『Cocoon 修羅の目覚め』/夏原エヰジ 1巻まるっと太っ腹試し読み➂

文字数 8,535文字

最強の花魁×異形の鬼!

人気シリーズ「Cocoon」の第1巻『Cocoon 修羅の目覚め』をどどーんと太っ腹に1巻まるまる試し読み! 


毎日1章ずつ公開していく「毎日コクーン」、第3回めです!


「何だって今日はこんなに人がいねえんだ」


 夜の帳が下りた川沿いに、一ヵ所だけぽつねんと灯りがともっていた。「そば」と書かれた提灯を吊るした屋台には、店主が一人と、酒をあおる男が一人。男は浴衣の裾をたくし上げ、黒く引きしまった脚をそよ風にさらしている。


 辺りには他に人影もなく、聞こえるのは店主と男の話し声、流れる川の音だけだ。


「いつもならこの時分には人が集まって、屋台だってそれなりに出てるじゃねえか」


 男はすでに酒を大量に飲んでいるのだろうか、あまり呂律がまわっていない口ぶりで店主に問うた。


 ここ押上の川沿いは、川のせせらぎや心地よい風を感じられるとあって、町人に人気の場所だ。夕方になると風情ある雰囲気にあずかるため、仕事終わりの者たちが集まってくる。賑やかとまではいかないが、客を見こんでいなり寿司や天婦羅などの屋台がぽつぽつと店を出し、安く酒を提供していた。


 しかし今夜は人も屋台も他になく、いつもなら心安らぐ川のざあざあという音が、いやに大きく聞こえる。


「それがね、旦那。最近ここいらで幽霊が出るってんで、人がめっきり寄りつかなくなっちまったんでさ」


 蕎麦屋の店主は声を落として言った。


「はあ? ゆうれえ?」


 男は赤ら顔で聞き返す。


「なんでも、ほら、そこの橋あるでしょ。あすこに夜になると女の幽霊が出て、通りがかったモンを川に引きずりこむってんですよ」


 そう言って屋台から少し離れた場所にある橋を指差した。男が目を凝らすと、木造の古びた橋が川をまたいでいるのが、ぼんやり見えた。


「だから屋台モンもお客も、怖がって寄りつかなくなっちまったんです。あっしもね、他の屋台が出ないってんなら儲け時かと思ったんですが、ほんとに人っ子一人来やしねえ。旦那が来てくれたからまだいいですけど、正直なとこ、気味が悪くなってきたんで早仕舞しちまいたいんですよねえ」


 店主は男にちらと目を向ける。早く勘定をしてほしい、という意思表示のつもりだったが、男は気づかないようだ。


「なぁにが幽霊だよ。そんなの、夜に出歩くなって親が子どもに言い含めたのに、尾ひれがついて大事になったってのが関の山だろ」


 大工がそんなモンに怖がるわきゃねえや、と笑いながら徳利を空ける。


「それが、ただの噂じゃないみたいなんですよ。いつもあの橋を通ってたモンが三人、川下で土左衛門になって揚がったらしくって」


 蕎麦屋の店主は言いながら身震いした。


「その姿が本当にひでぇモンだったみたいで。着物はずたずた、目をこう、カッと見開いて、体中に爪でえぐったような傷がいっぺえあったとか……鶴亀、鶴亀」


 流れる川の音を聞きながら、噂は本当なのかも、とおびえた表情で縁起なおしのまじないを唱える。


 大工の男は、はん、と鼻を鳴らした。


「どうせ酔っぱらった奴が、川に勝手に落ちて溺れただけだろ。流れに揉まれりゃ川底の石で体に傷がつくし、着物も破れる」

「でもでも、土左衛門の中にはどこぞの旗本のご息女もいたらしいんですよ。まあ不良娘で有名で、芝居小屋に行って夜遊びした帰りだったとかいわれてますけど」

「じゃあ、その御姫(おひい)様も酔っぱらってたんだな」

「そうは思えませんよっ」


 店主は裏返った声を出し、肩を抱くようにさする。


 一方で男は猪口を台の上にガンと置くと、腕まくりをしてふんぞり返った。


「そんならその幽霊、この吉次(きちじ)さまが行って退治してやらあな」


 言うとやおら橋に向きなおり、千鳥足ながらも大股で歩きだした。


 店主は仰天した。慌てて男を追いかけ、腕にしがみつく。


「ちょ、ちょいと、なんでそうなるんだ。旦那、悪いこた言わねえからやめときなって。本当に出るかもしれないんだよっ。幽霊なんて、ど、どうやって退治するってんだい」


 店主の膝は笑っている。男を止めている風だがその実、支えてもらっているようにも見える。


「重いな、離せよっ。あれだ、なんでこんなとこにいやがんだとか言って、説教してやんのよ。それでも聞かなきゃ、俺がそいつを川に投げ飛ばしてやらあ」

「相手は幽霊だよっ。そんな説教にもなってないこと、聞くわけないじゃないですか。そ、それに、投げ飛ばすだなんてっ……にゃむあみだぶぶ」


 店主は涙目になった。勝手に行かせればよいのだが、まだ酒の勘定は済んでいないし、もし本当に男が新たな土左衛門にでもなった日には夢見が悪すぎる。


「いいから見てろって」


 男は大工仕事で鍛えた力を発揮して、腕にぶら下がるような格好の店主を引きずって進んでいく。


 橋の袂まで来て、男は立ち止まった。赤ら顔で橋の上に目を凝らす。暗闇の中に何かがいるような気配はなかった。虫の声すらなく、ただ川の音だけが、ざあざあと響き渡っている。


「ほれ見ろ、何もいねえだろうが。ただの噂だったんだよ、しょうもねえ」


 大口を開けて笑いながら、男は自分の腕にひっついている店主に、どうだと言わんばかりの視線を送る。

 店主は言葉を発さず息継ぎもせず、橋の中央辺りを凝視していた。ややあって、大工の男まで揺らす勢いでガタガタと震えだした。


「だ、旦那、あす、あすこ」


 震える手で橋の中央を指差す。


「あぁ?」


 店主のおびえ具合に内心で呆れながらも、男は橋の中央に目をやった。


 そして、凍りついた。


 店主の指差す先には、いつの間にか女が一人立っていた。暗闇に溶けこみ、姿は影のようにぼんやりしている。欄干に沿って俯き加減に立ち、顔はよく見えない。


 ぽた、ぽた、という音が聞こえて、男は体中の酔いがいっぺんに醒めていくのを感じた。


 よく見ると女の着物は着崩れ、あちこちがぼろぼろに綻んでいた。裾から、乱れた髪から、雫が落ちる。女はまるで川の中に浸かっていたかのようにずぶ濡れだった。


「お、おいおい、噓だろ」


 男は咄嗟に背を向けようとしたが、腕に重みを感じて止まった。店主が男の腕に全体重をかけ、壊れたからくり人形のように震えたまま、女から目を離せずにいた。


「おいこら、離せっ」

「こ、腰が……」


 振り払おうとしても、店主はがっちりと男をつかんで離れない。恐怖で顔面をくちゃくちゃにしながら、必死に腕をつかみ直す。混乱状態で二人は揉みあいになった。


「ええい、離しゃあがれっ」


 男が渾身の力で店主を地面に組み伏せた時、店主は、ひっ、と声を上げた。目は血走り、自分の上に覆い被さる男の、背中越しを見ている。


 男は寒気を感じて振り返った。


 さっきまで橋の中央にいたはずの女が、自分のすぐ後ろにいた。近づいてきた音も、気配もなかった。


「わああっ」


 引きつった悲鳴を上げて、男は店主の横に仰向けに倒れこんだ。


 女は体をわずかに左右に揺らしながら、二人を見下ろして立っている。ぽた、ぽた、と雫が滴る音と一緒に、すすり泣きのような声が聞こえてきた。


 ──ナイ、デ……。セテ……。ナイデ……。セテ……。


 途切れ途切れに聞こえる苦しげな声は、同じ言葉を繰り返しているようだった。


 男は頭が真っ白になる中、さめざめ泣き続ける女の顔を見た。先ほどはまったく見えなかった表情が、闇の中にうっすら浮かび上がって見える。


 女の口は耳に向けて三日月の形に痛々しく裂け、笑っていた。眼球があるはずの目は空洞で、中には暗闇が広がっている。乱れた髪を搔きわけて、額には小さく尖った、黒い物体が突き出ていた。


 女は訴えるような言葉をぶつぶつと繰り返し、不気味な笑顔を貼りつけたまま、ゆっくりと屈んだ。


 穴の空いた女の顔が、徐々に、しかし確実に近づいてくる。男は戦慄に息を荒くして、それを見ていることしかできなかった。体は根を張ったようにぴくりとも動かない。目をそらすことすらかなわない。


 吸いこまれそうながらんどうの闇は、今や男の目と鼻の先にあった。川の音が消え、ささやくような女の声が、今度ははっきりと男の耳に聞こえた。


 ──コロサセテ。


 女の笑みがさらに深まり、男を覆いそうになった、その時。


 ざん、と肉を断つ音がしたかと思うと、目の前にあった闇は一気に遠ざかった。


 女はのけぞり、叫び声を上げた。聞く者の頭を割るような、ひどく苦痛に満ちた声だった。よろめき、ふらふらと橋の中央まで後ずさっていく。


 黒い影が一つ、両者の間に割って入り、女と向きあって立っていた。男たちは突然のことになにが起きたか理解できず、二人して固まったまま、その黒い背中を見つめた。


「あーあー。どの橋かわからんから、やっと見つけたよ。手間ぁかけさせやがって」


 現れた影は、黒い着流しに細身の体を包み、長い髪を一つに結んだ浪人風の出で立ちをしていた。右手には黒く光る、鍔のない刀が握られている。反りが浅い切っ先から、どす黒い血が滴り落ちていた。


 左肩を斬りつけられた女は、髪を振り乱して傷口を押さえ、苦しそうに喘いでいる。破れた着物が、女の黒い血で染まっていく。


「昼寝さえしていなければ、もう少し早く出発できたと思いますが」

「まあまあ。今回は急な依頼で下調べする時間もなかったし、仕方ないだろう」


 後方から声が二つしたかと思うと、橋の上でへばっている男と店主を追い抜き、浪人者を挟むように立った。左側はすらりと背の高い男、右は力士のような屈強な体つきの男だ。


 長身の男はその場で三つに折れた棒を接合し、黒い錫杖を組み立てた。頭部についた大きな輪にいくつもの小さな輪が通り、金属特有の音を奏でる。


 力士のような男は懐から小さく太い杵を取り出すと、くびれた中心を握り、両端を引き伸ばした。五寸ほどだった杵は四尺あろうかという、長大な黒い金剛杵になった。両端にはまっすぐな刃と、それを包むように四本の鉤爪がついている。


 錫杖と金剛杵には、よく見ると無数の梵字が彫られてあった。


 さらに今度は子どもの声が二つ、呆けたように口を開けている客と店主の横を通り越していった。


「おまけに方向音痴のくせにあっちにふらふら、こっちにふらふら寄り道ばっかしやがって。時間がかかるのは当たり前だろっ」

「でも飴細工、面白かったよねえ」


 十二、三ほどと思われる、背格好が瓜二つの子ども二人が、すでに前にいる三人を挟んで一番外側に立ち並んだ。


 いずれも同じ、黒の着流しを着た五人衆が、凍りついている男と店主に背を向ける形になった。


「あ、え……?」


 倒れこんだ男二人の頭には恐怖と混乱とが交互に巡り、目の前の光景を言葉にできない。


 浪人者は後から来た四人に、やかましいよ、などと文句を言っていたが、後ろで引っくり返っている二人の存在に初めて気がついたように、くるっと振り返った。


「おう、あんたら、運がよかったな。川底に引きずりこまれる寸前だったんじゃねえか?」


 茶化すように発せられた声は凜として涼やかで、落ち着くような、それでいて心に波風を立たせるような、不思議な響きを持っていた。


 男二人の目は、振り向いた浪人者の顔に釘づけになった。


 その顔には、能面がつけられていた。闇の中に青白く浮かび、両目と薄く開いた口からのぞく歯は、金色に塗られている。能面の表情は哀しげであり、うっすら笑っているようでもあった。


「さっさと失せな」


 そう言われても、不気味な能面に身がすくみ、金縛りにあったかのごとく体が動かない。


 黒ずくめはその様子を見ると腰を落とし、二人の眼前に能面をつけた顔をぐんと近づけた。


「それともこのまま……地獄に行くかい?」


 能面の内側の顔が、舌なめずりをしたように見えた。


「ぎ……ぎいいやああああっ」


 男二人はどちらからともなく叫び声を上げ、もんどりうち、ぶつかりあい、互いに手に手を取るようにして走り去っていった。遠ざかって姿が見えなくなってもまだ、声高なわめき声が聞こえてくる。


 その一部始終を見て、黒い着流しに身を包んだ瑠璃は吹き出し、大笑いをし始めた。こらえきれないとでも言いたげに腹を抱え、能面の内側では涙まで流している。


「頭、真面目にお願いしますよ」


 力士のような体格の男、権三に言われ、瑠璃はやっとのことで呼吸を整えた。ああ可笑しい、と言いながら頭の後ろに手をまわし、能面の紐を解く。


 夜闇に、白く美しい顔があらわになった。


「根性曲がってるぜ、あんな脅かし方しなくたっていいのによ」

「泥眼っていうんだっけ、そのお面。確かに夜見ると怖いよねえ。ちょいとやりすぎたんじゃない?」


 双子の少年、豊二郎(とよじろう)と栄二郎(えいじろう)が口々に言った。


「お黙り。この仕事の時は必ずつけろってお内儀がうるさいから、こちとら息苦しいのに仕方なくつけてんだよ。あれくらいのお楽しみがあったっていいだろ」


 瑠璃はぐちぐちと文句を言いつつ能面を腰帯にくくりつけ、橋の中央にいる女へ向きなおる。


 女は斬られた肩を押さえてよろめいていた。黒い血を垂れ流しながら、低い声でうなる。


 ──ナゼ、ジャ、マヲス、ル……。


 女の声は負の感情に満ちた、暗く、重いものだった。


 笑いが治まった瑠璃は、女を無表情に見据える。


 ──コロ、サセテ。ノロワセテ。


 女を見る瑠璃の眼差しは、氷のように冷たかった。


「うん、別にお前さんに恨みなんかないよ。ただこれが、わっちらの仕事だからねえ。恨みはないけど、大人しく退治されてくんな……鬼さん」


 鬼に向かってにっこりと微笑み、二人の少年に声をかける。


「豊(とよ)、栄(えい)、張りな」


 呼ばれた二人は、それぞれ手にしていた黒い扇子を開いた。同時に陀羅尼(だらに)のような経文を唱えだす。


 それを聞いて鬼は一層悶えだし、うわ言のように同じ言葉を繰り返した。左右の揺れが激しくなっていく。


 ──コロサセテ。コロサセテ。

 経文が唱えられてからしばらくすると、橋とそのまわりを囲むように、白い靄のような光が覆い始めた。光は次第に収束し、輪の形を成していく。


 やがて白い靄は、空中に浮かぶ巨大な注連縄(しめなわ)となった。縄から垂れさがる紙垂(しで)が、厳めしいほどの神聖さを放っている。


 扇子を開いたまま豊二郎が告げる。


「結界、張りました。これでこの橋は外から見えないし、誰も近づけません」


 結界が張られたことで、鬼の嘆く声は激しくなった。注連縄の外に出ようとしてか、瑠璃たちとは反対の方向にふらふら歩きだす。


 鬼の指が白い光に触れた瞬間、注連縄が目も眩む光を発し、バチンとけたたましい音が鳴った。その場から弾かれた鬼はおぞましい叫び声を上げた。


「ああそれね、触んない方がいいよ。お前さんをここから出さないための結界なんだから」


 瑠璃は響き渡る絶叫を聞きながら顔色一つ変えず、軽い口調で呼びかけた。


 鬼の声に怒りがまじる。乱れた髪の先がゆらゆらと揺れる。手足の爪は次第に黒くなり、鋭く伸びていった。


 突如、咆哮とともに鬼は踵を返して駆けだした。風を受けてさらされた額には、一寸ほどのまっすぐで黒い角がのぞいている。


 鬼は橋の中央から凄まじい勢いで跳躍し、瞬く間に瑠璃の頭上へと迫ってきた。黒い爪が瑠璃めがけて光る。


 瑠璃は頭上の鬼を仰ぎ見ると、一歩後ろに下がり、ゆっくりと目を閉じた。


「錠さん、権さん、頼んだよ」


 黒い爪が瑠璃の白い肌を捉えるかと思われた刹那、錠吉と権三が瑠璃の前に出てきた。シャン、と錫杖の先端についた輪が、金属音を響かせる。黒い錫杖と黒い金剛杵は「乂(がい)」の字を作るように交差して、鬼が振り上げた右腕を受け止めていた。


 錠吉と権三は一歩を踏み出し、空中で身動きが取れなくなった鬼を力強くはね飛ばした。


 鬼は橋の中央に背中から落下した。やがてむくりと立ち上がる。男二人は走りだし、左右にわかれて攻撃を繰り出し始めた。


 錠吉が錫杖の尖った先端で、鬼の喉に突きをくらわせる。権三は重い金剛杵を豪快に振りまわして殴りつける。度重なる二人の打撃は鬼の体に見事に命中し、じりじりと橋の袂へ追い詰めていく。


 しかし、普通なら即死であろう攻撃を受けているにもかかわらず、鬼についた傷はいまだ瑠璃に斬られた刀傷だけであった。それでも錫杖と金剛杵に打ちつけられた衝撃は効いているようで、鬼は怒りをあらわにした。


 その肌は爪と同じように徐々に黒く、身を守るように硬くなっていった。


 鬼は二人の攻撃をよけようとするも、左右同時にかわすことはできない。攻勢に転じようと両手を伸ばす。錠吉と権三はそれを回避すると、阿吽(あうん)の呼吸で鬼の腕をつかみ、足を払った。


 鬼の体が大きく一回転し、音を立てて橋桁に叩きつけられる。二人は見下ろすように鬼の両側に立ち、錫杖を鬼の胸に、金剛杵を顔に、躊躇なく突き立てた。


 鬼は動かなくなった。


 ひんやりとした静かな風が、その場を流れていく。権三は金剛杵を、ゆっくりと鬼の顔から離した。


 金剛杵の下で、鬼は暗澹たる笑みを浮かべていた。目と口に空いた闇はさらに黒く、深く、内側で荒波のように揺らめいている。


 錠吉の顔が瞬時にこわばった。


「権、離れろっ」


 言い終わる前に鬼はがばりと起き上がり、両腕を広げて錠吉と権三の腰帯をつかんだ。瞬く間に二人の足が宙に浮く。鬼は体をひねりまわして、二人を左右の欄干に投げつけた。


 古びた木が折れる音がこだまする。


「錠さん、権さんっ」


 瑠璃の後ろで扇子をかまえた豊二郎と栄二郎が、同時に叫んだ。


「……問題ない」


 崩れかけた欄干を手すりに立ち上がりながら、錠吉が答える。鬼の剛腕と遠心力で腹を強打したらしく、口からは血が流れていた。


「肌が黒くない状態ならいけると思ったんだが、やはり俺らじゃ致命傷までは無理か。それにしても、なんて膂力だ」


 体格のよい権三は筋肉が盾となり無傷だったが、息を大きく弾ませていた。


 錠吉と権三は瑠璃の前まで後退し、鬼の様子をうかがった。


 今や鬼の皮膚はほぼすべてが黒に覆われ、乱れきった髪の隙間から見える角が、異様な邪気を放っていた。


 鬼は歪な笑みを浮かべながら、錠吉と権三を見比べる。そして二人の後ろにいる瑠璃を、ゆっくりと見た。


 瑠璃は首を傾げ、つまらないものでも見るような顔で、鬼の姿を見つめていた。


「ふうん、結構やるじゃないか。でもそろそろ飽きてきちゃったから、もう終わりにしてもいい?」


 鬼は獣のごとくに叫喚した。闇を孕んだ両目が瑠璃を睨みつけ、狂ったように突進してくる。


 錠吉と権三は制止すべく武器をかまえる。すると、鬼の乱れた髪が急に意思を帯びたかのように、二人の横まで伸びてきた。大きくしなり、二人を川に向かって弾き飛ばす。


 瑠璃と鬼の間には、誰もいなくなってしまった。


 鬼は瑠璃だけを見据え、風を切って突っこんでくる。


 黒く鋭い爪が瑠璃の喉を切り裂こうと振り上げられた瞬間、間一髪で錠吉と権三が鬼の後ろから武器を突き出した。そのまま瑠璃から引き離す。勇ましい掛け声とともに、橋の欄干に鬼を叩きつけた。二人は髪の束に弾かれてから、すぐに身を翻して欄干に着地し、川に落ちるのを防いでいたのだ。


 鬼はわめき散らし、体を揺さぶってもがく。だが、交差した錫杖と金剛杵は一向に外れる気配がない。


 間近まで迫ってきた鬼に冷や汗をかいていた双子が、黒扇子を手に、新たに経文を唱え始めた。


 錫杖と金剛杵に彫られた梵字が、白い光を放ちだす。鬼はまばゆい光に当てられ、耳を塞ぎたくなるほど悲痛な叫び声を上げた。


 すると、それまで一歩も動くことなく静観していた瑠璃が、黒刀を手にゆらりと近づいてきて、鬼の正面に立った。鬼は錠吉と権三に両側からがっしりと押さえられている。


 瑠璃は抱きしめるように、鬼に覆い被さった。


 黒く硬い腹の辺りを、黒い刃がずぶ、と貫いている。


 鬼はわめくのをやめた。


 瑠璃は鬼に被さったまま、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。そして、鬼の耳元にそっとささやいた。


「これがわっちの仕事でもあり、興でもあるのさ。お前さんもたくさん殺して楽しかったろう? わっちと同じだね」


 瑠璃の言葉を聞いてか、打ちのめされたように鬼の体から力が抜けていった。黒い皮膚が人のそれに戻っていく。額にあった角は崩れ、やがて見えなくなった。


 若い女の姿に戻ると、鬼は哀しい笑みを残して、消滅した。


 辺りには川の音だけが、ざあざあと騒がしく残っていた。

★この続きは、明日5月23日(月)17時公開! お楽しみに!

夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)

1991年千葉県生まれ。上智大学法学部卒業。石川県在住。2017年に第13回小説現代長編新人賞奨励賞を受賞した『Cocoon-修羅の目覚め-』でいきなりシリーズ化が決定。その後、『Cocoon2-蠱惑の焔-』『Cocoon3-幽世の祈り-』『Cocoon4-宿縁の大樹-』『Cocoon5-瑠璃の浄土-』と次々に刊行し、人気を博している。コミカライズもされている。2022年5月には最新刊『Cocoon 京都・不死篇-蠢-』が刊行予定。

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