■SS『無敵の城主は恋に落ちる』特別番外編「夏の旅」春原いずみ

文字数 3,491文字


 街を出ると、少しだけ風が吹き始めた。道端の草がそよそよと葉を揺らしている。
「意外に遠かったんだな……」
 助手席に座った城之内聡史がつぶやいた。ハンドルを握っている姫宮蓮が、え? という顔をする。
「本当に行ったことなかったんですね」
「ないよ」
 エアコンは止めずに、城之内は少しだけ窓を開けた。
 城之内の兄、健史と姫宮が出た英成学院は、静かな山の中腹にある全寮制の中高一貫教育学校だ。城之内兄弟の父が、その学校の出身で、受験に必須の卒業生からの推薦状がもらえるので、城之内も進学を勧められたのだが、小学校を卒業して、すぐに全寮制学校に進むのが怖くて、城之内は幼稚園から通っている東興学院にそのまま残ったのだ。
 そして、クリニックを開業して、初めての夏休み。城之内は姫宮にねだった。
『英成学院に行ってみたい』と。
「だから、言っただろ? 学園祭とかもあったけど、両親は仕事命で、そんなところに行こうともしなかったって。第一、兄貴も来いとは言わなかったし」
「まぁ……見るほどのものではありませんしね」
 姫宮はさらりと言った。
「全校で六百人の小規模学校です。学園祭と言っても、本当に内輪のお祭りですから」
「でもさ」
 二人の間に置いてあるタンブラーを取って、城之内はコーヒーを一口飲んだ。
「英成って、隠れたるエリート校だろ? 学園祭って、年に一回だけ、校内が開放される時で、結構見学者は多いって聞いたぜ?」
 姫宮はゆっくりとハンドルを切る。車は城之内のものだ。ドイツ車ではあるが、右ハンドルのワンボックスで、十年くらい乗っている代物だが、どこも悪いところはないので、買い換えるつもりもない。
 姫宮の運転は安定していて、かなり上手い。気をつけていないと、助手席でうとうとしそうになるレベルである。
「確かに、見に来る人は多かったですけど、学園祭自体はこぢんまりしているんですよ。まぁ……過去には、語り草になるようなものもあったようですが」
 車の中という密閉空間で、一メートルも離れていないところで、二人きりだ。姫宮がいつも微かに香らせているグリーンノートの爽やかな香りがする。
「あんたさ……」
「姫宮です」
「ごめん」
 いつものやりとりをしてから、城之内は言った。
「姫宮先生って、いっつもいい匂いするよな」
「いい匂い?」
 赤信号で車が止まった。姫宮も手を伸ばして、二つ置いておいたタンブラーの一方を取る。城之内はホットコーヒー、姫宮はアイスコーヒーを入れてある。一口飲んで、タンブラーを戻した。
「うん。何かつけてる?」
「……気になるほどですか?」
 姫宮が少し困ったような顔をしている。めずらしい表情だ。
「とても好きな香りなので、ついつけてしまうんですが。気になるようでしたら……」
「いや、違う違う」
 城之内は慌てて、手を振った。
「単純にいい匂いだからさ。何か、すごく爽やかな夏って感じで」
 信号が青になった。姫宮はゆっくりと慎重に車を出す。
「年中これですけどね」
 車は少しずつひなびた風景に移り変わる道を走っている。
「……子供の頃に、いつもいい香りをさせている人に会ったんです」
「いい香り?」
 城之内は外科系医師という職業柄、着替えたり、シャワーを浴びたりすることがしょっちゅうなので、トワレやコロンをつける習慣がない。せいぜい、朝ひげを剃った後にはたくローションくらいのものだ。兄の健史は、スーツ姿がデフォルトのMRという仕事柄、いつも微かにトワレの香りをさせているが、城之内はコロンの一本も持っていない。
「ええ。今となっては、それが何の香りなのかはもうわかりませんが、何となく、気に入ったいい香りを感じると、心が落ち着く気がして、つい……」
「いや、だから、別にいいんだって。本当に傍に寄らないとわからないくらいだし」
 朝会う時は、本当に爽やかでみずみずしい香りがするのだが、お昼に会う時には、柔らかく肌に馴染んで、落ち着いた香りに変わっている。兄に聞いてみたら、きちんと調香された香水は、香りが変わっていくのだという。
 城之内は開けていた窓を閉めた。風が舞い込んでくると、彼から漂ういい香りが消えてしまう。夏そのもののような爽やかな香りが。
「……学院というと、私にとってはシトラスの香りなんです」
 姫宮がぽつりと言った。
「英成学院にいた頃、学院の裏に夏みかんの木がたくさんあったんです」
「夏みかん?」
「ええ」
 城之内の問いに、姫宮が頷く。
「雪もほとんど降らないところでしたから、秋になった実をそのままにして冬を越させて、翌年の初夏の頃に収穫するんです」
「へぇ……」
「みんなで鋏を持って、大きな夏みかんを収穫するのは楽しかったですね。まぁ、そのままではあまり食べませんでしたけど」
 姫宮がくすくす笑っている。
「英成は裕福な家の子弟がほとんどでしたから、みんな口はおごっているんです。かなり酸味の強い夏みかんはとても食べられませんでした。料理好きなやつが寮のキッチンでマーマレードにしたり、食事の面倒を見てくれていたおばさんたちが持ち帰ったり。実家に送るものもいましたね。香りはすごくいいし、マーマレードにすると確かに美味しかったので」
「夏みかんか……」
 言われてみれば、最近食べるのは、甘みの強い柑橘ばかりだ。両親の昔語りで「夏みかんに砂糖つけて食べたり、半分に割ったグレープフルーツに砂糖かけて、スプーンですくって食べたんだ」などと聞いたことはあったが、城之内自身はそんな食べ方をしたことがない。
「今はどうしているんでしょうね。今でも、夏みかんの木はあるんでしょうか」
「それで、あ……姫宮先生は柑橘系の香りをつけているのか……」
 姫宮がまとっている香りは、朝の内は爽やかなみかんやライムの香りだ。
「正確には、シトラス寄りのグリーンノートというらしいです」
 山が近づいてきた。見上げると、豊かな緑の間に、ひっそりと隠れるように、何か建物の姿が見える。
「この香りを最初に嗅いだ時、何だかとても懐かしい気持ちになりました」
 ゆっくりとハンドルを切る。車は小さな橋を渡って、可愛らしい町に入っていく。
「子供時代を懐かしむ気持ちはありません。確かに、経済的には豊かでしたが、正直、あまり思い出したくない記憶もたくさんありますので」
 姫宮は淡々と言った。
「でも、この香りには、不思議な懐かしさを感じたんです。そして、なぜか、ほっとしてしまったんです」
「うちの兄貴がよく言うんだけどさ」
 城之内は両手を頭の後ろで組んだ。
「英成学院時代は、兄貴にとって、夢の時間だったって」
「夢の時間?」
「そう。悪夢もあるけど、いい夢もある。今でも、あそこで起きたすべてが夢なんじゃないかと思うくらい、今の生活とはかけ離れた、ふわふわとした時間だったって」
 兄の言葉に、父も頷いていたことを思い出す。
 山の中の小さな全寮制学校。閉じられた空間ではあったが、そこには確かに満たされた時間があった。父と兄の穏やかで懐かしげな表情を見る度に、城之内は少しだけ、それがうらやましかった。そして、同じ空間で青春を過ごした姫宮も。
「確かにそうかもしれません」
 姫宮はふわりと微笑んだ。
「みんなから『プリンス』と呼ばれていた城之内先輩に可愛がっていただいたあの時間は、確かに夢のようでした」
「え」
 城之内ははっと我に返る。
「可愛がってって……」
「いけませんか?」
 姫宮の口元が笑っている。ふわっと香るのは、彼がまとう青春の香りである、ライムバジル&マンダリン。
「……別に」
 城之内は目を閉じる。
「ついたら起こして。朝早かったから眠くなった」
「はい」
 もうじき、彼の青春に触れることができる。
 心地よい香りに包まれながら、城之内は浅い眠りに落ちていった。 



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