たまたまだったの? 計算してたの?/矢野 隆
文字数 1,796文字
シリーズ第1弾で「細谷正充賞」を受賞。そして第2弾は、歴史の流れを変えた「日本三大奇襲」の一つを描写。なぜ奇跡は起きたのか!──織田信長の名を天下にとどろかせた有名な合戦を深掘りする『戦百景 桶狭間の戦い』。
これから読む方にも、読んだ方にもおすすめの、物語をより楽しむための作品ガイドです!
今回は著者・矢野隆さんの書下ろしエッセイをお届けします!
【桶狭間の戦いとは】
家督を継いで間もない信長はまだ尾張を治めきっておらず、総動員兵力は多く見積もっても5000人程度だった。それに対して、駿河・遠江・三河の兵を動員した今川の西進軍は最大5万余とも言われる。その絶対的な兵力差にもかかわらず信長は乾坤一擲、奇襲によって義元を討ち取った。この戦を境に信長は有力戦国大名の仲間入りを果たし、徳川家康は隷属していた今川家からの独立を勝ち取る。そして敗れた今川家は家運を大きく傾け、滅亡への坂道を転がり落ちてゆくのであった。
「たまたまだったの? 計算してたの?」
桶狭間の戦いには、ひとつの〝謎〟がある。
圧倒的兵力差のあった今川軍と織田軍。両軍は桶狭間の地で激突し、今川軍の総大将であった今川義元が殺されることで決着がついた。
戦国史最大の奇襲戦とも、逆転劇とも呼ばれる有名な戦である。
そう。
奇襲戦なのだ。
しかし、この奇襲戦。現在では定説とは呼べなくなっていることをご存知だろうか?
信長たちは今川義元の本隊を正面から襲い、これを撃破したという説があるのだ。そして、こちらの方が今現在では有力であるという意見もある。
かたや、江戸期からの定説であった奇襲戦では、信長は家臣からの報せを受けて、義元が桶狭間で休息していることを密かに知り、雨のなかをわずかな手勢とともにひた走り、背後から襲い掛かって見事に義元の首を取ったということになっている。
果たして信長は、正面から義元を攻めたのか? それとも昔から言われているように、背後から襲ったのか?
信長当人を主人公に据えた歴史小説であれば、人物像に沿った選択をすれば良い。だが、本作は〝戦〟自体が主人公である。あくまで人物は戦という主人公を際立たせる脇役に過ぎないのだ。
戦百景シリーズにはひとつのルールがある。
『歴史を逆算して考えない』
である。
戦には勝者がいる。後世を生きる私たちは、えてして勝者の立場から考えようとするものだ。桶狭間の戦であれば、信長の深謀遠慮が、愚かな義元よりも優っていたために、今川軍は敗れたということになる。
戦う前から勝者は勝ちを確信し、敗者は愚か者だから騙されてしまう。という視点を無意識のうちに持って歴史を考えてはいないだろうか?
今シリーズでは徹底的に逆算を廃している。つまり、決着が付くまで、どちらが勝つかは解らないのだ。歴史上の勝敗をくつがえすことはない。桶狭間の戦いは信長の勝利で幕を閉じる。本作でも信長が勝つ。
しかし、登場人物たちのなかで、その結末を予見している者は一人もいない。誰もが暗中模索しながら、恐れとともに戦場を駈け巡る。その果てに、勝者と敗者に分かれるのだ。信長も義元も最後の最後まで手を抜かない。
必死に勝ちを求めたその末に、彼等は桶狭間の地にて邂逅を果たす。
正面からの激突なのか。
背後からの奇襲なのか。
それはご自身の目で確かめていただきたい。
【『戦(いくさ)百景 桶狭間の戦い』あらすじ】
事の起こりは今川義元敗死の6年前に遡る。天文23年(1554年)、「甲相駿三国同盟」が成立すると、甲斐の武田信玄は北の信濃に向かい、相模の北条氏康は東の関東支配を進め、駿河の今川は西の尾張に狙いを定めることが可能になった。義元はそのときすでに「天下」を見つめていた。
他方、尾張の織田信長。父・信秀の急逝によって18歳で家督を継ぐものの、領国内での勢力争いに明け暮れ、ついには弟・信行を謀殺し領主の地位を築く大きな一歩を踏み出した。義元との決戦の3年前のことだった。
永禄3年(1560年)、三国同盟によって後顧の憂いのなくなった義元は、駿河・遠江・三河、三国の兵4万5千を催して西進を開始する。尾張をめざして。対して、一国を治めきっていない信長が結集できる兵数は2千と少し。まともに太刀打ちできそうもない兵力差に、信長はどんな手を打つのか。歴史に名を刻むことになる世紀の奇襲戦が刻々と迫っていた……。