はじめての春⑥
文字数 1,348文字
用具室の前の狭い通路で、先ほど長谷さんに言われたことを、俺は涙ながらに訴えた。
「まあ、長谷が言うてることは正しいっちゃ、正しいんやけどな。ベース付近は土がよく動くから、とくに難しいねん」トンボの柄 を杖 () のようにして上半身をあずけながら、甲斐さんは気まずそうにコンクリートの天井を見上げた。
トンボがけも、一人前になるには三年以上の経験が必要だと言われている。
入社以来ずっと聞かされてきた言葉だったが、正直なところ半信半疑だった。決してナメているわけではないけれど、トンボがけなんてただ目に見えるスパイクの足跡を平らにすればいいだけだと思っていた。
「ええか?」と、甲斐さんは試すような視線を俺に向けた。「前にも言うたけど、甲子園のグラウンドは、マウンドを頂点として、放射状に緩やかな下り坂になっとる」
「はい……」それも真っ先に教えられたことだ。ピッチャーの立つマウンドから山のように全方向に向けて勾配 () ができているおかげで、水捌 () けがいいグラウンドになっている。
「この形状を保ってるからこそ、急な降雨があっても、水がうまく外に向かって流れていくわけや。完璧とはいかないまでも、水溜 () まりはそこまでできにくい」
トランペットや大太鼓、メガホンの音が、周囲の壁や床を揺らしはじめた。巨人の攻撃がはじまったようだ。ウグイス嬢の声がバッターの名前を告げる。
「けどな、当然、試合中は選手が走ったり、滑 () りこんだりで、土が移動するやろ? 二塁ベース一つとっても、どんどん選手がスライディングしていったら、土はかたよっていくばっかりや」
言われてみれば、そうだ。当たり前の話だ。
人が動けば、土も動く。すると、きれいな勾配は崩 () れてしまう。
「選手の動きだけやない。風でも、土や砂はたえず移動してる。だから一見、わかりやすい凸凹 () を均したように見えても、動いた土をもとの場所に戻してやらんとトンボをかけた意味があれへん。もちろん、さっきみたいな短時間の整備やと限界はあんねんけどな」
理路整然と説 () かれて、俺は理解した。「逆だ」と、言われたのは、本当に「逆」だったのだ。土がかたよってしまったベース付近に、さらに土をよせてしまった……。
「トンボがけは表面を均すのと同時に、移動した土をしかるべき場所に戻してやる作業なんや。これは、バンカーでは絶対にでけへんデリケートな仕事やな。人間がしっかり目で見て、微細なところまでトンボがけせぇへんと、土が減ったところに、大きな水溜まりができやすくなるやろ」
バンカーとは、車体の後部に大きなブラシがついた整備カーのことだ。たしかに、表面をただ均すだけなら、つねに機械を走らせていれば事足りることだ。そっちのほうが、断然早い。
ずっと疑問だったことが、ようやくとけて俺は大きく頭を下げた。
「大事なのは表面だけやない。甲子園の土は、深さ三十センチまで敷きつめられてんねん。こんなに土が深いのは、まあ、甲子園球場しかないやろな。その奥の層のコンディションを察知できるようにならんと、一人前にはなれへんで」
「甲斐さん、ありがとうございます!」
→はじめての春⑦に続く
「まあ、長谷が言うてることは正しいっちゃ、正しいんやけどな。ベース付近は土がよく動くから、とくに難しいねん」トンボの
トンボがけも、一人前になるには三年以上の経験が必要だと言われている。
入社以来ずっと聞かされてきた言葉だったが、正直なところ半信半疑だった。決してナメているわけではないけれど、トンボがけなんてただ目に見えるスパイクの足跡を平らにすればいいだけだと思っていた。
「ええか?」と、甲斐さんは試すような視線を俺に向けた。「前にも言うたけど、甲子園のグラウンドは、マウンドを頂点として、放射状に緩やかな下り坂になっとる」
「はい……」それも真っ先に教えられたことだ。ピッチャーの立つマウンドから山のように全方向に向けて
「この形状を保ってるからこそ、急な降雨があっても、水がうまく外に向かって流れていくわけや。完璧とはいかないまでも、水
トランペットや大太鼓、メガホンの音が、周囲の壁や床を揺らしはじめた。巨人の攻撃がはじまったようだ。ウグイス嬢の声がバッターの名前を告げる。
「けどな、当然、試合中は選手が走ったり、
言われてみれば、そうだ。当たり前の話だ。
人が動けば、土も動く。すると、きれいな勾配は
「選手の動きだけやない。風でも、土や砂はたえず移動してる。だから一見、わかりやすい
理路整然と
「トンボがけは表面を均すのと同時に、移動した土をしかるべき場所に戻してやる作業なんや。これは、バンカーでは絶対にでけへんデリケートな仕事やな。人間がしっかり目で見て、微細なところまでトンボがけせぇへんと、土が減ったところに、大きな水溜まりができやすくなるやろ」
バンカーとは、車体の後部に大きなブラシがついた整備カーのことだ。たしかに、表面をただ均すだけなら、つねに機械を走らせていれば事足りることだ。そっちのほうが、断然早い。
ずっと疑問だったことが、ようやくとけて俺は大きく頭を下げた。
「大事なのは表面だけやない。甲子園の土は、深さ三十センチまで敷きつめられてんねん。こんなに土が深いのは、まあ、甲子園球場しかないやろな。その奥の層のコンディションを察知できるようにならんと、一人前にはなれへんで」
「甲斐さん、ありがとうございます!」
→はじめての春⑦に続く