抜けえ!」とか言われて抜くコミカルなやりとりは、太宰治を思い出しました。そういえば、太宰はパビナール、ルシアはアルコールのアディクトがありますね。色川はナルコレプシーだからアディクトとは違いますが。


岸本 なるほど。何か関係あるのかな。


川上 ね、恥のあり方に関係があるのかも。たとえば、自意識だけをモチベーションに書いてきた作家は、自意識を書き尽くして気が済んだら不思議話というか寓話に行くことが多いですよね。簡単だから。無自覚に自意識の変奏として奇譚話を書く。でも書ける内容と射程距離は同じだから「私って、こんな変なこと考えられちゃうんです。ねっ!」みたいな、「ねっ!」ってウインクする感じがずっとある。その感じがルシアには一滴もないんです。


岸本 たしかに。


川上 ルシアの倫理の中心には「恥」がある感じがする。「恥を知れ!」とか「わたしは恥じ入った」とか「わたしは恥ずかしさにうちのめされてうなずいた」とか、「恥」という言葉もルシアはよく使うし。アディクトを経験している人は、圧倒的な肉体の無力さや意志の無意味さに向き合うでしょう。それは、いわゆる認められるとか認められないとかのレベルの、お嬢様的挫折のモチベーションとは違うから。


岸本 たしかに、shameはかなり強い言葉だけれど、彼女の小説にはそれがやたら出てくる。ルシアはアディクトし始めたころに書き始めているんですよね。3番目の夫と別れて、いろいろな仕事をしながら四人の子供たちを育てるんだけど、この頃からアルコール依存症に苦しむんです。


川上 でも、彼女からは、その苦しみをわかってもらいたいというような動機は感じられない。


岸本 じゃあ、彼女はなぜ書いていたんだと思う? 彼女はモチベーションの出どころが謎というか、作家としての動機が他の誰とも似ていない気がして、彼女について考える時にそれってすごく鍵のような気がします。


川上 先ほども言ったけれど、彼女の小説は、気のきいた言い回しとか、パッと言い切る的確な比喩とか高度な技術が披露された後に必ずポエジーが出てくるんですよね。ポエジーは、詩的な表現をしてやろうと頭で考えても絶対に出てこない。形式としての詩は書けるけど、ポエジーは本人の意思じゃないんです。ポエジーが、言葉を狙ってやってくるんです。詩人を狙ってやってくる。語尾とか改行とか調整はできるけど、それはある種の翻訳作業なのであって、一次的には本人を超えたものですよね。


岸本 言葉のほうから来ちゃうのか。それすごく面白い。


川上 そう。作者自身が媒体になっちゃうんです。だから、この短篇集を読むと、ルシアが詩人だということが本当によくわかります。


 最後に収録されている「巣に帰る」の冒頭、ポーチから語り手がただ見ている景色、「朝、その木から飛んでいくところは見たことがないのに、いつも日が暮れる30分ほど前になると、町のあちこちからカラスがたくさんその木に集まってくる」という描写がありますよね。ほんの偶然に気づいたカラスの存在が、語り手に、人生で起きたことと起きなかったこと、そして起きたかもしれなかったこと──人生が一度しかないという事実の中にそっと立たせ、そこから見えるもの、見えなかったもの、見えたかもしれなかったものに収斂させてゆく。これはやはり、詩の仕事だと思います。


 ルシアの小説にはこうしたポエジーがきらめいていて、「いい小説を書きたい」といった自分の欲望のために書いた感じがしない。それよりは、あまりにも複雑な人間関係と時間を生きてきた人だから、それらを別の形にしておきたいという気持ちはあったかもしれない。もしかしたら治療的な意味で。書くという行為には、そういうところもあると思うので。


岸本 それはあったと思う。


川上 でも、そこには自分を慰めたいとか、自分がつらかったんだという憐憫を求める感じは一切ないですよね。ルシアは詩人で、所与のものがあって、ポエジーが彼女を狙ってやってくるの。だから、どうしようもないコインランドリーにでも、ルシアには詩が見えるのだと思う。


岸本 詩人はそういう世界を生きているんですか?


川上 生きています。だから、たとえば「エンジェル・コインランドリー店」の乾燥機を眺めている時間や、「巣に帰る」のポーチから眺める景色に、世界が今このようにあるのだという、それ以上でも以下でもない、啓示のようなエピファニーの瞬間がある。ルシアにとっては、人がいなくて言葉がないそんな一瞬が、本当の生の瞬間だったのかもしれない。空前絶後の作家だと思います。



■日本語がもつフリンジ


岸本 私、翻訳しているときは、作家のことも作品のことも、実は「わからない」と思いながら訳しているんです。むしろ、ある作品を訳す大きな動機として、わからないから訳したいという気持ちがあるんですよ。読んで、ただ面白いと思うだけでは終わらなくて、その奥にもっと何か未知の核というか芯があるような気がして、自分はまだそこに触れていないと感じるんです。


 だから何度でも読み返したくなるし、それが嵩じれば訳さざるを得なくなる。けっきょく作品を訳すというのはもっと深く読みたい、もっと知りたいという欲求の変形なんです。私にたしかにわかっているのは、「この作品は〝ヤバい〟ぞ」だけで、そのヤバさを頭では受け止めきれないし言葉でも説明できない、だから訳すというか。


川上 わからない、わからないと思いながら訳していくなかで、岸本さんは最終的にその〝ヤバさ〟の近似値をとっていく感じですか。


岸本 そうだと思う。わからないままにこのヤバさをヤバいままに伝えたい、という感じ。今日はそのあたりのことを未映子さんがビシビシ的確に言語化してくれて、すごく気持ちいい。


川上 私が読んでいるのは日本語ですが、実際の英語はどうなんですか? 次は翻訳の話を聞きたいな。


岸本 原文を読んだ一番の印象は、とにかく彼女の言葉には無駄がないということです。普通だったら何語も費やすようなことを、パキッとひとっ飛びに言い切る。そしてとてもリズミカル。たとえば「星と聖人」の冒頭近くの、小学校の校庭でいろいろな遊びが繰り広げられるシーンなど、オノマトペや反復を多用して、本当に歌うようです。


 でもね、けっきょく作品のすごさは、多少の翻訳の違いでは、そんなに減らないとも思うんですよね。


川上 増えもしないし、減りもしない?


岸本 そう。本当にすごい作品は、どう訳したってちゃんとすごくなる。だから、私は本当に大したことはしていないんです。訳すときに説明し過ぎないよう気をつけたくらい。いつもなら、ちょっとわかりづらいところはなにがしか工夫をするんだけど、ルシアの作品に関してはそういう親切心はぐっとこらえて、極力説明せず、素っ気ない、放り出すような感じを出すように心がけました。


 例えば「喪の仕事」の中に、語り手の掃除婦が「住人が死んだ家の片付けをしている」という文章があって、最初に訳したときは、「住人が死んでしまった家の片付けをしている」としていたんです。「死んだ」でいいところを「しまった」とつい飾りをつけてしまうんですね。そういった日本語でどうしてもついてしまう余計なフリンジを外していく作業が多かったです。


川上 翻訳をするときは、いつもそうなんですか。


岸本 いや、ルシアにおいてです。ルシアの場合、フリンジがつけばつくほど、彼女から離れていく感覚があって。


川上 翻訳の正誤でいくと、どちらも正しいんですよね。


岸本 正しいです。ただ、きっとルシアが日本語で書いたら、「しまった」とは書かないなという気がして。


川上 直感?


岸本 そうですね。どんな人を訳すときでも「この人がもし日本語で書いていたら」ということを考えるんだけど、ルシアはフリンジがない人だという印象がすごくある。


川上 象徴的な一文ということもありますが、「住人が死んだ家」と「住人が死んでしまった家」では、日本語でも受け取る感覚が違いますよね。ルシアの場合、たしかに「住人が死んだ家」のほうがふさわしい気がする。何が添われるんだろう?


岸本 「死んでしまった」には何か余計な視線が入っているのかもしれない。


川上 「死んでしまった」にすると、その死に対しての語り手の感情がつきますね。「死んでほしくなかった」とか、そういった含みが。


岸本 その含みが、たぶん私の含みなんです。あと、日本語が持っているちょっとした湿度が私にはいつも敵で、もともと日本語は英語より湿度が高いところにもってきて、私は体質的に湿りがちなので(笑)。



■行間から伝わる生命力


川上 具体的な作品の話をすると、私が「これぞルシア極まれり」と思ったのが「ママ」という作品です。


岸本 「ママ」は、訳しながら思わず声が出ましたね。


川上 出てくる女性3人のうち、1人は死んでいて、1人は今死にかけていて、もう1人は満身創痍なわけです。語り手は、ガンで死にかけている妹のサリーと、もう死んでしまったママの話をする。


 この作品は会話が肝になっていて、すごいと思ったのは、「そうね。本当にそうだった。気の毒な、かわいそうなママ。でもね、いまやあたしがママそっくり。生きて働いているみんなのことが憎くなるんだもの。ときどき姉さんにも腹が立つ、だって姉さんは死なないから。ひどいよね」と妹が言う。そうしたら、姉は「ううん。だってそれをこうして言えるじゃない。あたしだって、死ぬのが自分じゃなくてほっとしてるってあんたに言うことができる」と言う。


岸本 こんなふうに書いてしまえる人はちょっといないと思う。でもこのあけすけさ、容赦のなさがこの人なんだと思う。


川上 この会話を書けたら、もう長篇3本分ですよ(笑)。最後も、妹が母親を想って「『もう一度だけママと話せたら。すごく愛してるって、ママに伝えられたら』」と愛惜とも後悔ともつかないせりふを口にするのを聞いて、「わたしは……わたしにそんな優しさはない」と心の中で思う。ここで書かれる「優しさ」に関して、この1行に対して考えさせられることの豊かさたるや。私は本当に興奮しました。


岸本 嬉しい。今日は私、もう聞いているだけでいいや(笑)。


川上 もう今日は岸本さんを帰さないくらいの気持ちですよ(笑)。何かが書かれ、何かを読むことの喜びの一つに、当たり前と思っている言葉や意味を変質させることがありますよね。その言葉の持つ意味をひとつ新たにつけ加えることで、あるいは変革させることで、初めてその言葉に出会う感じというのかな。そんなことが、ルシアの短篇には炸裂しているんですよね。


岸本 そうか、言葉の意味が更新される、というのは優れた作品のいい定義かもしれないですね。


川上 書かれるキャラクターがどういうところで読み手に理解されたり、共有されたりするかを書き手は常に考えるんです。どこをどう書けば、キャラクターを認識させられるのか。


岸本 認識というのは?


川上 人物造形の場合、例えばレイモンド・チャンドラーは人物が登場すると、頭から爪先まで描写しますよね。髪はブロンドで、ガウンを着て、立ち姿はどうでどんな仕草をしたか。外堀から埋めていくタイプですね。キャラクターを登場させるとき、作家それぞれに傾向があるように思う。


 その意味で、本当に忘れられないのが「沈黙」という作品です。「わたしは階段の上のコンクリートで独りでジャックスをやりながら、お隣のシリア人の女の子がこっちにおいでよと言ってくれればいいなと思っていた」という一文の感じが、もうたまらない。


岸本 たしかに。これで何となく彼女の気持ちがわかる。


川上 これだけで彼女の感受性と置かれた立場が、すっと伝わります。しかも子どものときに感じていた気持ちというのは、そのとき言葉にできないから、「淋しい」に類する表現に落とし込まれることが多い。でも、その「淋しさ」から離れて同時に語り手の繊細さと物語のトーンを読者に伝える。こう書けるのはやっぱりすごい。


岸本 そうか、これが「淋しい」の言い換えなんだ。


川上 「言ってほしかった」ではなくて、「言ってくれればいいなと思っていた」。こんなふうに子ども時代の感情を迎えに行けるのかと。ため息が出ますね。


 でも、いくらルシアの作品の凄玉の部分を言えたとしても、リディアが言うように、それで彼女の作品をわかったということにはならないし、ましてや彼女自身をわかったことにもならない。でも、全体を通してルシアという女性のタフネスはどうしようもなく伝わってくる。アディクトや人間関係、あるいはもっと別の何かに、根こそぎ引きずり回された人しか立てないところにいる。


岸本 ルシアの生い立ちを考えると、アディクトの前も地獄だったと思うけれど、それでも壊れなかった。そこに彼女の何かがある気がする。だって、悲惨な話を書く人は結構いますよね。私が訳したことのあるトム・ジョーンズという作家は、アマチュア・ボクサーから海兵隊に入るけれど、持病のてんかんが理由で除隊するのね。身体的に傷ついたり、精神的にも病んだりとかなり過酷な経験を作品に書いた人です。やっぱりアディクトがあって、ルシアも彼とちょっと似たテイストはある。でも翻訳している最中の私の肌感なんだけど、何かずっと花のにおいがするんですよ。そこが決定的に違った。


川上 ルシアが?


岸本 そう。彼女の文章は訳していて、行間からときどきふわっと花のにおいがする。


川上 どんな花なんだろう。


岸本 何かな。派手な花ではないんだけど、強い、というか漢字だと勁いイメージの花。なんだろう、これはエネルギーのにおいなのかな。


川上 ジェンダーで括るつもりはないけれど、ルシアは子どもを4人産んでいますよね。しかも幼少期の性的虐待もある。生命力というか体幹の強さというか、ルシアの肝の据わり方は多くの作家とちょっと違うのかもしれない。そう思うと、やっぱりルシアがお花のにおいがするのは、その生命力のようなものに通じていて、「私たちにはどんなにむちゃくちゃにされても、奪い切れないものがある」ということじゃないかな。


岸本 うん、そうですね。


川上 ルシアからは絶対に奪えないものがあったという感覚が、小説に現れている。話せば話すほど、会ったこともないルシアが好きになっちゃうね(笑)。


岸本 強さが勝っているんだよね。「強さが勝っている」って、もう日本語が壊れてるけど。


川上 もちろん、ルシアが何と闘っていたのかはわからない│アルコールかもしれないし、貧すれば鈍するときに人間をめがけてやってくる災いかもしれない。だけど彼女を犯した人間にも、蝕んだアルコールにも、貧困にも、何ものにも奪い切れなかった彼女のエネルギーがそこにあるような気持ちにさせる。


 この度、ルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』が岸本さんの翻訳で私たちに届けられたことは、本当に素晴らしいことだと思います。



(2019年6月6日 講談社にて)

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川上未映子(かわかみ・みえこ)】

作家。著書に『夏物語』『ウィステリアと三人の女たち』『乳と卵』『ヘヴン』『すべて真夜中の恋人たち』『愛の夢とか』など。


岸本佐知子(きしもと・さちこ)】

翻訳家。訳書にジョージ・ソーンダーズ『十二月の十日』、ショーン・タン『セミ』、リディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』、編訳書に『楽しい夜』、著書に『ひみつのしつもん』など。

撮影/森清

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