【愛されなくても別に】『“愛”を騙る大人たちからの逃避行』

文字数 2,130文字

【2020年8月開催「2000字書評コンテスト:『愛されなくても別に』」受賞作】


“愛”を騙る大人たちからの逃避行


著・日暮彼方

 武田綾乃は青春小説の妙手である。青春。大人にとってはノスタルジックな憧憬の対象でも、渦中にある者にとってはどうだろう。家庭、教室、部活動。一見爽やかな舞台の裏に、閉ざされた人間関係を生き抜くための熾烈な駆け引きがある。彼らの葛藤に光を当ててきた武田が、最新作『愛されなくても別に』において、さらにシビアな現実を生きるヒロインたちを生み出した。
「私の大学生活を一言で表すなら、クソだ」
 今作の主人公・宮田陽彩ひいろは、物語序盤にしてこう言い捨てる。宮田は大学に通う傍ら、シングルマザーの母に代わって家事を一手に担い、深夜のコンビニで連日働いている。稼いだ金は自身の学費、そして浪費家の母に渡す生活費とで、全て消えていく。遊ぶどころか、単位取得のために勉強する時間すらおぼつかない日々。自由になる時間やお金、友人や恋人、学問に対する志や熱意さえもなく、彼女の目的はただ一つ。大卒資格を取り、就職すること。
 物語冒頭の数頁では「深夜帯は時給が千百円」「八時間×六日、一週間で四十八時間。月では二百時間ほど働いている」「私立大学の学費は四年間で大体四百万」「稼いだ金の内、八万は家に入れる。残りはほとんど学費で消える」など、価値判断を入れる隙のない数字の羅列が、宮田が現状に甘んじる理由を説明する。その説得力には読者も「なるほど、クソだ」と頷かずにいられない。畳みかけるような記述の裏には「私の人生がこんなにクソなのは私のせいじゃない」という無言の抗議がある。自身の幸福や楽しみを放棄した宮田の「過労死寸前」の生き方は、周囲の大人や社会に対する一種の“ハンガーストライキ”ではないだろうか。
 物語には、コンビニの同僚で自堕落な大学六年生の堀口、生真面目で潔癖だがどこか危うげな同級生の木村、同じく宮田の同級生であり、父親が「殺人犯」と噂される江永など、様々な生きづらさを抱えたキャラクターが登場する。作者の鋭い筆致を通じ、彼らは折に触れ、各々が日頃募らせるわだかまりを雄弁に語る。現代社会に閉塞感を抱く若者であれば、そのうちの誰か(もしくは全員)に「よくぞ言ってくれた」と溜飲の下がる思いをするはずだ。
 中でも宮田に強い影響を与えるのが江永だ。宮田は江永の「不幸」に興味を持ち、江永に接近するが、予想を超える強烈なエピソードの数々を聞き、「自分の人生が世間から見て最低最悪じゃないことに絶望」する。自らの境遇が江永ほど「分かりやす」く悲惨なものではないと考える宮田は、自分から金銭と労働力を搾取しながらも、毎朝「愛してるわ、陽彩」と語りかけてくる母を疑うことができない。母親に奨学金の管理を託す宮田に対し、江永が「警戒した方がいいよ。親なんて、結局は他人なんだから」と忠告したことから、物語は大きく動き始める。
 義務に縛られ、修行僧のごとく無私に暮らす宮田と、「楽しく生きる」という気概を胸に、家族を捨て、奔放に生きる江永。二人の在り方は一見対照的だ。しかし、自傷行為のように自らを忙殺する宮田と、過去に苛まれて酒に溺れる江永、そのどちらも根本には“愛”という名のもとに受けた、癒えない傷がある。
 彼女たちを振り回すのは“愛”だ。とりわけ、“家族愛”という幻想が、彼女たちを雁字搦めにする。宮田は「私を愛してくれている」母を拒絶できない。江永は母親の檻から逃れた後も、「家族」であるがゆえ、父親の咎に追われる。「愛情は、全てを帳消しにする魔法じゃない」「他人に愛されなくとも幸せに生きることを許されたい」という二人の叫びは胸に痛切に響く。
 今作は世にはびこる“愛”至上主義に対するアンチテーゼであり、台詞やモノローグにも強いメッセージが込められている。それが単なる主義主張に留まらないのは、作者の高い構成力によるところだ。
 他人に関心を示さなかった宮田が、江永との出会いを通じて、それまで避けてきた事物に目を向けたとき、周囲の人物が漂わせる仄暗く不穏な影が、やがて衝撃的な事件となって宮田の前に現れる。しがらみを振り切ろうと現状から逃げ出した彼女たちが、棚上げせざるを得なかった課題の数々。「このままではいられまい」という読者の予感を、武田は作中で悉に回収する。スリリングな展開に、自然と頁を繰る手が早まっていく。
 これは二十歳になる宮田の物語だ。子供から大人への過渡期。自分の人生を取り戻すため、宮田はある“決断”を迫られる。それは“愛”に縛られる子供たちには救いに、“愛”を言い訳にする大人たちには戒めになるだろう。
 今作で述べられる“愛”が愛の全てとは思わない。しかし、“愛”を騙ったエゴにNOを突き付けることで、私たちはようやく「愛とは何か」について思いを巡らせることができる。この作品の持つ鋭利な刃は、安易に“愛”を語(騙)る私たち一人一人に向けられているのだ。

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