『馬疫』茜灯里 第一章無料公開!④ 【馬を検温すると…】
文字数 1,883文字
第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した、
茜灯里さんによるミステリー長編『馬 疫 () 』。
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第4回です。
*
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。

四
駿美が競技場に戻ってきたのは、出発してから概 () ね三時間後だった。遊佐はまだ、到着していなかった。
駿美は、三宅と利根に断って、隔離馬房で逃走した馬の診療を始めた。
サラブレッドだから、驚かせると蹴りが飛んでくる。後肢で蹴れる距離を予測しながら、尻 () に近づいていく。低音で声を掛けながら、尻尾 () を摑 () み、水銀体温計を肛門 () に挿す。
体温計の端には、糸とクリップが付いている。検温の最中に糞 () をしても、体温計を地面に落とさないためだ。駿美はクリップを尻尾に止めた。
五分後、体温計をそろりと抜くと、熱は三十九・七℃だった。
「水様性の洟水に発咳。下顎 () リンパは腫れていないし、若馬じゃないから馬鼻肺炎 () ではない。風邪であってほしいけれど、インフルエンザの検査キットで要確認」
独 () り言 () を呟きながら、さらに馬の様子を観察する。
馬は、走り回ったせいか、脱水症状で皮膚が弛 () んでいる。駿美はバケツに水と湯を半々に入れて、粉末の電解質も入れた。馬の鼻先に持っていくと、喉 () を鳴らして一気に飲み始める。
(自力で飲めるなら、取り敢 () えず大丈夫か)
駿美は、飲んだ分の水を注ぎ足して、バケツを馬房に吊 () るした。
少し離れた馬房から、アパルーサが自己アピールする前搔きが聞こえる。
念入りに手洗いをする。霧吹きで手にアルコールを噴射して擦 () り込む。消毒が終わって、駿美はアパルーサに声を掛けた。
「そういえば、たっぷり食べさせてあげるって、約束したね」
そうは言っても、オーナーの許可なしに、飼葉 () を付けるわけにもいかない。乾草置き場から、アルファルファを一摑み取る。おやつくらいなら許されるだろう。埃 () を払って、水で湿らせてから、アパルーサに与える。
アパルーサが食べている隙 () に、手早く検温をする。三十八・五℃。判断が難しい体温だ。
馬は人よりも、約一℃、体温が高い。馬の三十八・五℃は、人に擬えると三十七・五℃。微熱と言える。
候補馬の合宿は、今日が七日目で最終日だ。インフルエンザの感染方法は、飛沫 () やエアロゾルだ。
感染すると、二日か三日で症状が出たり、無症状でもウイルスを撒 () き散らしたりする。
四十頭が一週間、一緒に行動していた。だから、全頭が感染している可能性は、大いにある。
(せめてもの救いは、全頭がインフルエンザ・ワクチンを接種しているって、証明されていることね)
駿美は、佐々木が馬房の脇 () に置いていった、馬の健康手帳をめくった。
競走馬や競技馬は、必ず健康手帳を持っている。手帳には、馬の特徴や移動歴、ワクチン(予防接種)を打った履歴が記されている。
競馬や競技会の会場では、事前検査で獣医師が手帳をチェックする。インフルエンザに関しては、競技場に入る六ヶ月+二十一日以内にワクチンを接種していなければ、出場できない。今回の審査会でも、同じ段取りになっている。
ワクチンを打っていれば、たとえ発症しても重症化しない場合が多い。むしろ、無症状でウイルスを撒き散らしている可能性もあるから、気をつけなくてはならない。
駿美の携帯電話が震えた。「何にでも驚く」馬を取り扱っている時は、必ず着信音は切っておく。
「遊佐先生と馬防疫委員長がいらした。本部棟の大会議室に来て」
利根の緊張が、電話口から伝わってくる。
オリンピックの馬防疫のトップが来たなら、想像以上の大事 () になりそうだ。
「ちょっと、励ましてくれる?」
駿美は電話を切って、馬房を振り返った。アパルーサは、つぶらな瞳で駿美を見て、前搔きをする。
「うん。元気が出た」
駿美は馬の頭を撫 () で、角砂糖を一個与えてから、本部棟に向かった。
(つづく)
茜灯里さんによるミステリー長編『
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第4回です。
*
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。

四
駿美が競技場に戻ってきたのは、出発してから
駿美は、三宅と利根に断って、隔離馬房で逃走した馬の診療を始めた。
サラブレッドだから、驚かせると蹴りが飛んでくる。後肢で蹴れる距離を予測しながら、
体温計の端には、糸とクリップが付いている。検温の最中に
五分後、体温計をそろりと抜くと、熱は三十九・七℃だった。
「水様性の洟水に発咳。
馬は、走り回ったせいか、脱水症状で皮膚が
(自力で飲めるなら、取り
駿美は、飲んだ分の水を注ぎ足して、バケツを馬房に
少し離れた馬房から、アパルーサが自己アピールする前搔きが聞こえる。
念入りに手洗いをする。霧吹きで手にアルコールを噴射して
「そういえば、たっぷり食べさせてあげるって、約束したね」
そうは言っても、オーナーの許可なしに、
アパルーサが食べている
馬は人よりも、約一℃、体温が高い。馬の三十八・五℃は、人に擬えると三十七・五℃。微熱と言える。
候補馬の合宿は、今日が七日目で最終日だ。インフルエンザの感染方法は、
感染すると、二日か三日で症状が出たり、無症状でもウイルスを
四十頭が一週間、一緒に行動していた。だから、全頭が感染している可能性は、大いにある。
(せめてもの救いは、全頭がインフルエンザ・ワクチンを接種しているって、証明されていることね)
駿美は、佐々木が馬房の
競走馬や競技馬は、必ず健康手帳を持っている。手帳には、馬の特徴や移動歴、ワクチン(予防接種)を打った履歴が記されている。
競馬や競技会の会場では、事前検査で獣医師が手帳をチェックする。インフルエンザに関しては、競技場に入る六ヶ月+二十一日以内にワクチンを接種していなければ、出場できない。今回の審査会でも、同じ段取りになっている。
ワクチンを打っていれば、たとえ発症しても重症化しない場合が多い。むしろ、無症状でウイルスを撒き散らしている可能性もあるから、気をつけなくてはならない。
駿美の携帯電話が震えた。「何にでも驚く」馬を取り扱っている時は、必ず着信音は切っておく。
「遊佐先生と馬防疫委員長がいらした。本部棟の大会議室に来て」
利根の緊張が、電話口から伝わってくる。
オリンピックの馬防疫のトップが来たなら、想像以上の
「ちょっと、励ましてくれる?」
駿美は電話を切って、馬房を振り返った。アパルーサは、つぶらな瞳で駿美を見て、前搔きをする。
「うん。元気が出た」
駿美は馬の頭を
(つづく)