『ゾンビ3.0』/石川智健 発売前試し読み!<2022年10月19日発売>
文字数 22,013文字

一日目
光が弾け、薄い瞼に覆われた瞳の虹彩が縮む。
朝だ。意識の覚醒と同時に思う。
香月百合は、あと五分で鳴る予定の目覚まし時計のスイッチを切り、大きく伸びをしてから、眉間に皺を寄せた。
寝起きのためか、目が霞んだ。いや、ここ最近、視界がぼやけることが多くなった。ドライアイかもしれない。腰と肩にも痛みがある。ただ、日常生活に支障をきたすほどではなかった。
快晴の日曜日。
ベッドのマットレスを掌で押す。評判の良い低反発のタイプに買い替えたが、これといって身体の痛みは改善されてはいない。やはりデスクワークと運動不足が祟っているのだろう。
大きな欠伸をしてから起き上がり、朝食の準備をする。食パンと、昨日コンビニで買ってきたサラダの残りをテーブルに並べ、紙パックのアイスコーヒーをコップに注ぐ。一人暮らしは気楽だが、味気ない。二年前に他界した母の料理を懐かしく思いつつ、イチゴジャムを塗りたくった食パンを頰張る。
テレビのリモコンを手に取り、チャンネルをニュースに合わせる。東京都中野区で発生した殺人事件について、ボブカットの女性アナウンサーが伝えていた。発生は二日前。金曜日だ。親子を殺害した犯人はまだ見つかっていないという。最近、殺人といった凶悪犯罪をニュースで耳にすることがやけに多くなった。
『凶悪犯罪件数は、ここ一年で急増しているといっていいでしょう』
社会学者という肩書きを持つコメンテーターが、真剣な表情で言った。
『昨年と比べても、犯罪が圧倒的に増えているんですよ。やはり、日本での貧富の差が大きくなっていることや、道徳意識の欠如、それにコミュニケーション不足からなる孤立化などが影響しているのかもしれません』
フリップボードに描かれたグラフが映し出される。凶悪犯罪件数の推移だった。一番古いのが五年前。三年ほど前から殺人や強盗といった凶悪犯罪が少しずつ増えており、今年は顕著に多くなっていた。
世も末だなと思いつつ、チャンネルを変える。野生の熊がマスカット畑を荒らしている映像が流れていた。後ろ足で立ち、マスカットをもいで口に運んでいた。器用だなと感心する。
腕を回す。
肩の痛みが酷くなっている。迷ったが、鎮痛剤を二錠飲み、空になった皿をキッチンのシンクに置いてから身支度を整え、家を出た。
木場駅から職場までは電車で二十分。日曜日の朝なので、平日は混雑する東西線も空いていた。
リュックサックから文庫本を取り出して読む。この時間しか本を読む暇はなかったが、半月で一冊のペースで読むことができた。隙間時間の有効活用だ。
早稲田駅で降り、歩道を進む。左手に現われた大学キャンパスにいる人も、電車内同様に少なかった。
職場である予防感染研究所は新宿区戸山にあった。隣接する建物は、国際医療研究センターと、有名私立大学。昼休みには戸山公園を散歩することもできる。新宿駅は徒歩圏内ではないものの、仕事を終えた所員たちが飲みに行くエリアだった。首都東京の中心地にあるので、どこに行くにも不便はなかった。
正面玄関に到着する。駅から徒歩で十分だったが、夏の日差しを一身に浴びていたので、シャツが背中に張り付いていた。
白い外観の、遊び心が一切ない構造物。
先日始まった建物の改修工事によって、敷地を覆うように仮囲いが施工されている。今日は日曜日なので職人の姿はないなと思いつつ、職員証で正門隣の扉のロックを解除し、通り抜ける。背後で、扉がロックする音が聞こえた。正門同様、土日と祝日は職員証なしでは出入りができなかった。
敷地内を歩き、ガラス張りの自動ドアを抜けて本体棟に入る。このときも、職員証は必須だった。管理室の窓越しに座っている管理人に会釈をする。
「休日出勤、大変ですねぇ」
椅子に座っている管理人の市川が声を掛けてくる。好好爺然とした風貌だが、矍鑠としており、若々しい。現に、内臓は丈夫らしく、ステーキ食べ放題の店で一キログラムを平らげたと自慢していた。話し好きの老人。会社を退職後、ビル管理会社に再就職したと世間話をしている中で聞いたことがある。平日は管理人が数人詰めているが、今日は一人のようだ。
帽子を取った市川は、豊かな銀色の髪を搔き上げた。着ている制服の胸には、大手ビル管理会社の社名が書かれたワッペンが付いている。
「月曜が休みになりますし、仕事も捗るので意外に好きなんですよ。休日出勤」
本心からの言葉だった。一ヵ月に一度ほど回ってくる日曜当番は、同じ研究室内の上司も同僚もいないので気楽だ。平日だと雑事を任されることもあるが、この日は自分の仕事に集中できる。
「それに、休みの日にすることもないですし」
一緒に出かける友人も、吞みに行く同僚もいなかった。昔から友人は多くなかったが、社会人になってから、友達付き合いということをしなくなった。一人でいる時間が好きだったというのもあるが、単純に、スケジュールを合わせるなどの面倒なことから逃げていたら、こうなってしまった。
「スケジュール帳には、仕事の予定しか書いていませんし」
自虐ではなかったが、市川にはそう映ったのか、少し困ったような表情を浮かべる。
「そうですかぁ、良い人が見つかるといいですねぇ」
──良い人?
一瞬、なにを言っているか分からなかったが、すぐに合点がいく。
香月は苦笑いを浮かべた。
「いや、まぁ……」
たしかに、付き合っている人はいないし、もう三十歳が見えてきているので、浮いた話の一つでも欲しかったが、今のところそういった機会に恵まれてはいなかった。
苦笑いを浮かべた香月は、肩をすくめてから管理室を離れる。
ロビーの受付は空席で、平日なら頻繁に行き来する人影もなく静かだ。この静寂が好きだった。
館内は二十四時間空調管理されており、涼しい。香月は額に浮かんだ汗を拭い、自分が所属する研究室に向かう。
予防感染研究所は、本体棟と別棟に分かれており、渡り廊下で繫がっている。本体棟は、バイオセーフティーレベル2、通称BSL2以下の実験室が三十室、別棟はBSL3の実験室が一室、BSL2以下の実験室七室からなっていた。BSL2の室内は陰圧になっており、感染対策のため、実験施設内の空気を封じ込めて拡散しないような構造。BSL3は、陰圧に加えて、建物のほかの部分から切り離されて設置されている。渡り廊下を抜けた別棟側には二重ドアの前室があり、職員証で開けることができる。
香月の研究室は、本体棟の二階の北側にあった。構造は、BSL1。通常の医学や生物学の実験室。
階段を上っていると、上から人が下りてきた。感染病理部の下村翔太だった。
「あれ、今日は当番なんですか」
丸眼鏡の位置を直しながら下村が目を丸くする。どことなく狸を思わせるような顔つき。しばらく散髪をしていないであろう髪は、寝癖で立っていた。
「まぁね」
「香月さんも大変ですねぇ」
特に大変そうに思っていない口調だった。
下村は去年配属になったばかりだが、研究所内ではちょっとした有名人だった。予防感染研究所の前所長の息子。下村自身も優秀で、早くもいずれ所長になるのではないかと目されていた。
「下村くんは、いつもの趣味?」
その問いに、下村は照れ笑いを浮かべる。今日も休日出勤ではなく、完全な趣味という位置付けで出社しているようだ。
三度の飯より研究が好きだという下村は、休日もこうして研究所に忍び込んで研究に没頭していた。今はたしか、エボラウイルスのワクチン開発を、大学と共同で研究していたはずだ。ほかにも、いろいろな研究に首を突っ込んでいるらしい。到底一人では処理できない業務量をしっかりとこなしつつ、好奇心のある分野にどんどん手を出していく。こういったスーパーマンは、おそらく一日が四十八時間ほどあるのだろう。
見た目は、特に優秀には見えないが、それでも滲み出るなにかはあった。
香月は一度、残業は付けているのかと聞いたことがあったが、これは趣味ですからと意味深長な返答をされただけだった。完全なる仕事中毒だったものの、その気持ちは香月も分からなくはない。
研究者は、好奇心や探究心、または野心に突き動かされている。そうでなければ、こんな割に合わない職業は選ばない。
「まぁ、趣味っていうよりも、なんでしょう……業みたいなものですかね」
そう言った下村は、手で腹をさする。三度の飯より研究が好きなのは間違いなさそうだが、白衣の上からでも分かる腹の出っ張りを見ると、飯も好きなんだなと思う。
「では、ごきげんよう」
軽い会釈の後、体格に似合わぬ足取りで、ひょこひょこと階段を下りていった。
香月は後ろ姿を見送ってから、階段を上りきる。
いくつかの研究室を横切り、獣医科学部の研究室に入った。
無人の研究室の電気を点ける。
予防感染研究所に就職した研究者は、各研究室に所属する。そして、研究室が抱えているテーマが一つだけなら、皆でそれに取り組むことになっていた。ただ、研究室によっては、個々に好きなテーマを設定し、自由に研究を進めることもできた。
獣医科学部に所属する香月は、現在、動物由来感染症のリスクの調査をしていた。予防感染研究所に入ったのが四年前。最初は、細胞化学部で狂牛病の調査をしていたが、部内再編の煽りではじき出されて、先月から獣医科学部に籍を置いている。ここではまだまだ新米だった。
香月は獣医の資格を持っていたが、予防感染研究所では珍しいことではない。研究員の構成比の三割が獣医で、薬学出身が三割、残りが医学出身と生物学出身の研究者だった。下村は、薬学出身だ。
自席に座ってパソコンを起動し、イントラネットを開く。
休日のため、社内情報の更新はなかった。平日に確認できなかった分にカーソルを合わせる。旧時代的なレイアウトの掲示板をしばらくクリックしていたが、関係のありそうなトピックはない。
次に、インターネットに接続し、世界保健機関のサイトを確認する。新着記事がいくつか載っていた。日本語翻訳をかけ、WHOのシンボルマークが左上に描かれたサイトの見出しを確認する。黄熱病の流行、喫煙者撲滅キャンペーンの記事、マラリア原虫についての論文。論文は英語のまま読むが、革新的な内容は書かれていないようだ。
とくに興味をそそられるものはなさそうだ。そう判断した瞬間、今朝掲載されたばかりの記事に目がとまった。
『原因不明の病気蔓延によって、人が凶暴化する可能性。当局が警戒』
一瞬、ネットニュースを開いているのかと錯覚する。
WHOの見出しにそぐわないなと思いつつ、記事をクリックした。どうやら、原因不明の病気というのは、一週間前から発生しているようだ。
原文のまま、読み進めていく。
アフガニスタンやシリアといった紛争地域で人が突然気絶し、一分前後経つと、凶暴になって人を襲い始める事例があるという報告が複数入っているらしい。精神の錯乱と片付けられ、遺体の確認はできなかったが、現地の医師であるエフサン・リハウィの報告では、悪魔に取り憑かれたような状態になるらしいものの、発症者の状況は確認できていないという。紛争地域では適切な医療態勢が整っていないし、人が人を襲うのは日常のことなので、医師による解剖もされていないのだろう。もしかしたら、発症者は殺された上に焼かれてしまった可能性もあるのではないかと香月は思う。紛争地域では、感染の恐れのある病気の人間を治すのではなく、殺して隠蔽するケースもある。
WHOは、狂犬病のほか、ウイルス性脳炎などの可能性を懸念しており、調査団を派遣する予定だと書かれてあった。実際に派遣する日程は書かれていなかった。おそらく、WHOも重要視していないのだろう。
被害者の数などの表記はない。ただ、数例だけということはないはずだ。WHOが紛争地域に調査団を派遣すると一応の表明をしているのだから、少なくない数だということだ。
記事を読んで最初に思い浮かんだのは、狂犬病だ。狂犬病ウイルスを病原体とするウイルス性の人獣共通感染症。中枢神経系に影響を及ぼし、極度の興奮、精神錯乱などの神経症状をもたらす。
ただ、気になる表記がある。
──一分前後経つと、凶暴化して人を襲い始める。
狂犬病ウイルスは体内に潜伏し、不安感や精神錯乱、幻覚症状といった兆候が現われる。嚙まれた部位にもよるが、通常は十日から一年程度経過しなければ、こういった症状は現われない。
ウイルスの遺伝子コードが突然変異して潜伏期間が大幅に短くなる可能性は否定できないが、ウイルスが入り込んで一分前後で発症するなんてことは、人間の構造上、どう考えても不可能だ。どんなに強力かつ効率的に宿主を侵食するウイルスだとしても、一時間から三時間程度はかかるだろう。いや、それも飛躍した考えに近い。
香月はWHOのサイトを閉じて、イントラネットに戻る。
始業時間が過ぎていた。
所員の出所状況を確認してみる。日曜日にもかかわらず、四十人が出所していた。研究室はそれぞれ独立性を保っているものの、他の研究室が持つ機材を使わせてもらったり、専門外の分野の助言をもらうことも多い。そのため、出所している所員がすぐに分かる仕組みを導入していた。
予防感染研究所の所員数は、全部で五百十二人。日曜日なのに、八パーセントほどが出社していることになる。すべての研究室が休日出勤の体制を組んでいるわけではない。中には、下村のように研究が好きで休みを返上している人もいる。
出社している人間の名前を眺めていると、加瀬祐司の名前が目に飛び込んできた。
整った容姿が頭に浮かぶ。
予防感染研究所に勤める女性所員にとって、医学博士の加瀬は憧れの存在だった。背が高く、顔も良い。まだ三十三歳と若いのに、多くの実績を残している秀才。二年間のアメリカ留学をしたときは、現地でヘッドハンティングを打診されたという噂もある。今は主任研究員だが、いずれは部長になるはずだ。当然、所長候補の一人だ。
世間話をするような間柄ではないが、細胞化学部に所属していた頃は仕事上での会話は多かった。秀才ゆえに、人に厳しいところがあり、ときには怒鳴り声を発することもあった。
研究所内で付き合うなら加瀬だが、付き合ったら大変そうだなと詮ないことを考えつつ、ゆっくりと肩を回す。鎮痛剤が効いたのか、痛みは和らいでいた。
視線を窓の外に転じる。
なんだか、騒がしい気がする。
今いる場所からは、予防感染研究所の敷地を囲う塀が見える。二メートルの塀は、テロ対策の観点から二年前に建てられたものだった。
高さ二メートルの塀が建物の周囲を覆っており、正面の門からしか出入りできないことになっていた。このくらいでテロ対策になるのか疑問だったが、ないよりはましだろう。
塀の向こう側には、工事中だけ設置されている仮囲いがあり、その先には、隣接する大学の建物が建っている。強い日差しが降り注ぎ、光を反射してきらきらと輝く白い外壁。
普段と変わらない景色。
ただ、なにかが変だ。理由は分からなかったが、突き抜けたような青い夏空や、ゆっくりと形を変える入道雲すら、不安を搔き立てた。
香月は立ち上がり、外の様子を確かめようと窓を開ける。
その途端、サイレンが鼓膜に流れ込んできた。防音ガラスで遮られていた音は、消防や救急、警察のものが綯い交ぜになっている。異常事態が発生していることは明白だった。また、今まで気付かなかったが、異様とも思える数のヘリコプターが飛んでおり、ことの重大さを物語っている。
いったい、なにが起きたのか。災害でも発生したのだろうか。
そう思った瞬間、研究室の扉が開いた。
驚きに息を止めて振り返る。そこには、下村が立っていた。いつもの温和な雰囲気はなかった。
「ちょ、ちょっと来てもらえますか」
「……なにかあったの?」
香月の問いに、下村は強張った顔を僅かに歪める。
「なんて説明したらいいのか……えっと、あの、ともかく、ちょっと来てもらえますか」
伝える語彙が思い浮かばないかのような、もどかしい調子だった。
「早くしてください」
急かす言葉に頷いた香月は、下村の後を追って研究室を出る。
連れて来られたのは、一階にある食堂だった。
すでにそこには、多くの所員が集まっていた。皆、壁の上方に掛けられた七十五インチのテレビを見上げていた。
香月も画面を見上げる。
ニュース番組のようだが、映っている映像はニュース番組のものとは思えなかった。
異様としか言いようがない。
どこかの街中を撮影しているのは間違いない。撮影者も走っているのだろう。画面が前後左右にぶれている。しかし、なにが起きているのかは分かった。
人間が、人間を襲っている。
襲われた人間に複数の人間が覆い被さっていたり、嚙みつくような襲い方をしてから、すぐに別の標的を追いかけ始めている。
建物からは火の手が上がり、追突している車も多数映っている。
映画やドラマの宣伝なのかと疑う。
撮影者が再び走ったのだろう。画面が激しく揺れていたが、やがて、映像のピントが、襲われたばかりの人間に合う。先ほどとは別の角度。
嚙まれたと思しき人間は、横たわったままのたうち回り、ぎくしゃくした動きをする。
激しい痙攣。
歯車が狂って、手足がそれぞれ別の意思で動いている人形のようにも見えた。
やがて、一瞬だけ動きを止め、立ち上がった。そして、歯を剝き出しにして、獲物を探すように周囲を見回す。肌が、青白くなっているように見える。人間の容姿は保っていたが、人間だとは言い切れない存在になっていると分かる。
その間、十秒ほど。
先ほどまで、普通の人間だったはずだ。こんな短時間で起こるような変化には、到底思えなかった。
「……まるでゾンビだな」
誰かが呟いた。
たしかに、そのとおりだなと香月は思う。容姿や動きが、映画に出てくるゾンビそのものだった。香月は、ゾンビ作品をまったく見ていなかったが、ゾンビの映画やドラマが流行っているのは知っていた。
襲っている人間が、カメラ撮影者に気付く。
その顔のアップで、画面が静止した。
テレビ画面の下部に表示されている〝謎の暴動が発生〟というテロップが〝ゾンビ発生か〟という文字に切り替わる。
カメラを見つめているゾンビ。目が僅かに白濁している。
映像が切り替わり、スタジオが映る。男女のキャスターの顔に余裕がない。局内も混乱しているようで、どことなくざわついている印象を受ける。
〈大変ショッキングな映像でした……ご覧いただきましたように、現在、日本各地で発生している暴動について、原因などは分かっておりませんが、まさに今起こっていることです。これは作り物の映像ではなく、日本で実際に起こっていることです。どうか、絶対に外には出ないでください。現在、政府によって対策と原因特定を進めているようですが、まずは身の安全を第一に──〉
男性キャスターが喋っている途中で、画面の端から人が現われて、女性キャスターに紙を手渡した。
〈たった今入った情報です……えっと〉
女性キャスターは、視線を紙に落としながら喋ったが、言葉が続かなかった。書かれていることが信じられないといった様子だった。
男性キャスターの不審そうな視線を受け、ようやく続きを喋る。
〈……今回の暴動について政府は、すべての都道府県での発生を確認したということです。また、現在分かっている限りでは、アメリカ、イギリス、韓国、オーストラリア、インドといった国々でも同様の現象が見られるという確認が取れており、非公式の情報では中国やロシアも含まれ、より多くの国で同様のことが起きているということです。また、原因については、今のところ分かっていないということです〉
女性キャスターの言葉に、男性キャスターは口をパクパクさせている。思考停止に陥っていた。それでも、職業意識が高いからか、すぐに気持ちを切り替えたようだ。
〈……ただいまお伝えしたとおり、この暴動は世界中で発生しており、日本全体にも広がっています。どうか、絶対に家からは出ずに、外にいる場合は、すぐに建物内に避難してください。人が人を襲っている理由は分かりませんが、襲われた人も、ほかの人を襲い始めるということが確認されています。どうか、絶対に家から出ないでください。外にいる方は、ただちに避難してください。安全なところに避難してください。今すぐ逃げてください!〉
〈これゾンビでしょ〉
別の声。
画面が変わり、コメンテーターが映る。四角い眼鏡をかけた、肥満気味の男性。経済アナリストという肩書きが画面下に表示される。
〈これ、やっぱりゾンビじゃないですかね〉
酒焼けしたような声だった。
〈……どうして、そう思われるんですか〉
女性キャスターが、不審そうな表情で訊ねた。
コメンテーターは顔を歪める。
〈いやだって、どうみてもゾンビでしょ。嚙まれた人もゾンビになって別の人を襲っていますし。映画とか見ないんですか?〉
女性キャスターは、瞬きを繰り返す。
〈あ、いえ、映画は見たことがありますが……でも、これは現実に起きていることで……どうしてこんなことが起きるんでしょうか〉
〈そりゃあ、ウイルスかなにかでしょう〉
〈ウイルスって、いったいどんな……〉
〈そんなの知りませんよ。地球温暖化で永久凍土が溶けて、未知のウイルスとかが解凍されて出てきたとか。それか、どこかの機関が、研究中のウイルスを漏らしたって可能性もありますよ〉
〈……それが世界的に蔓延したということでしょうか?〉
〈新型コロナウイルスとかだってそうでしょ。瞬く間に世界中に感染が広がりましたし。同じですよ、同じ。潜伏期間を経て、一気にドーンって蔓延したのかもしれません〉
経済アナリストに発言を求めること自体が間違っていると思いつつ、それほど混乱を極めているのだろうと香月は推察する。
このアナリストはウイルス説を唱えているが、映像を見る限り、十秒ほどでゾンビ化し、人を襲い始めている。こんな性急な変化を人間にもたらすウイルスなど、あるのだろうか。
〈あ、新しい映像が入ってきたようです〉
視線を外した男性キャスターが言った後、画面が切り替わる。
映像が流れる。
先ほどとは違い、屋上から地上の様子を撮影しているらしい。メッシュフェンス越しに、暴動の様子が映し出されている。
走っているゾンビもいれば、歩いているゾンビもいる。
個体によって、動きに差異があった。
香月は、この差はなんなのだろうという疑問を浮かべる。そして、それらの疑問を抱く余地すら与えないような、大きな問い。
この現象は、いったいなんなのか。
「なんだよ、これ……」
呟き声に視線を向ける。
いつの間にか、香月の右に加瀬が立っていた。
「なんだよこれ……」
同じ言葉を繰り返す。
驚いた顔をしているが、そこに絶望の色はない。そして、この状況にそぐわない面貌になっていた。
あぁ。この顔こそ、研究者の業だ。
香月は思う。
未知の難敵に遭遇したときに研究者が浮かべる表情。絶対に、自分の能力で屈服させてやるという傲慢さ。その強固な自信を裏打ちする努力をひたすらに続けてきたからこそ抱ける感情。
香月も、人のことは言えなかった。
恐怖心はあったが、それ以上に、目の前に広がる疑問を暴きたいという闘争心が湧いていた。
「ゾンビですねぇ」
香月の左に立つ下村が言う。
「……根拠は?」
素っ気ない調子で問う。加瀬は、年下の下村に対抗意識を抱いている。下村本人だけは気付いていないようだったが、所員の間では周知の事実だった。
所長の座へ進んでいくであろう研究所きっての秀才二人。一つのポストを巡るので、衝突は避けられないだろう。
「まだ根拠はありませんが、どの報道でもゾンビだと考えているようですね」
そう答えながら、下村はスマートフォンを操作している。香月は横から画面を覗き込む。ネットの記事には、ゾンビという言葉が散見された。
加瀬は、大きなため息を漏らす。
「原因も結果も考えない素人たちの、無責任な決めつけだ。馬鹿は、どうも手っ取り早く物事を枠にはめたがる」
「原因や結果は、これから僕たちが証明していくんです。ここは、日本でもっとも感染症に情熱を注いでいる優秀な頭脳が揃っていますからね」
朗らかな声の下村を見た加瀬は、苦々しそうに顔を歪めただけだった。
自分で言うのもどうかとは思ったが、下村の発言を否定するつもりはなかった。
予防感染研究所は、日々さまざまな感染症について研究し、人間に害を及ぼすものを制圧しようとしている。日本で発生した感染症はすべてこの研究所の研究対象となるし、世界各国の研究機関との連携もしている。
周囲を見渡した香月は、電話をかけている所員が目立つことに気付く。
「そっちは大丈夫か! 全員無事なのか!」
近くの男性所員が声を張った。
「あぁ……こっちは大丈夫だ。今のところ、この建物は安全だ。絶対に、家から出るなよ! 様子を見て、帰るからな! 絶対に大丈夫だから! 子供たちを頼む!」
「良かった……なんなんだろうね、これって……なにかの攻撃かな……でも、どうしてこんなこと……」
別の女性所員が、スマートフォンを指の先が白くなるほど強く握りしめて、泣きながら言っていた。
「学校は大丈夫なのか!? お、お前は大丈夫なんだな! 泣くな! 部活の友達が死んだのがショックなのは分かるが、今はしっかりしろ! 生き残ることだけを考えろ! ともかく、学校にいるんだ! お前はお前が生き残ることだけを考えろ!」
声を震わせた所員の顔は、血液が失われたように真っ青になっていた。
皆、大切な人の安否を確認しているのだろう。
その様子を見て、少し羨ましいなと香月は思った。二年前に母を亡くし、父とは六年前に死別した。親戚はいたものの、連絡を取るような間柄ではない。
ポケットからスマートフォンを取り出す。緊急地震速報のような警報はないのだなと思いつつ、すぐに戻した。
「下村くんは、誰かに連絡しなくていいの?」
「……僕ですか?」
香月の言葉を聞いた下村は、突拍子もないことを質問されたかのように目を丸くした。そして、困ったような表情を浮かべる。
「もう何年も話していませんから」
父親は、この研究所の前所長だ。そして、下村は同じ道を歩んでいる。てっきり仲が良いのだろうと想像していたが、親子関係は芳しくないようだ。
「加瀬さんは、誰かに連絡しなくていいんですか?」
自分の話題から逃げようとするように、下村は加瀬に訊ねる。
「俺の家は、すべてが自己責任だ。死のうが生きようが自由だし、互いに干渉しないことにしている」
眉間に皺を寄せた加瀬は、突き放したような口調で答える。
死のうが生きようが自由。そんな家庭などあるのだろうかと香月は疑問だった。
「……結構シビアな教育方針ですね」
「淡泊なだけだ」
吐き捨てるように言った加瀬は、顔を背ける。
下村は、香月を一瞥したが、なにも言ってこなかった。前に一度だけ、両親が他界したことを話したことがあった。それを覚えているのだろう。
香月は安堵する。時間が経っているとはいえ、大好きな母親を失ったのは、今でも深い傷として残っていた。母親が死んだことを説明することすら、今でも苦痛に感じる。
「ゾンビ、ここにも来ますかねぇ」
「それは、今のところ大丈夫そうですよ」
下村が不安を口にすると、背後から返答があった。振り返ると、管理人の市川の姿があった。多少、顔は強張っているが、いつもとほとんど同じ雰囲気をまとっている。
「敷地内を見回ったところ、侵入はありませんでした。侵入されそうな危なっかしいところもなさそうです」
「テロ対策で塀を高くしたことが功を奏しましたね」
下村の言葉に、市川は頷く。
「それに、今は外壁の工事をしていて、塀に沿うように仮囲いが設置されているのもよかったんでしょう。侵入しようとする奴もいないですね。仮囲いが目隠しの役割をしているんですよ、多分。囲いのない正面の門扉も背が高いので、とりあえずは大丈夫そうです」
香月は、人間を襲うゾンビの映像を思い出す。
獲物を探すように頭を左右に動かし、見つけた途端、走り出して襲いかかっていた。走るスピードは、普通の人と同じくらいか、少し早いくらいだった。
あんなものに追いかけられたら、足がすくんで上手く逃げられないかもしれない。
「外の様子はどうでした?」
下村が食いつくような勢いで問う。
それに対して、市川は首を横に振った。
「確認していません。見つかったら大変ですから」
「たしかに。それなら、ゾンビの声とかしました?」
「えぇ……まぁ」市川は痛ましそうに顔を歪める。
「ゾンビのものと思われる呻り声とか、襲われている人の悲鳴とか、いろいろ……」
「ゾンビは声を発するのか」
加瀬が話に入ってくる。
先ほど下村にゾンビであるエビデンスを求めていたのに、自分もゾンビと呼称するのだなと香月は思う。
「喋ることはできるのか?」
答えを求められた市川は首を傾げた。
「少しの間しか確認していないので確実なことは言えませんが、喋っていないようでしたねぇ。ただ、呻くような声というか、低い音を発していましたけど」
顎に手を当てた加瀬は、眉間に皺を深める。
「会社からなにか連絡は?」
「電話は繫がりませんでしたが、持ち場で待機するようメールで指示がありました。応援が来るかは、不明です。あと、警察に通報しようとしましたが、繫がりませんでした。コールはするんですけど、誰も出ません」
110番通報が繫がらない。そんなことがあるのかと思ったが、こんな状況下なのだ。警察の通信指令室がパンク状態なのも頷ける。
連絡。
そういえば、どこからも予防感染研究所に連絡がきていないことに香月は気付く。
予防感染研究所は、日本でもっとも感染症についてのデータを保有し、原因を突き止める設備が整っているのだ。日曜日とはいえ、こうして感染症に特化した頭脳も揃っている。ゾンビ化の原因は不明だが、ゾンビに嚙まれた人間がゾンビ化しているということは、なにかしらの感染があると推測できる。それならば、ここに問い合わせがあって然るべきではないのか。
「香月はどう思う?」
騒然としている所員を尻目に、加瀬が問う。質問の意図が分からなかったので返答に窮していると、加瀬は苛立った顔つきになった。
「この状況に、思い当たる節は?」
強めの口調に、香月は少し気後れする。
容姿端麗の秀才で、予防感染研究所のアイドルのような存在。ただ、同時に近づき難くもあった。その一因が、神経質な性格だ。鋭敏なのは研究者として必要な要素だったが、加瀬はそれが顕著だった。そのため、研究所内に親しい友人はいないようだったし、精神的に追い詰められた同僚もいるという。
ただ、香月はそういった圧力をあまり気にしない人間だった。そして、下村もそういったことには疎いようだ。
「思い当たる節ですか……」
そう呟き、ふと気付く。
「そういえば、WHOのサイトの見出しを見ましたか」
「WHO? いや、見ていない」
答えた加瀬は、好奇の目を向けてくる。たしかに、重大なトピックが発生していない平時に、WHOのサイトに行き、見出しを確認する人は多くない。香月は、自分が珍しい部類の人間だと自認していた。
香月は、軽く咳払いをした。
「原因不明の病気の蔓延で人が凶暴化する可能性があるという見出しが、今朝掲載されていたんです。一週間ほど前に確認されたようです」
「……一週間? 現時点で、なにも分かっていないのか?」
加瀬は訝しがる。
「発生地域が、アフガニスタンやシリアといった紛争地域なので、まだ実態の把握ができていないようです」
紛争地域の医療態勢や研究機関がどういった状況なのかは分からなかったが、少なくとも、十分な安全が確保されている国よりは整っていないだろう。
「暴徒を病気だと勘違いしているだけじゃないのか」そう言った加瀬は頭を搔く。
「まぁ、まずはその記事の確認をしよう。紛争地域と日本じゃ条件が違いすぎるが、感染症は国境などお構いなしだからな」
「その前に、ちょっと屋上に上ってみません?」
「屋上?」
香月の言葉に、下村は頷く。
「今、外がどうなっているのかしっかり見ておいたほうがいいと思うんです」
歩き出した加瀬に、下村が提案する。
加瀬は目をすがめる。その表情から反発心を抱いているのは明白だったが、口から出たのは同調だった。
「……たしかにそうだな。屋上からなら安全だろう」
この目で、ニュースのような光景を目の当たりにする。画面を通して見るのとは、比べものにならないだろうなと香月は思った。
「あ、屋上は鍵がかかっているので入れないようになっています。私が案内しますので待っていてください」
人懐っこい表情を浮かべた市川は、早足に食堂から出て行った。
香月は、テレビ画面を見る。そこには、渋谷のスクランブル交差点をゾンビが徘徊する映像と、〝原因不明〟の文字が映し出されていた。
原因不明。
本当に、そのとおりだ。

管理室から鍵を取ってきた市川と一緒にエレベーターで五階に行き、そこから階段を上った。
「あの、空気感染ってことはないですよね?」
下村の言葉に、鍵を解錠した市川は動きを止める。
「え、空気感染するんですか?」
「その可能性もあります。なんていったって、感染経路が明確ではないですから」
「そ、そうなんですねぇ……空気感染ですか」
「していたとしたら、すでに俺たちは手遅れだ」
素っ気ない口調で加瀬が言い、取っ手を握って扉を開けた。
風が吹き込んでくる。
真夏の噎せ返るような空気。ただ、出勤してきたときとは明らかに違う。熱せられたような焼けついた空気には、焦げたような臭いが混じっていた。吸い込むと、気道が焼けるような錯覚に陥る。
香月は顔をしかめつつ、外に出た。予防感染研究所に入って四年だが、屋上に入ったのは初めてだった。
メッシュフェンスに囲われた空間には、たくさんの室外機が置かれていた。フル稼働した室外機から出る熱。屋上に出た瞬間に感じたものはこれだったのかと思ったが、原因が別にあることはすぐに分かった。
五階から見る新宿の街。
その各所から煙が上がっていた。多くの建物で火災が発生している。家屋が密集したエリアでは延焼し、火の海だった。燃えるに任せた建物の数々。消防の手が足りていないのは明らかだった。
誰もが絶句し、身動きを取ることができなかった。
人を探すため、視線を地面に落とす。
いなかった。
ゾンビと思しき群れが歩いているのが見える。ぎこちない動き。獲物を探して彷徨っているようだ。
車道には、多くの車が停まっていた。電柱などに衝突している車や、玉突き追突している車で道がふさがっていた。消防車や救急車もある。救助をしているわけではなく、その場に放置されているようだ。横転しているものもあった。
「あれ、見てください!」
下村が指差したのは、ゾンビに囲まれている車の方角だった。中に人が取り残されているのかもしれない。車体を叩いたり、フロントガラスに頭を激しく打ちつけるゾンビもいた。ゾンビに道具を使う様子はない。車の上に登っているゾンビもいない。ただ、中にいる獲物を最短距離で得ようとしているように見える。
動きに、知性は感じられなかった。
予防感染研究所の建物の近くで蹲っているゾンビが二体いた。
目を凝らす。
なにをしているかが分かり、香月は顔を背けた。人を食べていた。身体を血に染めたゾンビが、人の内臓を喰らっている。
一見して、逃げ惑う人の姿はない。香月たちと同じように、屋上から様子を窺っている人々もいた。〝SOS〟という文字を書いている屋上もあった。空を飛ぶヘリコプターに向かって手を振っている人もいた。
地上にいた人たちは皆、避難できたのだろうか。
街から人の姿が消え、ゾンビが跋扈している。
「僕たちも、ここにいることをアピールしておいたほうがいいかもしれません」
下村の提案に香月は同意しようとしたが、加瀬は反対する。
「今はまだ、様子を見たほうがいい。ここは安全だ。無理に救助を要請するよりも、ここに留まるべきだ。少なくとも外の安全が確保されるか、避難先が安全だという確証が得られるまでは」
加瀬の言葉に、皆は同意する。
ここから逃げ出したいという気持ちもあったが、逃げ出した先が安全かどうかの保証はない。不確定要素が大きい。
まだ、ここは安全だ。それは間違いなかった。
しばらく無言で周囲の様子を観察する。
ゾンビ。喰われた遺体。道を染める血。
現実味がないからだろうか。それとも、無意識に研究者の視点で観察しているのか、吐き気は催さなかった。
「……ゾンビって、元は人だったんですよね」
下村の言葉に、香月はどきりとする。
ゾンビを異物として観察していたが、元々は人間なのだ。スーツやシャツ、ワンピースを着ているゾンビ。日曜日にお洒落をして出かけたであろう装いの人も、今や獲物を狙う徘徊者になっていた。
それでも、人間だったのは間違いない。
「ゾンビって、たしかリビングデッドとも言うんですよね」
市川が呟く。
リビングデッド。生きている死体。たしかに、その表現がぴたりと当てはまる。しかし、動いているからには、生きているはずだ。嚙まれた人間がなにかに感染して一度死に、生き返るなんてありえない。おそらく、死んだのではなく、死んだような状態になっている元人間。知性は残っているのだろうかという疑問が浮かぶが、動きを見る限りでは、それは確認できなかった。
香月は、予防感染研究所の敷地に目を向ける。市川の言うとおり、ゾンビの侵入はないようだ。近くを徘徊しているゾンビはいたが、二メートルの塀と、その外側に設置している仮囲いが目隠しの役割を担っているのだろう。
「……ゾンビの目的は、人を喰うことか」
冷静な口調で言った加瀬の視線は、近くにある寺の境内に向けられていた。本堂から出てきたと思しき人が外の様子を窺うために顔を出していた。
群れたゾンビがそれに気付き、襲いかかる。
襲撃に気付いた人は、慌てて建物内に戻ろうとしたが、ゾンビの動きのほうが早かった。次々に侵入される。
やがて、本堂から十人ほどが飛び出してきた。逃げ惑う人々に、走るゾンビが襲いかかる。現実感のない光景だったが、この現象を見極めようと、脳内で情報を処理する。
走って追いかけるゾンビたちが人々に嚙みつき、後から歩くゾンビが追いついて、獲物に歯を立てる。
走るゾンビと、歩くゾンビ。
また、食べられ続ける人間もいれば、嚙まれただけで喰われることのない人間もいた。前者は動き出す気配はないが、後者は、しばらくして立ち上がり、ゾンビとして人間を襲う。
食料となる人間と、嚙まれてゾンビになる人間。この差はなんだろう。
現時点では推測すらできないが、興味を惹かれた。
境内から出てきた人は、誰も逃げ切ることができなかった。
「あれ、猫には反応しませんね」
下村が指摘する。
脱力したような動作で歩くゾンビの前を、猫が横切っていた。その猫の動きに、ゾンビが反応する素振りはない。
香月は、ニュース映像に映っていたゾンビを思い出す。たしか、目が僅かに白濁していた。白内障の症状に似ている。あの目で視認は可能なのか。そもそも、どうして目が白濁しているのだろうか。そして、あまり白濁していないゾンビもいた。この個体差は、いったいなんなのだ。
「人間を食料と認識するが、猫は対象にならない。猫だけが例外なのか、それとも小動物全般なのか。興味深いな」
あくまで冷静さを失わない加瀬。実験用マウスを観察するような視線。その目に、香月は寒気を覚えた。
「一度戻りましょう」
下村が提案する。
このまま眺めていても、なにもできることはない。空を飛び交うヘリコプターを一瞥してから、屋上を後にした。
鍵は開けたままにして、階段で五階へと下りる。
足下を見ながら、香月は屋上で見たことを思い出す。まったく、現実感がない。人が人を喰っている。そのことを理解するのを、脳が拒否しているかのようだった。
そのとき、電話が鳴っていることに気付く。
顔を見回す。
「電話、ですね……」
下村が呟いた。
その言葉に香月は身体を震わせ、音のする方に向かって走った。
すぐに、五階にある総務部が入っている部屋に辿り着く。ここは研究室とは違い、事務作業をするためだけのスペースだったので、実験台や実験器具はない。普通の事務所のように机が並んでいる。
その机の上に置かれた固定電話の、〝代表〟と書かれたボタンのランプが赤く明滅していた。
受話器を取ると、すぐに声が聞こえてきた。
〈ようやく繫がった。そこにいるのは誰だ?〉
神経質そうな声。どことなく加瀬の声に似ていると香月は思った。
「……えっと、どなたでしょうか」
名前を名乗りそうになったが、相手の出方を窺うことにする。
〈私は、厚生労働大臣政務官の津久井だ〉
電話の向こう側の人物が、口早に告げた。
政務官。厚生労働大臣、副大臣の下に位置する重役。
予防感染研究所は厚生労働省の傘下にあるので、職員とのやりとりはあった。しかし、政務官レベルと話すことなどない。少なくとも、香月のような下っ端には縁が無い。
名前を名乗るよう急かされたので、香月は答える。
〈責任者は?〉
「……え、責任者ですか?」
〈所長はいるか?〉
声に焦りがあった。
「いえ、いません」
先ほど出勤者を確認した限りでは、管理職クラスはいなかった。
そのことを伝えると、受話器越しに舌打ちが聞こえてきた。
〈……所長の携帯にかけたんだが、繫がらなくてな。君でもいい。そちらの状況を教えてくれ。急ぎ、簡潔に〉
ずいぶん偉そうな言い方だなと反感を覚えたものの、実際に偉い人だし、この事態に厚生労働省も混乱しているのは明らかだったので、自制しているほうだろうと考え直す。
「ここにいるのは四十一名で、今のところ建物は危険にさらされていません」
〈今のところ? それはつまり、ゾンビに侵入される恐れがあるということか?〉
厚生労働省内でもゾンビという呼称になっているのか。
「いえ、塀があるのと、工事用の仮囲いが目隠しの役割を果たしてくれているようで、危険はないと思います」
本当に危険はないのだろうかと思いつつ答える。
「誰と話しているんだ?」
横に立っていた加瀬が問う。
「厚生労働省の政務官です。津久井さんって方です」
受話器を手で塞いだ香月が答える。
「それなら、スピーカーモードにしてくれ」
そう言いながら、加瀬は自分で電話機のマイクボタンを押した。
「細胞化学部主任研究員の加瀬です。いったい、どうなっているんですか」
やや高圧的な口調で問う。
少し間を空けて、津久井の声が聞こえてくる。
〈状況把握に努めているところだ〉
「状況把握? どうしてこんな事態になったんですか? 急にこんなことになるなんておかしいでしょう」
〈……たしかに、この急激な変化は理解できない。今は、テロ攻撃も視野に入れて情報収集を行なっているところだ〉
本題に入らせてもらう、と津久井は急くような声を発する。
〈現在の状況はニュースで流れているとおりだが、状況は想像以上に深刻だ。原因は不明だが、研究施設からウイルスが漏洩したのではないかという意見もある〉
「つまり、ここが疑われていると」
加瀬が片方の眉を上げながら言う。
〈いや、個人的にはあり得ないと考えている。今回の件は世界中で同時多発的に発生しているから違うとは思うが、確認しろというお達しが出ているんだ。そちらに異常はないのか?〉
「あるわけない」加瀬は鼻を鳴らして笑った。
「この研究所が保管している細菌やウイルスがすべて漏れていたとしても、ゾンビ化するような代物はあるはずがない。そして、漏洩は一切ない。その確認のために、わざわざ連絡してきたのか?」
完全に、喧嘩腰の口調だった。
〈いや、違う〉言葉に力がこもる。
〈その建物を死守しつつ、早急にゾンビ化の原因を突き止めてくれ。そう伝えるために電話をしたんだ〉
「……なんだと?」
加瀬の顔が歪む。
〈言ったとおりだ〉
「ち、ちょっと待ってくれ。死守といっても、俺たちはただの研究者だ。自衛隊とか警察は来ないのか?」
一瞬の間。
〈……まず、警察組織が治安維持に奔走しているが、まったく押さえ込めていない。むしろ、警察官の被害が広がっていて、組織が崩壊しつつある〉
「拳銃を使えば、制圧できるんじゃないですか」
下村は、名乗ってから問う。
〈元人間だから当然だが、ゾンビの機動力は人間のそれを超えるものではない。むしろ劣っている場合も散見されるから、拳銃での制圧は可能だろう。ただ、元人間だからこそ厄介なんだ〉
厄介とは、どういうことだろう。
〈いくらゾンビになって襲ってくるからといって、殺していいのかという問題が出ているんだ。お偉方から〉
「そんなことを言っていたら感染が広がるだろ!」
加瀬が机を叩きながら言う。
普段は冷静な加瀬が突然激高するのは、珍しいことではない。香月は仕事上で、そういう場面に遭遇することが多々あった。
「お偉方かどうか知らないが、早く対処しろよ!」
咳払いが聞こえてくる。
〈そのとおりだと、個人的には思う。ただ、国は、国民を守るために存在している。その国がなんの根拠もなしにゾンビ化したからといって、元々人だったものを闇雲に殺していいとは言えないんだ。そもそも、ゾンビ化した人間と、そうでない人間を明確に区分することができていない。なにを基準にゾンビと決めるのか。誰が決めるのか。科学的根拠はあるのか。ゾンビ化している途中なら、ゾンビなのか、それとも人間と定義するのか。それすらも分からない状態なんだ。ゆえに、現時点で火器による交戦は認められていない。現状、迫ってくるゾンビに対して警察は、警棒と盾で応戦していると聞いた。そういった状況だから、警察官もどんどんゾンビになっているらしい。分かってほしい。ゾンビが元々は人間というのが、とても厄介なんだ〉
たしかに、そのとおりだと香月は妙に納得してしまった。
たとえばゾンビが宇宙人とか怪獣ならば、そういった倫理的な部分は省略できそうだが、元人間だった場合は、判断に困るだろう。
「……そんな悠長なことを言っていたら、取り返しがつかなくなるぞ」
苦々しい声を発した加瀬は、頭を搔いた。
〈そんなことは百も承知だが、法治国家というのはそういうものなんだ。国は決まりごとに縛られている。ただ、国がなにもしていないわけではない。今、自衛隊に防衛出動を要請できるよう手配している。が、問題も山積している〉
「なにが問題なんですか」
香月が問うと、呻くような声が返ってくる。そんなことを話している暇はないという考えと、無下にはできないという思いで葛藤しているようだった。
やがて津久井は、先ほどよりも少し低い声で話す。
〈自衛隊に要請しようとしている防衛出動の要件は、日本が外部から武力攻撃を受けているか、外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められる場合に限るんだ。ゾンビが果たして武力攻撃の結果によるものなのか、今のところ判断できない〉
「武力攻撃かどうかが問題なんですか」
〈そういう決まりだ〉
下村の問いに、津久井は即答する。
「でも、震災があったときに自衛隊が派遣されているじゃないですか。災害派遣って形ならいいんじゃないですか」
〈武器の使用をしなくていいなら派遣できるが、それでは自衛隊員を見殺しにするようなものだろう。防衛出動なら、保有している武器を使える〉
悔しさの滲んだ声。津久井自身、忸怩たる思いなのだろう。
〈それと、ここでいう外部というのは、国または国に準ずる組織のことだ。これがどこかの国による細菌攻撃などだったら要件を満たすが、現時点で国は、その可能性は低いと考えている〉
「その根拠はなんですか」
〈まだはっきりしたことは分かっていないが、この現象は、世界中のすべての国で起きている可能性が高い〉
香月は目を見開く。
先ほどのニュースで、アメリカやイギリスといった国でゾンビが確認されていると言っていたが、実態はもっと酷いのか。
目眩がした香月は、机に手をついて身体を支えた。
〈全貌を把握していないが、状況は最悪だと断言できる。いつ国家が崩壊してもおかしくはない状態なんだ。それでも、この国を守らなければならない。だから、国がゾンビに対処できる状態になるまでの間、君たちでその場所を死守してくれ。そして、早急に原因を明らかにしてほしい〉
「……ここから出たくても、現状では出られないから、ここに残るのは問題ない。ただ、死守なんて無理だ。俺たちには武器もない。自分の命を守るためなら、俺はここから逃げる」
加瀬が言う。
〈その考えでいい。でも今は、守りを固めることこそが、もっとも生き残ることのできる手段だと理解してほしい。官邸も、なるべく早く自衛隊を動かせるように努力しているようだ〉
「防衛出動ができたとして、ここにも応援がくるのか?」
〈……約束はできない。たとえ自衛隊が防衛出動できたとしても、重要拠点の守りを固めることが先決だ。すでに災害派遣という形で、一部の自衛隊員は出動してインフラ施設の防御に当たっている。インフラを守らなければ、二次被害が起こる〉
この暑さで電気が止まったら、熱中症などの死者も増えるだろう。人員をインフラに割くのは理にかなっている。
〈インフラだけではなく、原子力関連施設や石油コンビナート、可燃性ガス貯蔵施設なども優先度が高い〉
「この研究所の優先度は?」
〈……細菌やウイルスの保管をしているという点では危惧すべきだが、現時点で侵入の恐れがないようだから、最優先ではない〉
先ほど香月は、危険はないと回答していた。それで優先度が下がったのかもしれないが、噓は吐けない。
「まぁ、綺麗ごとを言わないだけ、信用できるな」
加瀬は片頰を上げて笑う。
「ここに留まるのは、言われなくてもそのつもりだった。ただ、原因を突き止める件だが、それは約束できない」
〈……なぜだ?〉
「原因解明には、ゾンビの生体か死体が必要だ。ここから出ずに、どうやって確保するんだ?」
返答がない。熟考しているのだろう。
〈……なんとかしてくれ〉
やがて発せられた言葉には、なんの指針もなかった。
「だと思ったよ。でも、まぁ、そう期待をかける気持ちは分かる。予防感染研究所は、日本でもっとも感染症を研究することに適した場所だ。ここで原因が分からなければ、ほかでも無理だと断言してもいいくらいだ」
〈だからこそ、こうして頼んでいるんだ〉
「期待はしないでほしい」
肩をすくめた加瀬が答える。
〈……分かった。ともかく、まずは生き残ることを最優先に考えてほしい。君たちの頭脳も、問題解決に必要な要素になり得るからな。また定期的に連絡するが、念のため、携帯電話の番号も教えてくれ〉
津久井の言葉を受け、それぞれが番号を伝える。そして、電話を取った香月が代表者ということになった。
〈進展があれば、遠慮無く連絡してくれ〉
そう言ってから、少し言い淀んだ。
〈……これは、情に訴えかけるわけではないが、私の妻子も安否不明の状態だ。それでも、こうして職務を全うしようと踏ん張っている。私は死ぬ気でやるつもりだ。だから……頼む〉
電話が切れる。
津久井がどんな人間なのかは分からなかったが、必死なのは伝わってきた。少しでも力になれればと香月は思う。
「後味の悪いことを言うなよ」
最初に声を発した加瀬は迷惑そうな顔をしながら歩き出す。
皆も、それに続いた。
「呪いでもない。ウイルスでもない。ではなぜゾンビ化する?
生命科学者なら誰もが知りながら誰も正面から書かなかったアイデアに感嘆した。
これは『パラサイト・イヴ2.0』でもある」──瀬名秀明氏に絶賛され、さらにKゾンビが好調な韓国からのオファーによって日韓同時刊行を果たした、ゾンビファン注目の書下ろしホラー長編!

石川智健(いしかわ・ともたけ)
1985年神奈川県生まれ。25歳のときに書いた『グレイメン』で2011年に国際的小説アワードの「ゴールデン・エレファント賞」第2回大賞を受賞。’12年に同作品が日米韓で刊行となり、26歳で作家デビューを果たす。『エウレカの確率 経済学捜査員 伏見真守』は、経済学を絡めた斬新な警察小説として人気を博した。また’18年に『60(ロクジユウ) 誤判対策室』がドラマ化され、『20(ニジユウ) 誤判対策室』はそれに続く作品。その他の著書に『小鳥冬馬の心像』『法廷外弁護士・相楽圭 はじまりはモヒートで』『ため息に溺れる』『キリングクラブ』『第三者隠蔽機関』『本と踊れば恋をする』『この色を閉じ込める』『断罪 悪は夏の底に』『いたずらにモテる刑事の捜査報告書』『私はたゆたい、私はしずむ』『闇の余白』など。現在は医療系企業に勤めながら、執筆活動に励む。
(決まり次第、情報追加いたします)
石川智健「ゾンビ3.0」刊行記念!
ゾンビの嗜み選書フェア開催決定!
開催期間:10月24日〜11月30日まで
開催場所:ジュンク堂書店吉祥寺店 6階にて開催
営業時間:10:00〜21:00
〒180-0004 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-11-5 コピス吉祥寺B館6階~7階
石川智健『ゾンビ3.0』刊行記念
「私のおすすめゾンビ本」フェア開催!
開催期間:10月31日~11月30日まで
開催場所:文信堂書店長岡店レジ前文芸書コーナー
営業時間:10時~19時半
〒940-0061 新潟県長岡市城内町1丁目611-1