夢枕獏さん「真伝・寛永御前試合」豪華試し読み!
文字数 27,618文字

宮本武蔵、有馬喜兵衛、塚原卜伝、関口柔心、陳元贇、柳生十兵衛三厳、宍戸梅軒――。
人間を捨てた外道たちが、最強の覇者を決める勝ち抜き戦でしのぎを削る!
「小説現代」の人気連載小説、夢枕獏さんの「真伝・寛永御前試合」の再開を記念して、期間限定で「序ノ巻 外道の王」を豪華一挙大公開!
(イラスト:遠藤拓人)
序ノ巻 外道の王
(一)
その漢が、播磨国は因幡街道の平福宿に姿を現わしたのは、文禄五年(一五九六)五月のことであった。
有馬喜兵衛という名の武士である。
しかし、その体と言えば、喰いつめた武士のようにしか見えなかった。腰に大小は差しているものの、着ているものは、いずれも旅の埃と垢にまみれていた。
宿でも一番安いところに宿を請うた。
髭面で、左頬に大きな刀傷が斜めに走っている。頬骨が張っていて、いかつい顔をしていたが、歯だけはやけに白かった。齢の頃なら、三〇歳を幾つか過ぎたあたりであろうか。
宿に入ってすぐに主人を呼び、
「頼みたいことがある」
そう声をかけた。
「何でござりましょう」
「このあたりに高札を作ってくれる者はあるか」
有馬喜兵衛はそう問うた。
「ござりますが……」
「では、ひとつ頼む」
その高札ができてきたのは、翌日の昼であった。
「硯と筆を」
有馬喜兵衛は、自分で墨を磨り、その高札に何やら書きつけた。
それが終ると高札を抱え、
「出かけてくる」
宿の者に声をかけた。
その時、少し笑った。
思いがけなく清純な笑みがこぼれた。
有馬喜兵衛がやってきたのは、平福宿の東を流れる佐用川に掛けられた金倉橋であった。
その袂に、一本の柳の古木が生えている。
その柳の樹の下に、抱えてきた高札を立てた。
それに、次のように書かれていた。
何人たりとも望みしだい手合わせいたすべし。
我こそ日下無双兵法ものなり。
新当流 有馬喜兵衛
しばらく前、有馬喜兵衛自身が書いたものであった。
さほど達者なものとは思われなかったが、無骨で太い字であった。
立て終った時には、もう、人だかりができていた。
その高札の前に立って、
「有馬喜兵衛である」
有馬喜兵衛はそう言った。
「これにある通りじゃ。我と思わん者は、名のり出られよ」
自分は、平福の宿で、五日ほど待つ。その間に、望みある者は、ここへ己れの名を書くがよい。相手をしよう。
集まった者たちに、そのように告げて、有馬喜兵衛は宿にもどっていった。
有馬喜兵衛、丈五尺五寸(一六五センチ)。
廻国修行の兵法者であった。
修行と言っても、その実質的なところは、就職活動である。諸国を廻って、名のある者と闘って、勝つ。それで名を売るのである。名が売れれば、名立たる武将や名家に召し抱えてもらえるからである。主なる目的は、仕官であった。
だから、相手は、できれば名のある者がよかった。倒した相手が、世間に知られていればいるほど、自分の名声が高まることになるからだ。しかし、名のある者は、名のない者を相手にしない。名のある者は、名のない者に勝ってもそれほどのうま味がない。すでに名を知られている者は、無名で強い相手と闘う危険は冒さない。だから、名のある者と闘いたくば、自分の名をあげるしかないのである。
一四年前、本能寺で明智光秀によって殺された織田信長がまだ存命中の頃、信長は安土城において何度も相撲大会を開いている。そのたびに、よい勝負をした相撲人を、高禄で召し抱えたりしている。
そのことが世に知られて、廻国修行者たちの数を増やしたのである。
とはいっても、生命がかかっていることであり、そうおいそれとは、相手が名のり出てくるわけでもない。
一日、二日、三日たっても、相手は現れなかった。
有馬喜兵衛は、日に何度か高札の前まで足を運んだが、そこに、名を書く者はない。
「あらわれましたぞ」
宿の主人が、有馬喜兵衛にそう告げたのは、四日目の夕刻近くになってからであった。
さっそく金倉橋まで足を運んでみると、高札の前に人だかりがあった。
人を分けて、有馬喜兵衛は高札の前に立った。
見れば──
高札の、自分の名の後に、
明日午の刻御相手つかまつり候。
宮本弁之助
とあった。
朝、見に来た時にはなかったものであった。
宮本弁之助?
知らぬ名であった。
「たれか、この人物を知る者はおらぬか──」
有馬喜兵衛は問うたが、答える者はなかった。
「まあ、よかろう」
有馬喜兵衛は、数歩動いて、高札の斜め横に立った。
刀の柄に手をかけて、すっと腰を沈めた。
ひゅん、
と、刃が光った。
光った時には、もう、その刃は鞘に収められていた。
夕陽の光の中に、ひらりと舞ったものがあった。
それを、有馬喜兵衛は、右手で掴んだ。
──宮本弁之助。
そう書かれた木の薄片であった。
有馬喜兵衛は、高札の表面から、明日の相手の名が書かれたその部分だけを、一瞬にして削りとってみせたのである。
おそるべき、技であった。
(二)
午の刻が過ぎても、宮本弁之助は姿を現さなかった。
垂れ下がった柳の枝が、ゆらりゆらりと揺れている。
その横に立って、有馬喜兵衛は腕を組んでいる。
周囲を囲んでいるのは、この日の試合を見物しようと集まった者たちである。
近在の百姓から、宿で働く者や、旅姿の者までいる。
女、子供、老人、勧進坊主の姿まで、その中にはあった。
皆が皆、一様に焦れていた。
約束の刻限、午の刻はすでにまわっているというのに、相手の宮本弁之助が姿を現さないのである。
有馬喜兵衛は、当然のように、午の刻より前から、その場所に来て立っているのである。
「臆病風に吹かれたか」
「たれかのいたずらであったのであろう」
「もう、来ぬのではないか」
そのような声が、集まった者たちの中からあがっている。
中には、帰ってゆく者もあった。
しかし、ひとり有馬喜兵衛だけが、口をつぐんでいる。
陽差しが、人々の上から注いでいる。
有馬喜兵衛の額には、薄く汗が浮いている。
燕が、しきりに宙を飛んで、虫を漁っている。
その時──
人垣の中に、ざわめきが起こった。
そのざわめきが、有馬喜兵衛の方に向かって動いてきて、ふいに人垣が割れた。
そこに立っていたのは、異様な漢であった。
丈六尺(一八〇センチ)──
当時の人間の多くが、五尺(一五〇センチ)台の身長であったことを思えば、異形人とも言えた。
髪は、蓬髪であった。
好き放題に伸びている。
ぼろぼろの小袖の袖と裾を、引きちぎって着ている。肩の盛りあがった筋肉や、そこから伸びた太い腕が剥き出しになっている。
小袖を止めているのは、荒縄であった。
下帯をくい込ませた尻が、半分見えている。
太い、逞い脚が伸び、大地を踏みしめているのは、素足であった。
右手に、太い、一本の棒を下げていた。
長さ、およそ四尺五寸(一三五センチ)。
長い。
その漢は、ぎらぎらとした眸で、有馬喜兵衛を睨み、
「宮本弁之助っ!」
叫んだ。
有馬喜兵衛は、醒めた眼で、その漢──宮本弁之助を見た。
たしかに、身体は大きい。
しかし、まだ、その身体を作っている線が細い。
それに、面を見れば、まだ、十二、三歳の子供のようである。
いくら身体が大きくても、素手で闘うわけではない。
手にした武器を、いかに早く、相手の身体に触れさせるかが勝負をわけることになる。身体の大きさは、関係がない。
こういう闘いというのは、まず第一に平常心であり、技であり、心構えだ。斬る時にためらわず前へ足を踏み出して、斬り下げる。その強い意志を持つことが必要なのである。
力は、その後のことだ。
この者にあるのは、その力だけだ。
有馬喜兵衛はそう思った。
子供を殺して、名をあげたとて、それがどれほどのものか。
「おい、童」
有馬喜兵衛は声をかけた。
「生命を粗末に……」
そこまで言いかけた有馬喜兵衛の顔面に、棍棒の先がめり込んでいた。
「りゃああああああああっ!!」
叫びながら疾ってきた宮本弁之助が、両手で振りあげた棍棒を、渾身の力で振り下ろしてきたのである。
有馬喜兵衛は、真上から落ちてくる棒を避け、退がりながら、右手で剣の柄を握った。
そこへ、棒が襲いかかってきたのである。
退がっていなければ、その一撃で、脳天を割られていたところだ。
しかし、棒は、顔に当った。
鼻先を削り落とし、前歯を歯茎から割り、下顎を割って、ちぎった。
異様な顔になった。
さらに、棒は下に振り下ろされ、刀の柄にかけた右腕をへし折っていた。
「あばっ」
っと、口から血飛沫をあげた有馬喜兵衛の左頬を、棒が、横殴りに殴りつけた。
何かの潰れる、いやな音がした。
有馬喜兵衛の左眼が、外へ飛び出していた。
どう、
と、有馬喜兵衛の身体が、前のめりに倒れていた。
「しゃああっ」
雄叫びをあげて、宮本弁之助は咆えた。
咆えたその声が、ふいに止んだ。
宮本弁之助は、足元を見た。
前のめりに倒れた有馬喜兵衛の右手が、宮本弁之助の左足首を掴んでいたからである。
有馬喜兵衛は、顔をあげた。
ひどい顔だ。
そのひどい顔が、笑ったように見えた。
宮本弁之助の髪が、逆立った。
「かああっ」
「があああっ」
「ががあああっ!!」
声をあげながら、宮本弁之助は、足元の有馬喜兵衛の頭へ、棍棒を振り下ろした。
何度も、何度も、何度も──
有馬喜兵衛が動かなくなっても、宮本弁之助は、棍棒を振り下ろし続けた。
有馬喜兵衛は、宮本弁之助によって、撲殺されたのである。
(三)
梅雨は、じきにあがりそうだった。
軒越しに見あげる空が明るかった。
雲が薄くなって、大気全体にほのかに光が満ちているのである。
その光の中を、細い雨が、きらきらと光りながら落ちている。
笠や蓑なしに歩いても気にならないほどだ。
本堂の濡れ縁の上に、弁之助は、秋山虎之介と並んで座している。
中山道──
馬籠村にある永昌寺に、ふたりは雨を避けて、軒下を借りたのである。
「もう少し、小降りになったらゆくとしようか──」
秋山虎之介が、空へ眼をやりながら言った時──
人の気配があって、足音が近づいてきた。
永昌寺の住職であった。
島崎某という人物で、寺をやりながら、旅の者に宿として寺を貸したりもしている。
中山道──織田信長が、六角氏攻略のために整備して、このように呼ばれるようになった。別名、木曽路とも言われ、馬籠村のこのあたりは、後に宿として賑ってゆくのだが、まだ、この頃はそれほどの賑いはない。
慶長四年(一五九九)、信長が本能寺で明智光秀によって殺されてから、一七年──関ヶ原の戦いの前の年である。
「どうぞ、お食べなされ」
住職は、ふたりの間に、盆を置いた。
その上に、笹の葉が敷かれ、そこに、握り飯がふたつ、載っていた。
「かたじけない」
秋山虎之介は、盆を引寄せ、
「せっかくじゃ、食え、弁之助」
そう言った。
弁之助は、虎之助を見た。
「遠慮は失礼じゃ、食え」
言われて、弁之助は握り飯に手を伸ばし、それを摑んでロに運び、かぶりついた。
虎之介は、嬉しそうに弁之助を見やりながら、眼を細めている。
「どうじゃ、うまいか?」
「うまい」
ロを激しく動かしながら、弁之助はうなずいた。
「そうか、そうか──」
虎之介は、弁之助に向かって微笑した。
虎之介は、悠々と握り飯に手を伸ばし、それを掴んだ。
その時には、もう、弁之助は握り飯を食べ終えて、指先についた飯粒を白い歯でこそぐようにして取って食べているところであった。
弁之助が、虎之介と会ったのは、半月ほど前、京でのことであった。
(四)
その時も、雨が降っていて、弁之助は智恩院の山門の下で雨宿りをしていた。
弁之助の他には、武士が数名、商人風のものが数名、旅の者が数名、旅の勧進聖がひとりいたか、どうか。
その中に、秋山虎之介もいたのである。
ちょうど、三年前、弁之助は、有馬喜兵衛を、平福宿で撲殺している。
その時よりも丈は伸び、六尺に余るようになっていた。
虎之介もまた、身体の大きな漢であった。丈こそ弁之助ほどはなかったが、それでも、大きい。身体つきががっしりしているため、弁之助より目方はある。
三〇歳前後であろうか。
腰に、大小の二本を差し、廻国修行者のように見える。
それで、雨宿りをしながら、弁之助は虎之介を見つめていたのである。
「何じゃ、大童──」
声をかけてきたのは、秋山虎之介の方からであった。
弁之助の、すぐ近くに、虎之介は立っていた。地声が大きいのか、その声は、よく弁之助の耳に響いてきた。
「おれの顔に、何かついているか」
「童ではない」
弁之助は言った。
「名がある」
「何という名じゃ」
「宮本弁之助」
「ほう」
と、うなずき、
「わしは、秋山虎之介じゃ。但馬国の産よ」
周囲に届くような声で言った。
すると、周囲の者たちの間に、小さなざわめきのようなものがおこった。そこにいた半数以上の者が、秋山虎之介の名を知っているらしい。
皆の視線が、秋山虎之介に集まっている。
「廻国修行の者じゃ」
秋山虎之介は、弁之助に、というよりは、まわりの者たちの耳に聞こえるように言っているようであった。
「ぬしは、どうなのじゃ」
秋山虎之介は、弁之助の風体を値踏みするように、視線で舐めまわした。
常人にない、人を圧するような気配を身にまとわりつかせているこの若者に、興味を覚えたらしい。
たしかに、弁之助の身体からは、ただの汗の臭いではない獣臭の如きものが漂っている。
山門の下に雨宿りしている人の群の中に、狼が一頭まぎれ込んでいるようなものだ。
虎之介は、弁之助の放つ体臭に、自分に似た臭いを嗅ぎつけたようであった。
「おれもそうじゃ」
弁之助は言った。
「廻国修行者と言うつもりか」
虎之介が問うたが、弁之助は、その問には答えなかった。
かわりに、
「人を斬ったことは?」
弁之助が訊いた。
「ある」
「何人じゃ」
「四十八人」
虎之介の声に、
ほうっ、
という声が、周囲の者たちからあがった。
「本当か?」
弁之助が問えば、
「わしが言うたは、嘘と言うか」
ふいに、虎之介の声が低くなった。
周囲の者たちの身体が、ふたりから一瞬、退くような気配があった。しかし、実際に彼らがふたりから距離をとったわけではない。
わずかに間があってから、
「許してやろう」
虎之介は、微笑した。
かわりに、
「ぬしはどうじゃ」
そう問うてきた。
「ない」
弁之助は言った。
「それでは斬れぬか」
虎之介は、弁之助の左腰に眼をやった。
そこには、無造作に、太い木の棒が差してあった。
「斬ったことはないが、これで殺したことはある」
「何人じゃ」
「ひとり」
弁之助は、ぼそりと言った。
「ふうん……」
とうなずきながら、虎之介は、懐に手を入れた。
引き出された時、その手には竹の皮で包まれたものが握られていた。
それを開く。
三きれの餅が出てきた。
「これをやろう」
虎之介が、それを差し出してきた。
「いいのか」
「よい」
虎之介が言うと、弁之助は、無言で手を伸ばし、その餅を掴んで口の中に放り込んだ。
虎之介は、黙ってそれを見ている。
弁之助が、それを呑み込むのを待って、
「食うたな」
そう言った。
「ああ──」
「どうじゃ、食うたのなら、わしの弟子にならぬか?」
虎之介は、餅を手に取って、自らもそれを食べはじめた。
「弟子に?」
「そうじゃ」
食べながら、虎之介は言った。
「剣の扱い方を教えてくれるのか──」
「ああ、教えてやろう。そのかわりに、ぬしゃ、このわしの身の回りの世話をせよ」
「飯は?」
「食わせてやる」
「ふうん」
「どうじゃ」
「なってやってもいい」
「なれ」
「わかった」
そういう会話をしているうちに、雨が止んできた。
「では来い」
秋山虎之介が、小雨の中へ、足を踏み出した。
「ゆくぞ」
「どこへ?」
「四条大橋の下の河原じゃ」
「何をしにゆく」
「弟子が、師に、あれこれ訊くものではない。ぬしに、教えてやろうと思うてな」
「何をじゃ」
「人の斬り方じゃ」
秋山虎之介は、もう歩き出している。
土手から河原に降りた。
そこには、もう、人が集まっていた。
橋の上にも、河原の草の間にも、無数の人間が集まっている。
「何じゃ、これは?」
「見物人じゃ」
「見物人?」
「そうじゃ。あの者たちが、このわしの名を天下に広めてくれるのじゃ」
人を分けてゆくと、
「おう、来たぞ」
「秋山様じゃ」
「秋山様ぞ」
そういう声があがって、自然に人が左右に分かれた。
その向こうに、二〇代半ばと見える武士が独り、立っていた。
頬髭が濃い。
「遅いぞ、秋山氏」
その武士が言った。
「雨が止むのを待っていた」
虎之介は、けろりとした顔で言った。
「天地一神流、橘一之進、お相手つかまつろう」
「明水一刀流、秋山虎之介じゃ……」
虎之介は、落ち着いた声で言った。
「そこな御仁は?」
「わが弟子じゃ。お気になさるな。手出しはせぬ」
ずい、
と、虎之介が一歩前に出た。
間合の一歩手前で、虎之介は橘一之進と向きあった。
あらかじめ、ここで立ち合うことを、ふたりはすでに決めていたらしい。
弁之助は、この日、初めて京に足を踏み入れたばかりであり、このふたりの立ち合いのことは知らなかったのだが、このことは京ではそこそこ有名になっているらしい。
だから、これだけ、見物人が集まっているのであろう。
橋の上や河原に、二百人、三百人の人間が集まって、これから起こるはずのことを見物しようとしているのである。
「いつ始める?」
秋山虎之介が問う。
「いつでも──」
橘一之進は言った。
「では──」
と、浅く腰を沈めた虎之介は、何かに気づいたように落とした腰をもとにもどし、
「おい、弁之助──」
声をかけてきた。
「何だ」
弁之助が言う。
「そこに、しばらく前の雨で流れてきた木が一本転がっている」
顎の先で、秋山虎之介はそれを示した。
確かに、ふたりの間にある草と石の問に、人の腕一本くらいの長さの流木が転がっており、一方の端が少し浮いていた。
「闘っている最中、これに蹴つまずいて不覚をとったとあらば、それがいずれであっても心が残る」
真面目な口調で言った。
「弁之助、それを拾って、どこぞ遠くへ捨ててまいれ」
一瞬とまどった後、すぐに弁之助は歩いてふたりの間に割って入り、身をかがめてその流木を手にとろうとした。
その時──
いきなり、虎之介が前に出たのである。
どん、
と、蹴られていた。
何が起こったのか、弁之助にはわからなかった。
転がって、橘一之進足元まで、弁之助は倒れ込んでいたのである。
一之進は、一瞬、転がってきた弁之助に、注意を奪われていた。
そして、視線をもとにもどした時には、もう、抜刀した虎之介が眼の前まで迫っていたのである。
「きゃあああああああああっ!!」
剣をふりかぶり、弁之助を跳び越えざま、それをおもいきり振り下ろしていた。
ざくり、
と、脳天から両眼の間まで、振り下ろされた剣が潜り込んでいた。
ぎろり、
と、両眼の眼球が、中央に寄って、ちょうど両眼の間にあるその刃を睨んだ。
その後──
くるりと一之進の眼が裏返って、白眼になった。
両手で剣を握ったまま、虎之介は、一之進の胸に左足を当てて、蹴るようにして押した……
刃が抜け、一之進は仰むけに倒れ、草と石の上で、全身をがくがくと痙攣させていた。
そして、ふいに、動かなくなった。
弁之助は、起きあがって、虎之介を睨んでいる。
わざとだ──
弁之助はそう思っている。
虎之介は、わざと自分に木を拾わせ、蹴り倒し、橘一之進の注意をそらせ、斬り殺したのだ。
「怒るな」
秋山虎之介は言った。
「さっき食わせた、餅の分の仕事をしてもろうたまでじゃ──」
秋山虎之介は、平然としてそう言った。
(五)
秋山虎之介は、水を飲んでいる。
しばらく前、谷川から自ら汲んできた水であった。
濡れ縁に座し、竹筒を口にあて、ごくりごくりと音をたて、喉仏を上下させている。喉の奥に棲む異形の生き物のように、喉仏が動く。
飲み終えて、濡れた唇を手の甲でぬぐい、
「飲め」
まだ水の残った竹筒を、弁之助に差し出してきた。
弁之助は、竹筒を受け取った。
「時に御住職」
虎之介は、まだそこにいた永昌寺の住職に声をかけた。
「何でござりまするかな」
「このあたりに、梵天山というのがあると聴いたのだが──」
「あれでござりますな」
住職は、頭をめぐらせて西の方角を指で示した。
寺の築地塀のすぐ向こうに生えた杉木立ちの先に、山が見えていた。木曽の峨々たる高峰の中にあっては、山というより、小高い丘のようにも見える。
思いの他近くであった。
虎之介は、その山を見やり、
「天狗が棲んでいるそうじゃな」
梵天山に眼を向けたまま言った。
「天狗?」
「爺いの天狗だ」
「ああ、笠下様のことでござりますね」
「〝かさもと〟というのか、その天狗──」
「はい」
「どういう字を書くのじゃ」
「蓑、笠の笠に下と書いて、笠下であったと記憶しておりますが……」
「なるほど、笠に下か」
うなずいて、
「いつ頃から、こちらへ住むようになった?」
虎之介が問う。
「笠下様でござりますか」
「そうじゃ」
「はて、いつからでしたか。十年ほど前にはもう、いらっしゃったと思いますが……」
その笠下という老人は、いつの間にやら、梵天山に住むようになって、馬籠村の者たちが気づいた時には、谷の細い清水の流れるあたりに小屋を建て、狭いながら土地を開墾して、そこで作物など作るようになっていたというのである。
時おり、猪や、鹿を担いで山から下りてきては、まだ、それほど多くはない宿の何軒かに顔を出し、その獲物を置いて、代りに、味噌、醤油、酒、米などをもらって、もどってゆくというのである。
「あまり、たれかと言葉をかわすというのが、お好きではないようで……」
必要以上のことは口にしない。
「名が笠下か……」
思案げに首を傾けた虎之介が、すぐに傾けた首をもどし、
「なるほど、そういうわけか」
納得したように、自分でうなずいた。
「そのお名が、どうかいたしましたか」
「いや、こっちのことだ」
「ある時、名を問われて、御本人がそのように呼んでくれと、申されたように聴いております」
「ふうん」
「しかし、御老人の身で、頭を落としたり、血を抜いたりはしてあるものの、猪や鹿一頭を担いで山を下りるというのは、並の足腰ではござりませぬな。まさに天狗さまで」
「さもあろうさ」
「お客様は、笠下様とお知り合いにござりますか」
「いいや、知り合いではない」
「山の中で暮らしてはおりますが、かつてはさぞや名のある方だったのでござりましょう。いつも、腰に太刀を下げておりまして、鹿や猪も、どうやら、罠や、鉄砲で撃ったものではないようでござります」
「ほう?」
「笠下様が持ってこられた猪や鹿は、どれも、頸や喉に深い刀傷がござりまして、もしかすると、笠下様、お腰のもので獣と斬り結び、斬り倒した獲物を持って山から降りてこられるのでしょうか──」
「よい話じゃ」
虎之介は微笑した。
「しかし、お客様。お客様は、これから梵天山にゆかれるのですか」
「そのつもりじゃ」
「笠下様に会いにゆくつもりなのでござりますか」
「うむ」
と虎之介がうなずくと、住職の顔が曇った。
「何か?」
「悪いことは言いませぬ。お止めなされ」
「何故じゃ」
「あなた様が、笠下様の顔見知りでないのなら、ゆくのはおよしになられた方がよろしいのではと思うたからでござります」
「じゃから、それは何故じゃと問うておる」
「これまで、何人か、あなた様のような方が、似たようなことをおっしゃって、山に入ってゆかれましたが、たれひとりとして、もどってきた方はおりませぬ」
「たれひとりとしてというと、何人くらいのことじゃ?」
「確かなことはわかりませぬが、五人、六人ほどはおりましたか──」
「なんだ」
「いやいや、我々の知るところが五、六人というだけで、実際は、もっと数が多いやも知れませぬ──」
「それを言うのなら、その五、六人も、村に立ち寄らず、無事に帰っておるのやもしれぬ」
「それもそうですが……」
「いったい何だというのだ」
「笠下様、普通ではござりませぬ」
「どう普通でないのじゃ」
「異様な臭いがするのでござります」
「臭い?」
「お召しものが──」
「ずっと洗ってないというか」
「いえ、ただそういう以上のものにござります。獣のようなと申しますか、いえ、獣以上の、何か、たまらぬ臭いが……」
「ほほう」
虎之介、楽しそうに眼を光らせた。
「それが本当なら──」
「本当なら?」
「おもしろいではないか」
虎之介、にんまりと笑った。
「さもあろう、さもあろう。そうでなくてはならぬ」
膝を打った。
「楽しみじゃ。なあ、弁之助──」
弁之助は、何が楽しみなのかはわからない。
しかし、この時、秋山虎之介の膝が、微かに震えているのを見た。
「さて、ゆくかよ」
虎之介は立ちあがっていた。
(六)
雑木林の小径を抜けると、あたりが開けた。
雨があがったばかりで、陽が照りつけたため、湿気を含んだ草熱れが凄まじい。
すぐ先に、畑があり、胡瓜がなっているのが見える。
南東の方角に、これまで雲に隠れて見えていなかった、恵那山の青い峰が見えている。その麓に、雲が這うようにからんで動いている。
空が青い。
梅雨が去り、天地は半日足らずで一変して夏になっている。
むっとする、熱気の塊りのような風が野を渡っている。
家があった。
畑の向こうに、小さいながら、草を葺いた家があった。
屋根の上から、煙があがっている。
中で、火を焚いているらしい。
近づいてゆく。
家の横手に、小さな渓の上流から竹筒で曳いてきたらしい水が、桶に音をたてている。
戸は、閉まっていた。
戸の数歩手前で、虎之介は足を止めた。
「化物じゃ……」
呻くようにつぶやいた。
弁之助は、並んで足を止め、虎之介を眺めている。
背が、何だかむず痒く、右手を背に回してそこを掻いた。
「弁之助、化物が見たいか……」
虎之介が言った。
「化物?」
「そうじゃ、見たいか」
「見たい」
素直に、心のままを口にした。
どうやら、虎之介は、この家の中にいる何ものかを怖れているらしい。
本当に、化物などこの世にいるはずはないと、弁之助は思っている。
しかし、秋山は、化物と口にした。
秋山は、弁之助の評価では、おそろしく強い。以前、闘って殴り殺した有馬喜兵衛など、秋山虎之介の半分にも及ぶまい。それが、弁之助にはわかる。
だから、虎之介の弟子になったのだ。
一緒にいても、虎之介の用心深さには驚く。
必ず、自分より後に眠る。そして、起きる時は先だ。自分が眼を覚ますと、もう、虎之介は起きている。野にやすむ時であれ、宿に泊まる時であれ、この半月、眠っている姿を見たことがない。
この自分にさえ、虎之介は心を許していないのだ。
その虎之介が、この家の中にいる
もの
に、怯えている。それは、いったい何か。
それに興味があった。
「では、弁之助、訪うて戸を開け、中にいる者に秋山虎之介が来たと伝えよ」
「はい」
弁之助はうなずいた。
そもそも、どういう用事があって、秋山虎之介が、この地へやってきたのか、それを弁之助は知らない。
虎之介は、京を出る時、
「いずれへまいられるのでござりますか」
弁之助に問われて、
「馬籠じゃ」
短くそう答えただけだ。
笠下という人間に会いに来たのだということも、先ほど永昌寺で知ったばかりである。
戸口の前に立ち、
「お頼み申します」
声をかけた。
「わたくし、秋山虎之介の弟子、宮本弁之助と申すものでござります」
そこまで言って、戸を叩こうとした時、さらに激しく、さっき掻いたばかりの背のその部分が痒くなった。
その時、何かが、ふっ、と顔を打った。
物理的な力ではない。
何か眼に見えない、透明な力のようなものが、顔面にぶつかってきたのだ。
何かいる。
それがわかった。
戸の、薄い板一枚を隔てたすぐ向こう側に──
虎之介の言葉を借りるなら化物だ。
これか。
これに、虎之介は気づいていたのか。
負けてたまるか。
〝かあっ〟
と、全身の力を振りしぼり、戸に手を掛けた。
ごとり、
と、戸を開いた。
その瞬間、弁之助は、〝わっ〟と声をあげて、思わず後方ヘ跳び退くところであった。
戸口に、ひとりの老爺が立っていたのである。
それだけではない。
全身に、熱い、温度を持ったものがぶつかってきたような気がしたのだ。
跳び退くことをしなかったのは、戸口に立っていた老人が、優しい笑みを、顔中に浮かべていたからであった。
痩せた老人であった。
背が、少し曲がっている。
老いた猿のような皺だらけの顔をしていた。
年齢は──
見当がつかない。
七〇歳、八〇歳という年齢までは、弁之助も見当がつく。実際に、そういう歳の老人を見ている。しかし、今、眼の前に立っている老人は、もっと歳をとった顔だ。
九〇歳?
百歳を越えているか。
皺の中に笑みがあるのか、笑みの中に皺があるのか──
「どういう御用かな──」
その老人は言った。
同時に、異様な臭いが弁之助の鼻をついた。
(七)
家の中は、思いの他、整っていた。
床板があって、囲炉裏が切ってあった。
その囲炉裏を囲んで、三人で座している。
虎之介と老人は、囲炉裏を挟んで向きあっている。
弁之助から見て、左側が老人で、右側が虎之介であった。
囲炉裏では、火が燃えている。
自在鉤から、炎の上に鍋がかかっている。
鍋の中でぐつぐつと煮えているのは、菜を入れた粥のようであった。
炎は大きくない。
細い炎が、ちろちろと黒い鍋の底をなぶっている。
火が燃えているというのに、家の中には、冷気の如きものがこもっていた。その冷気の中心に座しているのが、老人であった。
老人は、さっきの、あの火の如き気を、もう放ってはいない。
見た眼は、もう、ただの老いた猿のような好々爺だ。
ただ、吐き気を催すような臭気が、老人から立ちのぼってくる。
老人は、右手に火箸を持ち、炭になって火の周囲に散った火種をそれでつまみ、火の中にもどしている。
「ちょうど、この粥を食おうと思うていたところじゃ」
老人は言った。
「もうしわけござりませぬ」
虎之介は、頭を下げた。
すでに、互いに名をなのっている。
弁之助も、あらためて、自分の名を老人に告げた。
「ところで、廻国修行をなさっておられるとか──」
老人が、火箸で火をいじりながら言う。
炎がはぜ、赤い火の粉が散った。
横手の破れ障子は開け放たれていて、風は入ってくるのだが、その風の方が熱い。
「はい」
正座をしている虎之介が、神妙な面もちでうなずく。
「それが、秋山殿には、どうしてかような爺いのところへ、足をお運びなされたのかな──」
「廻国修行の身なれば、諸国を回っておりますうちに、様々な噂を耳にいたします……」
「ほう?」
「その噂の中に、あなたさまがこちらにお住まいになっていらっしゃるという話がござりました。それが本当であれば、ぜひとも武芸談議などいたしたく、やってまいりました」
「それだけ?」
「いいえ。もし、お許しがいただけるのなら、何か一手なりとも、技を伝授していただこうと……」
言われた老人は、
くつ、
くつ、
と嗤い、
「どのような技も、わたしは持ってはおりませぬ」
そう言った。
「いえ、ぜひ、一手の御伝授を──」
「これは弱った」
老人は、頭を掻いた。
背を丸め、下から、
ぞろり、
と虎之介を見あげた。
その眼が、笑っている。
虎之介もまた微笑した。
その微笑を消さずに、
「一の太刀というのがござりますそうな」
ぽつりと、虎之介が言った。
「ほう……」
老人の眼が光る。
「何とぞ、その一手なりとも、御伝授いただきたく……」
「知りませぬなあ」
「あなたさまが、この世に生み出された、必殺の剣にござりまするぞ」
「はて──」
と、老人が首を傾けたところへ、
「おとぼけは通じませぬぞ、塚原卜伝さま──」
秋山虎之介は言った。
(八)
「何のことやら……」
秋山虎之介から、塚原卜伝と呼ばれた老人は、首を小さく左右に振った。
「あ、ちょっと、言い忘れておりましたが、この奥に、ひと間がござりますが、そちらにはくれぐれもゆかれませぬよう……」
話題を変えようとしたのか、どういう意味なのか、不思議なことを、老人は言った。
老人の言葉を無視して、
「わが問いに、お答え下され、卜伝さま……」
虎之介は言った。
塚原卜伝──
さすがに、この名は弁之助も知っている。
今でこそ、廻国修行、武者修行などと称して、諸国を巡りながら仕事を捜したり、金にありつこうとする者が多くいるが、そもそもそれを流行らせたのは、その塚原卜伝であった。
この時期にあっては、最も高名な武芸者と言っていい。
生まれは、延徳元年(一四八九)。
代々鹿島神宮の大行事職にあった卜部吉川家の次男として、この世に生を受けた。
大行事職と言えば、神職であり、その年の吉凶を占う亀卜をつかさどるのがその仕事である。神領内の治安を守ることも、その仕事の中には入っている。
幼名は、朝孝。
ここで、卜伝は、実父から鹿島古流を学んでいる。
卜伝を名のるのは、同じ一族の塚原安幹の養子となってからのことであり、卜伝は、そこで、義父から天真正伝香取神統流を学んだ。
鹿島古流、香取神統流──我が国に多くの武術が生じたが、源を尋ねると、いずれもこの二流にたどりつくものが多い。
卜伝は、その二流派をふたつながら身につけたことになる。
剣聖と言われた。
その生涯で、三九度の合戦に出、一九度の真剣勝負を闘ったが、矢傷が六か所ある他は、ただの一度も剣で傷つけられたことがない。
卜伝には、一の太刀と呼ばれる秘太刀があるが、これがどのようなものであったかは知られていない。
幾つかの逸話が残されている。
ある時、卜伝は、ひとりの武芸者に勝負を挑まれたというのである。
これを、卜伝は受けた。
試合前、卜伝は相手の武芸者のことを、徹底的に調べあげた。すると、この相手、構えは左太刀で、過去の闘いでは、必ず、右か左かの片手に剣を握って、対戦者を斬り捨てているということがわかった。
そこで、卜伝は、試合前、再三にわたって、相手に次のようなことを申し入れた。
「左太刀、片手の勝負というのは、見苦しく、誉められたものではない。当日の試合では、これは、やらぬ方がよろしかろう」
試合の時、相手は、当然の如くに、左太刀、片手に剣を握って、勝負を仕掛けてきた。
これを、卜伝は一刀のもとに斬り捨ててしまったというのである。
相手がどういう技を使うかがあらかじめわかっていれば、立ち合いの時、こちらは圧倒的に有利になる。
もうひとつ。
これは、広く知られている話だ。
琵琶湖を、ある時、卜伝が舟で移動していたのだという。
乗り合いの舟だ。
様々な人間が乗り合わせていて、その中に、ひとりの若い武芸者がいた。
この武芸者が、同舟の者の中に卜伝がいるのを知って、試合を挑んできた。
卜伝は、はじめ、あいてにしなかったのだが、あまりに相手がしつこく挑んでくるので、
「では、あの中州でお相手つかまつろう」
このように言った。
船頭に言って、舟を中州へむかわせた。
膝くらいの浅さになった時、若い武芸者は舟から跳び降り、先に中州へあがって、
「いざ」
と、卜伝を待っている。
卜伝は、船頭から竿を受け取って、その竿で水の底を突き、すうっと舟を深みへ移動させてしまう。
「コリャ、卜伝、何をする」
若い武芸者は、怒って、ざぶざぶと水を分けて追ってきたが、たちまち深くなって、舟に追いつくことができない。
「無手勝流じゃ」
卜伝は、笑って言った。
中州に、若い武芸者を残したまま、舟は、当初の目的地に向かって、琵琶湖の面をたちまち遠ざかっていってしまったという話である。
卜伝、このような胆技も使うことができたのである。
その弟子にもまた、錚錚たる顔ぶれがそろっている。
あえて、ちまたに伝説の如く弟子として伝えられている人物も含めて、それを次にあげておくと──
雲林院松軒。
諸岡一羽。
真壁氏幹。
斎藤伝鬼房。
松岡則方。
足利義輝。
北畠具教。
細川幽斎。
今川氏真。
林崎甚助。
上泉信網。
いずれも、戦国の世を彩った人物たちである。
その塚原卜伝が、今、眼の前にいる老人であると、虎之介は言うのである。
(九)
「隠されても、正体は、わかっております。その御名が、何よりの証拠にござりましょう──」
虎之介は言った。
「この名の何が証拠じゃ」
「笠下さまの御名、これを絵解きいたしましょうか──」
「ほう……」
「笠下さまの、〝下〟の字、この一番上の横に引きたる一文字、これを世間から身を隠す笠と見たてて、この笠を脱いだら、いかがなことになりましょうや」
「それが何じゃと?」
「〝下〟の字より、笠である〝一〟の線をひくと、残ったものは〝卜〟。これはまさに、卜伝さまの〝卜〟の字に他なりませぬ」
「こじつけじゃ。わしはただの爺いじゃ」
「いいえ。歳をめされておられるとはいえ、そのたたずまい、その眼光、それがなんで、ただの爺いであるものか──」
「これは、弱りましたの──」
つぶやきながら、老人は、弁之助を見やった。
「そなた、弁之助というたか──」
「はい」
「いつから、こちらの虎之介殿と一緒に歩いておられるのかな」
「まだ、ひと月足らずにござります」
「さしずめ、毒見役にでも選ばれたか?」
「毒見役?」
「廻国修行者は、強ければ強いほど敵に恨まれる。時に、あちこちで飲む茶や、食いものなどに、ある日、いつ毒などを盛られるか、わかったものではないからのう……」
言われた途端、
──どきり、
と、弁之助の心臓が音をたてた。
思いあたることがあったからである。
「この男が試合う時に、前に出たりはせなんだか。いきなり尻を蹴られて、相手の前に、つんのめり出ていったことはあるかの……」
あっ、
と、声をあげそうになった。
京で、虎之介が橘一之進という武芸者と闘った時、まさに自分はそういうことをされていたからだ。
「図星であったかよ……」
老人は、つぶやいた。
「しゃべりすぎじゃ、弁之助……」
虎之介が声を低めてつぶやいた。
弁之助が、虎之介について何か語れば、それが手掛かりとなって、相手に、手の内を教えてしまうことになる。
弁之助は、尻でにじって退がった。
いつ、虎之介が、どう自分を利用するのか、それがわからなかった。
では、自分の弟子にならぬかと虎之介が言ったこと、あれは嘘であったというのか。
ただ、単に、自分は毒見役であり、相手に隙をつくらせるための道具であったというのか。
ならば──
最初に虎之介と会った時、餅を食わされた。
あれも、毒見であったというのか。
そう言えば、水は、いつでも、己れで汲んだものしか、虎之介は飲もうとしなかった。
思い出せば、さっきの永昌寺でも、自分が先に、茶を飲んでいる。自分より先に、虎之介は眠らず、起きる時は先であった。
それは、そういうことであったのか。
弁之助の背を、疾り抜けるものがあった。
恐怖であるとか、そういった感情をともなっていたかもしれないが、それは、感動であった。
なんと凄い。
廻国修行者という者は、勝つため、死なぬためにそこまでのことをせねばならないのか。
「まあ、そういうことじゃ……」
老人は、つぶやいた。
卜伝は、元亀二年(一五七一)に、八〇歳をいくらか越えたあたりで、亡くなっているはずであった。
もしも、この老人が、塚原卜伝であるというなら──
その齢、百歳を越えていることになる。
「勝負に勝とうと思うたら、あらゆることをそれへ向けねばならぬ。眠る時も、糞をひる時も、油断できぬ。女と交うておる時などに襲われたらどうする。眠るのは、仕方がない。人は、そのようにできておる。じゃが、女は、己れの意志で遠ざけることができる。それでも、寄ってくる女がおるからの。じゃから、わしは、自らの着るものに、魚のはらわたを潰して、それを擦り込むのじゃ。女が寄って来ぬようにな……」
老人は、
く、
く、
く、
と、自嘲するように笑った。
「若い頃からそれをやっているうち、今は、この臭いなしには寝られぬようになってしもうたわ……」
ぎろり、
と、老人は眸を光らせた。
「それでもな、女が欲しゅうて欲しゅうてたまらなくなる。この歳になってもな。狂うほどに欲しゅうなる。それを我慢して、我慢して、その我慢した精気が、臭い、身体からしたたり落ちるほどになれば、それが、力となる。技などは、その後じゃなあ……」
そうか、この老人の身体にまとわりついている、たまらぬ臭気はそれであったかと、弁之助は思った。
「来るのじゃよ……」
老人が、つぶやいた。
「こんな山の中にもなあ。このわしと闘って名をあげたいと考えるやつが、来るのじゃ。ぬしのようにな……」
何人も、何人も……
そう言って、老人は、虎之介を見た。
虎之介の額に、細かい汗が浮いていた。
もう、始まっているのだ。
弁之助には、それがわかった。
ちりちりと、髪が焦げてゆくような何かが、今、虎之介とこの老人との間で、始まっているのだ。
さぐりあい、隙を捜しあっているのだ。
空気が張りつめていた。
老人は、右手に、火箸を握っている。
さっきから、それで火をいじっている。
虎之介が警戒しているのはその火箸であった。
それが、弁之助にもわかった。
虎之介の刀は、左側に置かれている。
闘いとなったら、それを左手で握り、右手で抜いて斬りかからねばならない。
虎之介の方が、得物は長いが、手順が、ひとつ多い。
しかし、これで、始まってしまうのか。
一手の御伝授をと言ったのは、虎之介である。
老人は、まだ、それを受けてはいない。
橘一之進の時は、すでに向こうは、試合とわかってあの場に臨んでいる。臨んでいる以上、相手にどのような手を使われようが、文句は言えない。
しかし、この場合は──
「ま、やめておきましょうかの……」
老人が言った。
老人の中に張りつめていたものが、ふっ、と緩んだ。
老人は、右手に持っていた火箸を火の中に剌し、その手を離した。
その瞬間に、虎之介が動いた。
左手に剣を握り、右手でその剣の柄を握っていた。
虎之介の腰が浮いたその時──
ざぶり、
と、虎之介の顔に、かかったものがあった。
それは、煮えたぎった粥であった。
老人が、鍋を持って、それを虎之介にぶっかけたのである。
左手で鍋のつるを握り、右手で鍋の縁を握り、中身をぶちまけたのだ。
防ぎようがない。
剣や、固形物なら、何かではらうこともできようが、煮えた、湯に近い粥は、はらいようがなかった。
「ぐわっ」
声をあげながら、それでも、虎之介は剣を抜いていた。
かあん、
と、音がした。
鍋に、剣が当たった──いや、鍋で、老人が剣を防いだのである。
「ぐわわわわっ!」
「がわわわわっ!!」
虎之介は、立ちあがり、剣を握ったまま、奇妙な踊りを踊っていた。
老人が、灰の中に一歩を踏み出し、右の拳を、虎之介の股の間に突き出していた。
その手に握られていたのは、二本の火箸であった。
真っ赤に焼けた二本の火箸で、虎之介は、肛門を突き刺されていたのである。
ぐりっ、
ぐりっ、
と、老人の拳が動いて、虎之介の肛門が扶られる。
「うきゃあっ!」
「あきゃあっ!」
虎之介が、踊りながら、高い声をあげる。
剣が、落ちていた。
その剣を拾って、老人が立ちあがった。
「ぐむむむうっ」
呻きながら、虎之介が仰向けに倒れた。
虎之介の額に、老人は無造作に剣を打ち下ろした。
頭部が割れた。
虎之介は、眼を開いたまま、動かなくなった。
右眼が、被った粥で、煮えて白く濁っていた。
虎之介の割れた額から、どろりと血にまみれた脳が流れ出している。
それを、老人は、右手でひとつまみすると、口に運んでペろりと食べた。
「うまい……」
にいっと笑った。
その時、弁之助は見ていた。
今、鍋の縁を握った右手の指の皮が、熱にやられてべろりとむけているのを。
老人が、弁之助を見下ろしている。
「今の粥が、一の太刀じゃ」
老人は言った。
「最初のひと突き、最初のひと斬りで、勝負を決する。それは、剣でも粥でも、何でもよい。これが、この卜伝の一の太刀よ」
老人が、弁之助に向かって、その足を一歩踏み出した。
弁之助は、動けない。
「怖いか──」
老人──塚原卜伝が問うた。
「怖くありません」
弁之助は言った。
「ほう……」
「あんたは、凄い……」
弁之助は、小便と糞をひり出しながら呻いた。
怖い。
怖いが、その恐怖よりも、もっと凄まじいものが、弁之助の肉体を襲っていた。
それは、感動であった。
凄い。
卜伝は凄い。
生きるということは凄い。
弁之助の身体は、震えていた。
「ぬしに、今、一の太刀を伝授した。思えば、これが心残りであった。たれかにこれを伝授せぬまま、死ぬのもなあ。しかし、今、伝授した。心残りはない。故に、おまえを殺す──」
(十)
弁之助は、尻と肘で、床を後方に退がった。
右手に、棍棒を握っている。
有馬喜兵衛を撲殺してのけた棍棒である。
弁之助が、刀がわりに持ちあるいている棒であった。
言うなれば、木剣である。
しかし、反りもない、ただの太い棒だ。
握るところが、やや細くなっていて、そこから先が太くなっている。
握りがやや細いと言っても、常人ではやっと指がまわるくらいである。身の丈六尺に余る弁之助なればこそ握ることができる。
卜伝が、刀を握った時、弁之助はすでに床に置いていたその棒を握っていた。しかし、握ってはいたが、動けなかった。
ただ、黙って、虎之介が頭を割られるのを見ていただけだ。
弁之助が動けない──それを全て承知しているかのように、卜伝は、悠々と虎之介の頭部からこぼれ出てきた脳の一部を、焼けただれた右手の指でつまんで食べたのである。
巨大な力を持ったものが、今、目の前に立ち、自分を見下ろしている。
狼に捕食される寸前、鹿などが一瞬動けなくなるのは、こういうことであるのか。
卜伝は、左手に剣を持ち、黄色い歯を見せて、嗤いながら弁之助を見下ろしているのである。
「動くなよ……」
卜伝は言った。
「動かねば、楽に死ねる」
言われなくても、動けない。
小柄な、猿のような老人が、身の丈に余るような剣を持って立っている。
見た目だけでは、とても、剣など片手で振るえるようには見えない。
振っても、その勢いと重さによって、よろけてしまいそうであった。
しかし、その老人に睨まれただけで、身がすくむ。
腹の底から震えがくる。
弁之助という肉体、精神に対して、圧倒的な力を持ったものが、襲いかかってきているのである。
それは、巨獣だ。
それは、卜伝そのものでもあるようであった。
それは、卜伝の肉の中に潜むもののようでもあった。
それは、弁之助自身の内部に埋もれ、これまで当人にも知られず生きていた獣のようでもあった。
それは、また、宇宙──この世の全て、天地の間に隠されていた原理のようなものが、獣と化してたちあらわれてこようとしているようでもあった。
これは、何か!?
恐怖はある。
しかし、それは、恐怖ともまたちがう。
悦び!?
戦慄⁉
いや、それを名づけることはむろん、弁之助にできるはずもない。
しかし、四方から、天地から、目の前の老人から、自分の内部から、圧倒的な力をもって、こんこんと溢れ、自分に襲いかかってくる得体の知れぬものに、弁之助の肉体は震えていた。
それは、ある意味において、覚醒であった。
修行僧が、真理に到達したその時に襲いかかってくるものと、近いものであった。
勝つために、どうすればよいか。
何をすればよいか。
どうしてもよいのだ。
何をしてもよいのだ。
探していたものの答だ。
自由──
仏陀が真理を覚った時に、その身の裡におこった現象と等質のものといってもいいかもしれない。
その答が、獣となって襲いかかってきているのである。
その襲いかかってくる獣に、
〝喰われてしまってもいい〟
弁之助はそう思った。
卜伝の刃に斬られて、死んでもいい。
自分の肉体は、贄だ。
そう思う。
斬られることは、今たどりついた真理を得るために残された、最後の儀式なのだ。
卜伝は、弁之助の肉体と精神に今襲いかかっていることの何もかもを理解しているかのように、微笑していた。
が──
ずい、
と、卜伝が前に出てきた時、弁之助の肉体が、勝手に反応していた。
立ちあがって、後方に跳んだ。
何故、身体がそう反応したのか。
それは、弁之助にもわからない。
むろん、考えてしたことではない。
身体が勝手に動いたのだ。
前に出ても、よかったのだ。
斬られるために、前に出て、首を差し出す──そうしてもよかったのだ。
気持ちとしては、そうだった。
どちらでもよかった。
前に出て、刃に身をさらすのでも、刃を避けて跳ぶのでも。
行為の意味としては、同じだ。
斬られる──それは、いずれにしても間違いはない。
それはわかっている。
だから、跳んで退がったのは、弁之助の肉体が、偶然そちらに反応しただけだ。
つうっ、
と、卜伝が前に出てきた。
疾い。
剣は、すでに持ちあげられていて、それが落ちてくる。
斬られた。
そう思った。
しかし、そうではなかった。
落ちてくる剣が、途中で動きを変えていたのだ。
「ちゃっ」
卜伝の唇から、呼気が洩れた。
刃は、一瞬止まり、次の瞬間には一転して、卜伝自身の下方に斬り下げられていた。
一連の動作だ。
弁之助には、
きらり、
と、刃が光っただけに見えた。
跳んで、退がり、再び床に転がる時、弁之助は、何が起こったのかを見ていた。
虎之介だった。
秋山虎之介がまだ生きていたのだ。割られた額から脳を垂らしながら、床を這い、その右手で、虎之介が卜伝の左足首を摑んでいたのである。
見たのは、そこまでだった。
弁之助は、転がったはずみに、背後にあった戸を背で押し倒し、奥の間に転がり込んでいたのである。
起きあがる。
起きあがった時に、弁之助は、自分が異臭の中にいることを知った。
卜伝が、その身に纏っている、あの、魚のはらわたの腐った臭いではない。
もっと根元的な場所から、人の存在そのものを、揺すりあげるような臭い。人の背を、暗がりから、怪しい手がそろりと撫であげてゆくような臭い。
人が、人でなくなるような臭い。
肉の腐った臭いではあるが、単にそれだけではない、病んだ精神が、汚物の中で発酵するような臭い──
嗅いだ瞬間に、弁之助の体毛が逆立っていた。
そして、弁之助は、そこに見たのであった。
外壁の板の透き間から、外の光が細く、幾筋も差し込んでいる。そのほの暗い明りの中に、累々と横たわる屍体の群を──
いずれも、武士のようであった。
その数、十体、二十体──
古いものも、新しいものもあった。
腕がなかったり、額を割られていたり、首がなかったり……
いずれも、全裸であった。
どの身体にも、単なる刀傷とは言えぬ傷があった。
腹を裂かれていたり、胸を抉られていたり──
刀による戦いでは、絶対につかないような傷。
腹を裂かれた屍体には、内臓がなかった。
弁之助が立ちあがった時──
「見たな……」
声がした。
卜伝が、倒れた戸を踏んで、入ってきた。
卜伝の左足首を、切り取られた右手首が摑んでいた。
虎之介の右手首であった。
「ああ、これを、見られてしもうたかよ……」
卜伝は、静かに言った。
「さっき、ここへは入るなと言うたによ……」
穏やかな口調だ。
光るその眸に、狂気の色があるわけでもない。
弁之助は、退がろうとした。
半歩も退がらぬうちに、背が、何かにぶつかった。
落ちそうな屋根と梁を支える柱であった。
「お、おまえ……」
弁之助は言った。
「何じゃ……」
卜伝が言う。
弁之助は、次の言葉を発することができなかった。
これは、この暗がりに転がる屍体は、いずれも、卜伝を倒そうと、ここにやってきた武芸者たちのものだ──弁之助はそう思った。
そして、卜伝は……
「喰うたのか──」
弁之助は言った。
「おまえは、こいつらの屍体を喰うたのか!?」
汗で、握っている棒が、滑り落ちそうであった。
「喰うたさ……」
ぞろり、と卜伝は言った。
桃色の舌を見せて、にいっと嗤った。
「天下無双──」
卜伝は、暗い屋根の内側を見あげ、そうつぶやいた。
「天下無双?」
「そうじゃ」
「そ、それは……」
弁之助は、また、言葉に詰まった。
ここまでのことか。
そう思った。
天下無双とは、ここまでのことをせねば、たどりつけぬのか。
ここまでのことをして、維持せねばならぬものか。
ここが、この、卜伝に喰われた屍体の群の横たわるこの場所──ここが、卜伝の心の中なのか。
卜伝の内部にある、巨大な闇そのものなのか。
自分は今、卜伝という兵法者の、その心の最も深い部分に立っているのか。
「狂うてはおらぬぞ……」
卜伝は言った。
「狂うたら、ここまでは来られぬ。穏やかな心、静かなる心、水のような心で、ここまで歩かねばならぬ……」
狂っている。
弁之助は、そう思った。
そう言う卜伝が、狂うてはいないと言う卜伝が、その静かな口調が、もう、狂っている。
ただの人間ではない。
化物だ。
天下無双という夢に憑かれた妖怪だ。
多くの、無数の、数えきれないほどの屍の山の上にしか立つことのできない、天下無双の旗。
「小僧、来るか……」
卜伝は言った。
「この場所まで来るか、小僧……」
じわり、
と、卜伝が、前に出る。
「神を恃まず、仏を恃まず、恃むは己れの欲ただひとつのみ……」
さらにまた、卜伝が前に出る。
いつの間にか、弁之助の身体の震えが止まっていた。
しかし、まだ、弁之助はそのことに気づいていない。
今、弁之助の肉の中に渦巻いているのは、生への欲望ではなかった。
天下無双への、渇望であった。
生きるということよりも、天下無双への、血が煮えたつような飢えであった。
一の太刀──
剣聖塚原卜伝の秘伝中の秘伝、その一の太刀こそが、天下無双への標であった。
「卜伝……」
弁之助は言った。
「何じゃ……」
じわりと、卜伝が前に出る。
この卜伝を倒すことなしに、ここを生きて出ることはかなわない──それはわかっていた。
しかし、今、自分に卜伝より勝る剣の術があるわけではない。
自分が、卜伝より勝るものが、あるか。
思う。
必死で思う。
それは、あった。
ただ、ひとつだけ──
「一の太刀、確かに受けとった──」
弁之助は言った。
「受けてみるか、おれの、一の太刀──」
「なに!?」
卜伝がつぶやいたその瞬間、弁之助は動いていた。
土間の土を、蹴っていた。
おもいきり。
前に向かってではない、後ろへ向かって。
体重を後方へかけ、後ろにあった柱に、ありったけの力を込めて背をぶつけたのである。ぶつけ、押した。
もともとの家に、あらたに加えた土間である。柱は、山から切ってきた丸太であった。さほど太くはない。さっき、背がぶつかった時に、軋み音をあげたのも覚えている。
これならば、折ることができる。
そう思った。
六尺に余る自分の体軀をもってすれば。
自分が、この卜伝に勝るもの。
その唯一のものが、この肉体であった。
めかっ、
と、背で音がした。
折れた。
その柱が。
折れたその瞬間、梁が傾ぎ、天井──屋根が崩れてきた。大量の萱と、そして、屋根の構造材が、頭上から弁之助と卜伝の上に落ちかかってきたのである。
後のことは、考えていなかった。
まず、折れないかもしれない──その不安もあった。二度、三度と試みてその後に折れるのであれば、その前に自分は卜伝に斬られてしまうであろう。折るならば、最初の一撃で折らねばならない。
そして、折った。
その後は、どうなってもいい。
柱は、一本だけではない。二本あった。一本を折っても、もう一本が屋根を支えてしまえば、屋根は落ちてこない。そうなったら失敗である。
落ちてきても、屋根は卜伝の上にだけ落ちてくるのではない。自分の上にも落ちてくる。それによって、自分だけが潰されて死ぬか動けなくなるかもしれない。あるいは、両方が死ぬか、動けなくなるかもしれない。
それを、天にまかせた。
もしも、屋根や梁が、卜伝と自分の上に平等に落ちてくるとすれば、自分の生命のながらえる可能性の方が高い。それは、自分の方が若く、体力もあり、身体が頑丈であるからだ。
技や、術の勝負ではない。
肉体の勝負だ。
そこへ、弁之助は勝負を持ち込んだのである。
これが、自分の一の太刀だ。
身を伏せる間もない。上から落ちてきたものに、弁之助は押さえ込まれていた。
気がついた時には、身体の上に屋根の一部がのっていた。左足の上だ。上体には、斜めになった梁が被さっていた。身を伏せきる前に、直撃を受けて仰向けにそこに倒れたのである。
左の肋が、一本か二本は折れているかもしれないが、生命はあった。
卜伝は!?
わからない。
身体の上で、梁が斜めになっているが、左足を引き出しさえすれば、身体を反転させ、這って動けそうであった。
しかし、左足首が、どうやっても動かない。
感覚がない。
が、ゆっくりと、左足に感覚がもどってきた。その感覚は、痛みであった。肋だけでなく、足首の骨も折れているかもしれない。
左足を引いた。
動かない。
しかし、このままでは死ぬだけだ。
たとえ足首がちぎれても──
後で、決心したのでは、身体の方が弱っていて、引き抜くだけの力が残っていないかもしれない。やるのなら今しかない。
おもいきり引いた。
めくれた。
皮膚ではない。
肉だ。
足首の肉が、骨からめくれたのだ。
激痛だ。
ひるまない。
今、この痛みにひるんで力を弱めてしまったら、もう、二度と同じ行為をしようとは思わなくなってしまうであろう。
みり、
みり、
っと、肉の剝ける感触がある。
かまわず引く。
抜けた。
肘と腰で、頭の方角へ動く。
そちらの方が、隙間が大きい。
動いてから、身体を回転させて、腹這いになる。
肘と、膝で、這う。
そして、ようやく外へ出た。
光の中だ。
弁之助は、大きく喘いだ。
大量の息を吸い、吐く。
左足を見た。
踝の周囲の肉が、めくれあがり、ほぐれて、そこに踝の骨の白い色が見えていた。
血まみれだ。
立ちあがる。
左足には、半分も体重はかけられなかったが、なんとか立つことができた。
見れば、母屋の方は無事であったが、奥の間であった小屋の方は、半分潰れている。
卜伝は!?
そう思った時──
「むうむ、むむ……」
声が聞こえた。
卜伝の声だ。
卜伝が、生きているのだ。
生きて、瓦礫の下から這い出てこようとしているのだ。
武器は!?
周囲を見回した。
ない。
瓦礫の中から、構造材であった丸太が何本か突き出ているが、太すぎるし、引いても取れぬであろうと思われた。
棒にとらわれるな。
何でもいい。
そう思った時、弁之助はそれを見つけていた。
(十一)
「どこじゃ、小僧……」
声がした。
瓦礫から、斜めに突き出ている丸太が動いて、隙間ができた。
そこから、ぬうっと卜伝の頭が突き出てきた。
その頭の上へ、落ちてきたものがあった。
どぢゃっ、
という、身の毛のよだつような音が響いた。
岩であった。
人の頭、ふたつ以上の大きさの岩が、卜伝の頭の上へ落とされたのだ。
その岩が持ちあげられ、また──
どちっ、
という音があがった。
二度。
三度。
四度目には、もう、濡れた雑巾の上へ岩を落としたような音しかしなくなった。
弁之助は、岩を持ちあげて、その下を見た。
髪の毛さえなければ、人の頭部とは思えぬような肉塊がそこにあった。
最初の一撃で飛び出たと思われる目だまがひとつ、すぐ先の丸太の上にのっていた。
弁之助は、岩を投げ捨てた。
重い音をたてて、岩が転がった。
息を吐く。
何度も喉を鳴らして呼吸する。
やらねば──
そう思っていた。
今、やるのだ。
弁之助は、両足の間の肉塊を睨んだ。
血にまみれた、ずくずくの、灰色をしたもの──
しゃがむ。
その灰色をしたものを、弁之助は、指ですくった。
脳漿にまみれた、卜伝の脳であった。
指の上のそれを、弁之助は舌で舐めとった。
まだ、温かった。
それを、飲み込む。
味なぞ、わからなかった。
宿れ、卜伝よ──
弁之助はそう思った。
卜伝の、狂気でもいい、怨念でもいい、おれに宿れ。
天を仰いだ。
青い空を、白い雲が動いている。
風が見える。
天下無双はおれのものだ。
そう思った。
その時──
右足を、摑む者があった。
手だ。
左手だ。
瓦礫の下から、左手が伸びてきて、弁之助の右足首を摑んだのだ。
瓦礫の上に弁之助は斜めに倒れていた。
そこから、ひょこりと出てきたのは、秋山虎之介の顔であった。
意識があるのか、ないのか、虚空を睨みながら、秋山虎之介のその顔は、へらへらと嗤っていた。
ぞっとした。
悲鳴をあげたくなった。
こらえた。
右手が何かに触れた。
一本の棒だ。
壁の中に泥で塗り固められていた棒だ。
それを摑む。
上体を持ちあげ両手でその棒を握り、それで秋山虎之介の頭を叩いた。
何度も、何度も。
ついに、割れた鼻の間から、頭の中へその棒を突っ込んだ。
それで、ようやく、秋山虎之介は動かなくなった。
しかし、まだ、右足首は、秋山虎之介に握られたままだ。
それをはずして、弁之助は瓦礫の上を這った。
秋山虎之介の顔のあるところまでゆき、その顔を見た。
ふたつの眼が見開かれている。
その眼が、虚空を睨んでいる。
今度は、落ち着いてできる。
もう、肚はできていた。
秋山虎之介の額から、棒が斜めに天に向かって突き出ている。
その棒に、脳がこびりついている。
それを、右手の人差し指で掬い、口の中に入れた。
その時、ぎろりと秋山虎之介の眼が動いて、弁之助を睨んだ。
「うまいか、大童……」
秋山虎之介は言った。
驚いたのは、一瞬だけだ。
「ああ、うまい……」
弁之助は言った。
本当にうまかった。
「そうか……」
言った秋山虎之介の眼が、ぐるりと動いて天を見あげた。
眼を開いたまま、秋山虎之介は死んでいた。
天に、雲が動く。
「天下無双は、おれのものじゃ……」
血にまみれた唇を、弁之助は左の拳でぬぐった。
拳についた赤い血を、太い、赤い舌を伸ばして、弁之助はべろりと舐めとった。
そして──
ここに、地上最強の外道の王、宮本武蔵が誕生したのである。
我、若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして初めて勝負をす。其のあいて、新当流有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝つ。二十一歳にして都に上り、天下の兵法者にあひ数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。
其後、国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ六十余度迄勝負をなすといへども、一度も其利をうしなはず、其程年十三より二十八、九迄の事也。
──『五輪書』宮本武蔵
(了)
夢枕 獏(ゆめまくら・ばく)
1951年神奈川県生まれ。77年作家デビュー。『キマイラ』『闇狩り師』『陰陽師』などの人気シリーズ作品を次々と発表。『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞受賞、『大江戸釣客伝』で泉鏡花文学賞、舟橋聖一文学賞、吉川英治文学賞をトリプル受賞。ほかの著書に「餓狼伝」シリーズ、『東天の獅子』「大江戸恐竜伝」シリーズ、『ヤマンタカ 大菩薩峠血風録』『大江戸火龍改』など多数。
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