『戦百景 桶狭間の戦い』完全ガイド①

文字数 1,387文字

シリーズ第1弾で「細谷正充賞」を受賞。そして第2弾は、歴史の流れを変えた「日本三大奇襲」の一つを描写。なぜ奇跡は起きたのか!──織田信長の名を天下にとどろかせた有名な合戦を深掘りする『戦百景 桶狭間の戦い』

これから読む方にも、読んだ方にもおすすめの、物語をより楽しむための作品ガイドです!

【桶狭間の戦いとは】

家督を継いで間もない信長はまだ尾張を治めきっておらず、総動員兵力は多く見積もっても5000人程度だった。それに対して、駿河・遠江・三河の兵を動員した今川の西進軍は最大5万余とも言われる。その絶対的な兵力差にもかかわらず信長は乾坤一擲、奇襲によって義元を討ち取った。この戦を境に信長は有力戦国大名の仲間入りを果たし、徳川家康は隷属していた今川家からの独立を勝ち取る。そして敗れた今川家は家運を大きく傾け、滅亡への坂道を転がり落ちてゆくのであった。

【『戦(いくさ)百景 桶狭間の戦い』あらすじ】

 事の起こりは今川義元敗死の6年前に遡る。天文23年(1554年)、「甲相駿三国同盟」が成立すると、甲斐の武田信玄は北の信濃に向かい、相模の北条氏康は東の関東支配を進め、駿河の今川は西の尾張に狙いを定めることが可能になった。義元はそのときすでに「天下」を見つめていた。

 他方、尾張の織田信長。父・信秀の急逝によって18歳で家督を継ぐものの、領国内での勢力争いに明け暮れ、ついには弟・信行を謀殺し領主の地位を築く大きな一歩を踏み出した。義元との決戦の3年前のことだった。

 永禄3年(1560年)、三国同盟によって後顧の憂いのなくなった義元は、駿河・遠江・三河、三国の兵4万5千を催して西進を開始する。尾張をめざして。対して、一国を治めきっていない信長が結集できる兵数は2千と少し。まともに太刀打ちできそうもない兵力差に、信長はどんな手を打つのか。歴史に名を刻むことになる世紀の奇襲戦が刻々と迫っていた……。

桶狭間の戦い 進路図    マップ制作/ジェイ・マップ
桶狭間の戦いを時系列で追う!


永禄3年(1560年)

5/12 義元

●駿河・遠江・三河の兵45000を引き連れ駿府城を進発。

5/18 信長

●清洲城で軍議を開くも、籠城か出撃かの結論は出ず。


5/17 義元

●今川方の最前線の一つ・沓掛城に入り、織田領進撃準備。

5/18 松平元康

●今川方のもう一つの前線基地・大高城に、兵糧を搬入。

19日AM3:00 元康

●織田方の鷲津砦と丸根砦を、朝比奈泰朝とともに攻撃開始。

19日AM4:00 信長

●幸若舞を舞ったあと、近習衆数名と清洲城から出陣。

19日AM7:30 元康

●鷲津砦と丸根砦が陥落。泰朝は待機し元康は大高城へ。

19日AM8:00 信長

●熱田神宮で先勝祈願をするが、合流した兵数はまだ200。

19日AM10:00 信長

●丹下砦を経て善照寺砦に入る。兵数は2000に膨らむ。

19日AM10:00 義元

●本隊が沓掛城を出て、大高城へと移動を開始する。

19日AM12:00 信長

●中島砦に入ると義元の位置情報を得て、桶狭間山をめざす。

19日AM12:00 義元

●桶狭間山に到着し休憩を取っていると、豪雨に見舞われる。

19日PM2:00 信長・義元

●織田勢が今川本陣へ。服部小平太と毛利新介が義元の首を!


※次回は著者・矢野隆による書下ろしエッセイ! お楽しみに!

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